イライラする。どうしようもない感情だ。 これが嫉妬というものであると気付くのにそう時間はかからなかった。 兵太夫は暗い夜道を歩いていた。今夜は幸いにして月が出ていない。兵太夫がこっそり長屋を抜け出し、色町に繰り出したのを見た者は居ないだろう。事務員の小松田が夜の見回りに長屋を廻っているうちに、塀を飛び越えて外に出た。この苛立ちを何かで鎮めなければと思った。そうなると、女と戯れることしか知らなかった。もともと兵太夫は女好きではない。三治郎と出逢い、恋情を抱く前から、ずっとそうだった。特に遊女は、おしろいの匂いがきつくて近寄りたくもないという有様だった。しかし今夜は違った。誰かにこの感情をぶつけなければ、自分が壊れてしまうと思った。 気が付いたら、兵太夫は自分が色町を歩いていることを知った。 数刻ほど遊んで、金の関係もあったが早々と切り上げてきた。矢張り女は苦手だと思った。おしろいの匂いが染みついて、取れないのが憎らしい。本当ならば三治郎と、他愛のない話でもして笑い合っていただろうに。どうして自分だけがこんな惨めな思いをしなければならないのか。どうして自分だけが、金を払い好きでもない女を抱かなければならないのか。兵太夫はそれが悔しかった。悔しくて、何度か唇を噛んだ。 ようやく学園の塀までたどり着くと、壁に足をかけ勢いをつけて駆け上った。端から見たら一瞬の出来事だっただろう。遙かに高い塀を軽々と飛び越えると、音もなく学園内の敷地に着地する。何の間違いもない完璧な動きだ。そのまま足音を忍ばせて忍たま長屋に戻っていく。 学園を抜け出して酒を買いに行ったり女を買いに行くことは、6年生にもなればよくあることだった。兵太夫もよく仲間と連れだって酒や肴の買い出しに出かけたこともある。ゆえに最早長屋を抜けることはお手の物だった。見回りの教師や事務員に見つからぬよう、極力気配を消して塀を飛び越えるのも、今となっては簡単なことだ。あとは気付かれぬよう自室に戻り、何喰わぬ顔で布団に潜り込めば良い。 しかし今夜は自室に戻るのは何となく気が向かなかった。当然だ。同室の三治郎と昼間喧嘩をしたのだから。喧嘩と言っても、兵太夫が一方的に突き放したのだったが、夕食のときは顔も合わせなかった。 三治郎は今頃もう床についているだろう。それならそれで良い。余計な事を言われなくて済む。真面目な三治郎は、兵太夫が色町に行ったと知ったらきっと顔を顰めるだろうから。 そっとは組の長屋の廊下を歩き、自室の戸の前に立つ。耳を傍立てると、何の音もしない。矢張りもう寝たのだろう。そう思い、戸を静かに開けた。 「…おかえりなさい」 びくっと肩が震えた。 目の前には丁寧に並べられたふたつの布団。そして、その向こう側の文机の前に、三治郎がちょこんと座っていた。 「ずいぶん遅いお帰りで」 「……。」 火の灯っていない部屋は真っ暗で、三治郎の表情は拝めない。しかしきっと、兵太夫の想像していた通りの顔をしている。 「…遊んできたの?」 「うるさい」 ぴしゃりと言い捨てた。兵太夫は後ろ手に戸を閉めると、敷かれてあった自分の布団の上に腰を下ろした。 「兵ちゃん」 「なんだよ」 「…悪かったって、思ってる」 昼間の事を言っているのだろう。三治郎の声は沈んでいた。 「ごめんね、あんなに怒るなんて思わなかったから…わたし…」 「もういいよ」 ああ、またこの展開だ。兵太夫はうんざりと肩を落とした。 一向に進展しない堂々巡りの言い合い。それは恐らく己の素直にならない心が原因している。だがしかし、今夜の腹の虫はそう簡単に静まってくれるものではなかった。どこの誰かもわからぬ女を抱いたときから、感じていたざらりとした罪悪感が、じわじわと這い上がって来て吐き気がした。 「もう、いいから」 三治郎に背を向ける形でごろんと寝転がった。この布団は三治郎が敷いてくれたのだろう。冷たい布団に、上気した頬を押しつける。 「でもさ兵ちゃん」 急に三治郎の声が高くなった。 「…なんでそんなに怒るの?わたし、謝ったじゃない」 「は?」 頭の中で、何かが弾けるのがわかった。兵太夫がすぐに体を起こすと、三治郎を睨み据えた。もっとも部屋は真っ暗で、何も見えないのだけれど。 「謝ったから、じゃないだろ?こっちがどんな思いで出て行ったのかおまえ、わかるのか?」 「でもだからって、見せつけるように遊びに行くのはおかしいよ!」 三治郎の珍しく怒気を含んだ言葉に、兵太夫は更に苛立った。 こいつ何もわかっちゃいない。 「明日、実習だよ?そんな酒の匂いさせて出る気?」 「…っうるさいな!関係ないだろ!」 酔っているのはわかっていた。まだ頭の芯がぼうっとする。 しかし感情は溢れ出るように、怒りとして三治郎に向かっていた。 「最初に裏切ったのは三治のほうだろ!」 「裏切った…?なに、言ってる、」 「とぼけるなよ、こっちは全部見てたよ。男に告白されたろ、校舎裏で。おまけに、口づけまで貰って。折角待ってやってたのに、どういうつもり?俺をバカにしているのか?」 三治郎はあ、と声を洩らした。 場の空気が一瞬にして凍り付く。 「ふざけるなよ三治、自分ばかり正しいと思いやがって。」 「思って、ない」 「嘘つけ。さっきだってそうだ。俺が遊んだら注意して、何の真似だ?おまえだって男にちやほやされて、いい気になってるじゃないか」 「なんだよ、それ…」 次第に震えていく三治郎の声を無視して、兵太夫は吐き捨てるように言った。 「…離れないって、言ったくせに。」 「ち、ちがっ」 「もういい。うるさいよ、三治」 耳を塞いだ。もう、声も聞きたくなかった。 これ以上言い合っていると、何かが崩壊していく気がした。…いや、恐らくもう、崩壊しているのだろう。三治郎が誰かに口づけされたとき、あれが、終末の鐘だったのだ。 「もういいよ…」 布団に潜り込んで、身を縮めた。 酒のせいで頭はぼんやりしていて意識が定まらない。明日は実習…先刻三治郎に言われた言葉を思い出す。こんな状態で、実習…か。 やがて三治郎も諦めたように布団に入ったらしい。一気に気配が消え、部屋のなかは完全に閉鎖的な暗さに包まれた。 息苦しさを覚え、ぎゅっと目を瞑ると、今し方抱いた女の顔が浮かんできて、鳥肌が立った。 ああ、もう、厭だ。 何もかもがおかしくなっている。自分も、三治郎も。 どうしてだ。今まで何の問題もなくやってこれたじゃないか。どうして、今さら。 悔しかった。三治郎が他の男に取られたことも、それを知って未だに自分の元を去らないことも。三治郎がおかしいのか、それとも己がおかしいのか――?…わからない。 意識がだんだん闇に埋没していく。 いつの間にか、兵太夫は眠りに落ちていた。 翌朝、目が覚めると隣の布団は疾うに仕舞われていた。いつものことだが、今朝はいつも以上に胸に穴が開いたような虚しさを感じる。昨夜のことは余り覚えていない。三治郎と激しい言い合いになって、三治郎が何かを言いかけて…それで…自分は、それも聞かずに布団に逃げ込んだ。 未だふらつく意識を無理矢理覚醒させて、兵太夫は体を起こした。寝具を脱ぎ、枕元に置いてあった制服に袖を通す。立ち上がりざまにぐらりと足下が揺れた。 2日酔い、だ。 胃もムカムカして、朝食を食べる気にならなかった。 矢張り三治郎と顔を合わせるのも厭で、兵太夫は食堂には行かず、授業が始まるまで部屋で時間を過ごすことにした。暫くすれば朝食を終えた三治郎が戻ってくることも想定して、落ち着いたら外に出て風に当たろう。そうすればきっと、目も覚める。 兵太夫はそう決めると、片づけたばかりの布団があった場所に大の字に寝転がった。 天井の染みを見るともなしに見ていると、ぐるりと視界が廻った。 …気持ち、悪い。 すぐに目を瞑る。すると昨夜の出来事が、鮮やかに蘇ってきた。 暗闇で好き勝手なことを言い合う人間が2人。いや、好き勝手言っていたのはどちらか。 あのとき、三治郎は何を言いたかったのだろう。そう言えば、自分ばかり叫んでいたような気がする。 「違う」 そう、言いたかったのではないか。しかし、とも思う。 いくら違うと言っても、恐らく兵太夫は、否定していただろう。 違わない。三治郎は自分から裏切り、兵太夫を突き放した。突き放したのなら、突き放したまま放っておけば良いのに。無理矢理繕ってまた兵太夫の元に戻ってくる三治郎を、許せない、と思ったのだ。 汚いのはどっちだ。裏切ったのは、どっちだ。 三治郎が居ない部屋で、悶々と思考を巡らせていても、結局具合が悪くなるだけで何の解決にもならないことはわかっていた。わかっていた。だが。 「あー、もうバカみたい」 どれほど己が三治郎に依存していたのか、ようやくわかった気がした。 己には三治郎しか居ないと思っていた。三治郎も、己しか居ないと思っていれば良いと思っていた。所詮、願望に過ぎなかったのかも知れない。 虚しさが心を締め付けて、兵太夫は起き上がった。また世界が、ぐらりと揺れた。 こんな日にどうして実習なんかが入るのか。もう八つ当たりはあらゆるものに向かっていた。情けない。三治郎が聞いたらきっとそう言うだろうな。 「誰のせいだと思ってるんだよ…」 呟いて、兵太夫は部屋をあとにした。 結局実習の時間まで、兵太夫と三治郎が声を掛け合うことはなかった。集合場所に行き、は組のなかに三治郎を見つけたとき、兵太夫の心臓はじわりと音を立てて焼かれた。三治郎は普段と変わらない様子で教師の話に耳を傾けている。兵太夫は出来るだけ顔を合わせないよう、は組の最後列に隠れるように収まった。 三治郎は何を考え、思っているんだろう。真面目なあいつのことだから、実習の内容しか頭にないんだろうな。 昨夜のことは覚えているだろうか、と思い、妙に苛立ちを覚えてすぐに思考を停止した。 いまは授業に集中することを一番に考えるべきだ。 まだ足下は覚束無いが、やってやれないことはないだろう。 今日の実習はい組との合同訓練だ。ゼッケンを渡されたものを捕らえ、捕らえられた数の多い方が勝ちとなる。勝ち負けがかかると俄然やる気の出すは組は、今回い組に”追われる側”になった。そしてゼッケンは喜三太、虎若、伊助、乱太郎、きり丸、しんべヱ、そして兵太夫である。残りの4人はこのゼッケンを着ている者を死守する側にまわる。即ち庄左ヱ門、金吾、団蔵、三治郎だ。 場所は学園の裏山一帯となり、制限は特にない。この時期になると最早実践に近い授業が入り、武器の使用も可能になる。 もともと折り合いの悪いは組とい組は互いに激しい敵意を持って居る。今回の授業は、は組とい組の担任がその仲の悪さを利用して、実際の戦闘に強い集団を作るために考え出されたものだった。 「い組なんかに負けるなよ!」 「おう!」 は組の連中が陣をを組んで笑い合っているなか、兵太夫ひとりが離れた場所で浮かない顔をして突っ立って居た。三治郎もあの陣のなかに居る。そして笑っている。肩なんか叩かれて。 「…くそ」 大丈夫だと思っていた体も、時間を追うごとに頭痛が非道くなり、立っているのもつらくなってきた。ふらつく体を木の幹に手をかけて何とか保ったが、脈打つたびにガンガンと鳴る頭はどうしても止まってくれなかった。 実習が始まった。 ゼッケンを着ている者はとにかく逃げることを優先させる。逃げて、隠れる。全員がちりぢりになりひとかたまりにはならぬよう厳重に注意された。は組の頭脳、庄左ヱ門からである。 授業の前、作戦を立てる庄左ヱ門の言葉も兵太夫は右から左に聞き流していた。最早体は限界だった。みな真剣な顔をして庄左ヱ門を見つめているなか、兵太夫は少し離れてぼんやり地面を見つめていた。 「兵太、聞いてる?」 庄左ヱ門に諭されて、なんとか頭を持ち上げ「聞いてる」とぶっきらぼうに答えると、みなが一様に怪訝そうな顔をして見せた。ただひとり、三治郎を除いて。 三治郎だけが兵太夫を見なかった。 兵太夫もそのことに気付いていたが、今はそれどころじゃなかった。 頭は次第に痛みを増していき、まるで殴られているようだ。 「それじゃあ、健闘を祈る。」 散、と言う合図とともに全員が散った。兵太夫もそれに続く。 霞む視界に、三治郎がこちらをちらりと見たような、気がした。 [ ← ] [ → ] [ 2007/10/04 ] |