風を切る音がして、頬を苦無が掠めた。狙われている。そう確信するより早く、体は動いていた。兵太夫は転がるように草むらに逃げ込むと、膝を立てて背後の様子を伺った。どうやら敵は別の方向に向かったらしい。それらしい気配は無かった。 少し動いただけでも頭痛はその痛みを増していく。痛みだけでなく、頭重感もあり何とも言えない気持ちの悪さだ。しかし此処は忍術学園、甘えは通用しない。 みな命懸けで訓練に臨んでいるのだ。二日酔いだからとうかうかしては居られない。一瞬の油断が命取りになる。この緊張感が、体調を更に悪化させることになる。 兵太夫は傍にあった木の幹に身を任せるとひとつ大きなため息を吐いた。くそ、と心の中で呟く。普段ならこんな実習訓練、何の問題もなくこなせるというのに。 先刻から間一髪のところで逃げ回っている。それが精一杯なのだ。体は次第に重くなり、自由が利かなくなってきた。自業自得とはわかっていても、つい八つ当たりをしたくなる。兵太夫は凭れかかっている木の幹を、拳で思いっきり叩いてやった。 空を見上げると、澄み渡るような青空だった。何羽かの鳥が群れをなして飛んでいくのが見える。他のは組の連中はうまく逃げただろうか。 ――三治郎は? 自分は守られる側だと解っていても、守る側だって狙われる危険がある。味方をどんどん減らしていって最終的に残った者が少ないほうが負けなのだ。 三治郎はどうしただろう。怪我を負っていないだろうか。ふとそんな考えが浮かび、いやそれ以前に、己の心配をするほうが賢明だと思い直した。 兵太夫は再び背後の気配を確認すると、立ち上がった。 ――その時だ。 「…っ!」 突然ひゅんっと言う音がして、目の前を縄標が鋭い早さで横切っていった。 (見つかった!) やばいと思ったときには既に遅く。何者かの影が兵太夫を囲んだ。 「一人目!」 叫び声を聞こえたのと、兵太夫が身を転がしたのは同時だった。い組の生徒が飛ばした縄標が兵太夫の頭上を掠め、背後の木の幹に突き刺さった。 「ちぃっ」 軽く舌打ちをして敵は第二発目を放ってくる。周りは木に囲まれており逃げ場所はない。兵太夫は立ち膝の状態で苦無を構えると、飛んできた縄標をすんでの所で跳ね返した。 しかし攻撃が止むことはなかった。縄標がかわされたと解ると敵は忍刀を抜き取り兵太夫向かって一気に走り寄った。 「うっ!」 不意に眩暈がして兵太夫はよろけた。そこの隙をついて、敵はあっという間に兵太夫の胸ぐらを掴むと刀を振りかざした。 きぃんっと音が響き、兵太夫は無意識に苦無でそれを防いだ。 殆ど馬乗りにされている状態で、視界はぐるぐると廻る。しかし兵太夫は渾身の力を振り絞り、己の腹の上に乗っている敵を突き飛ばすと、身を木の幹に任せた。 息が上がっているのは敵の目にも明らかだった。 まずい。本気で、まずい。 実技の授業中、死んだ生徒も居る。そのひとりになるのは、まっぴらごめんだ。 「しつこいなおまえ」 どっちが、と兵太夫は舌打ちした。敵の声は幼く、笑っているようにも見えた。 「いい加減諦めろ!」 再び縄標が投げられる。その時、一瞬足下が揺らいだ。 (な…っ) ぐらり。視野が狭くなる、敵の顔が大きく歪んだ。 立っていられなくなり、兵太夫は顔をぐっと伏せた。 「覚悟しやがれ!!」 声が遠くに聞こえる。 縄標の切っ先が鋭く光るのが見えた。…ああ、終わったな。 気分の悪さが兵太夫を投げやりにした。もう、どうなっても構わない。死ぬのならそれで、いい。 今まで必死で抵抗してきた自分が阿呆のように思えてきて、兵太夫は口元を歪めた。 縄標が風を切る。やがてそれは己に突き刺さる。何処に刺さるのだろう。頭を下に向けているから、矢張り脳天だろう。 死ぬな。そう、思った瞬間。 一瞬、静寂があたりを包み込んだ。 兵太夫は閉じていた目で意識が戻ってくるのを感じていた。 …痛く、ない。何処も、怪我をしていない。 それどころか、何かが自分に覆い被さっている気配を感じた。 「…っ」 その”何か”が呻いたのを聞き、そろそろと目を開ける。 「…さ、さん、じ…っ?!」 目の前に、苦痛に歪んだ三治郎の顔があった。幹に手をつき、丁度兵太夫に覆い被さるように、縄標から兵太夫を守るように。 「…なに、やってんの…兵太…」 「な、なにって…」 兵太夫は瞠目した。三治郎の肩口から、とろりと流れ出ている赤い液体――血を見たからだ。 「三治、なん、で…」 「逃げろよバカ!」 「えっ」 三治郎は一声怒鳴ると、体を離して敵と向き直った。背中――肩の近くに縄標が深く突き刺さっていた。 敵は刀を再び抜くと、息する間もなく三治郎に走り寄っていた。 「…っ!」 三治郎は振り返りざまに一発、袈裟に斬りつけられた。鮮やかな血液がほとばしる。ぴぴぴっと兵太夫の頬に数滴ふりかかった。 三治郎!と叫びたかった。…しかしそれは叶わなかった。 「何ぼやぼやしてるんだっ」 すらりと忍刀を抜き取って、三治郎がそう叫んだからだ。 「逃げろ!バカ兵太!」 「…っ」 言われるまま、兵太夫は三治郎に背中を向けて走っていく。もう、振り返らなかった。刃物同士がぶつかり合う音が次第に遠くなっていく。最低だ!と兵太夫は心の中で叫んだ。 授業終了の鐘が鳴り、生徒達は一度学園に戻ってきた。 結果はは組の圧勝。 怪我人が数十人、行方不明者が数名、死亡は――不確定だ。 「兵太夫、大丈夫か」 教師達が終了の号令をかけたあとも、ぼんやりしていた兵太夫に庄左ヱ門が声をかけた。 はっとして周りを見ると、は組の皆が一様にこちらを見ている。 「……さん…三治郎は…?」 震える声で、何とか聞きたかったことを問うた。 「医務室で治療を受けている。かなり深い傷らしい」 「そう…」 「大丈夫だって!三治郎を信じてやって!」 急に背中をばんと叩かれて、振り返ると喜三太だった。にこにこ笑ってはいるが、その笑顔には影があった。 実習の終わりを告げられ、戻ってきた時には既に三治郎の姿は無かった。 矢張りあの敵との疵が相当だったのだろうと思うと、兵太夫は胸が軋んだ。 なんで、なんで、なんで。 あんなに非道い事言ったのに、どうして。 そう問えば、恐らく彼は「授業だから」と言うだろう。 だけど。 「厭だ…」 涙が、零れそうだった。 人気のない廊下は果てしなく遠い物のに感じられる。医務室へ向かう足取りは次第に重くなり、あと数歩というところで、足が止まった。 (もし、三治郎が…) どきりとした。 呻り声。縄標の刺さった肩。 そして、頬にかかった鮮血。 すべてが生々しく蘇り、兵太夫は頭を振って厭な考えを払おうとした。 しかし一度考え出したら思考は留まることを知らず。 (死亡者は…不確定…) 医務室に居るのは重傷を負った何人かで、そのうち死亡者も現れるだろう。兵太夫はその中に三治郎が含まれていない事を切実に願った。 「失礼…します…」 そろそろと戸を開けると、鼻をつく薬草の匂いがした。 「おや笹山くんですか?」 「新野先生…」 いくつも並んだ衝立の向こう側から、校医の新野が顔を出した。 「まだ面会は禁止だと先生に言われなかったかね」 「すみません、しかし」 重傷者が多いため、医務室には行くなと釘を刺されたのは知っていた。しかし逢わなければならないと思った。逢って、話さなければ。 「まぁいいでしょう」 新野はにっこりと微笑んで、立ち上がった。 「あの…三治…夢前は居ますか」 「夢前くんなら、此処に」 促されて、一番奥の衝立を覗き込んだ。そこには、額と肩に包帯を巻かれた三治郎が横たわっていた。 「薬が効いて眠っているだけですから、心配は要りませんよ」 「そう…ですか…」 ほっと胸をなで下ろした。命に別状が無いだけでも嬉しいことだった。 しかしほっとしたのも束の間、兵太夫はぽろぽろと涙を零していた。 「笹山くん?」 「っ…す…みませっ…」 新野に顔を見られたくなくて、そっと背けた。その先に三治郎が居る。余計に涙が零れ落ちて、止まらなくなった。 「…落ち着きなさい。大丈夫なのだから」 「……っふ…はい…」 拭っても拭っても涙は落ちていく。やがて嗚咽が混じり、兵太夫はその場にしゃがみ込んでしまった。 「…笹山くん、わたしは先生に状況報告をしてきますから、留守番宜しくお願いします」 「……はい」 新野は言い残すと、兵太夫を置いて部屋を出て行った。状況報告というのは恐らく表向き――実際そうなのかもしれないが――で、兵太夫に気を遣ったのだろう。 兵太夫はひとり、制服に出来た涙の染みを見つめて、次々に溢れ出てくる感情をどう整理して良いか考えあぐねていた。 「…ん……」 ふと、蚊の泣くような声が三治郎の口から漏れた。 「…!三治郎!」 「…ん…う……?」 瞼が動き、ゆっくりと開けられる。 「…兵ちゃん…?」 「三治郎!三治郎!良かった…!気が付いて…!」 「ど…したの…そんなに泣いて…」 三治郎はまだ虚ろな目で兵太夫を見ていた。 「目、真っ赤…」 「誰のせいだと…っ」 安心すると再び涙が零れてきて、兵太夫はぐいっと手の甲で目を拭いた。 「わたし…どーしたんだっけ…」 「覚えてないの…?」 うん、全然と言いながら三治郎はそっと右手を布団から出して、兵太夫の頬を撫でた。 「わかんないけど…心配かけたようだね…ごめんね」 「…っ」 兵太夫ははっとした。「ごめんね」…また、ごめんね、だ。 確かあの時も、三治郎は言っていた。「ごめんね」と。しかし、己はそれをも無視した。 「……っふ…」 「ちょ、兵ちゃん?」 涙が三治郎の指を伝い、零れ落ちていった。 「ごめ…ごめん…三治…っ」 「え?何で兵ちゃんが謝るのさ」 「わたし…何も知らないで…勝手に怒って…三治の事何も考えなくて…」 次第に思い出してくる、あの夜のこと。 喧嘩は日常茶飯事だった。だけど。 あんなに大きな喧嘩は初めてで、三治郎の態度に腹を立てて。 混乱していた。がむしゃらに女を抱いた自己嫌悪も手伝って。 「ああ…あのときの…」 三治郎は視線を天井に移して呟いた。 「気にしなくて良かったのに。悪いのはわたしなんだから」 「ちがっ違う!」 きゅっと三治郎の手を握った。 「三治は何も悪くないっ わたしが勝手に怒って…」 「でも見てたんでしょう。わたしが、男に口づけされるところ」 「それは…」 「ごめんね」 何と言えばいいのか解らなかった。しかし三治郎は淡々とした口調で 「兵ちゃんが怒るのも無理ないよね…」 と言った。 「あの時ね…告白されたの。ずっと好きだったって。でもね…わたしには兵ちゃんが居るから、無理ですって言ったの。そしたらね、じゃあせめて最後に口づけだけさせてくれって。そうしたらもう寄りつかないからって」 「…そうだったの…」 「うん。わたしあのひと嫌いだった。いつも何かと近寄ってきて、馴れ馴れしいなって思った。わたしには兵ちゃんっていうすっごい恋人が居るのに、本当に鬱陶しかった。だからね」 「だから、口づけを…」 「そう言うこと」 ごめんね、とまた三治郎は言った。 兵太夫は首を振る。謝るのはこちらのほうだ。あの時…最後まで三治郎の言い分を聞かなかったこちらにも非がある。そうしたら、こんな面倒なことにはならなかったはずだ。 「でも…良かった…本当に…」 「わたしが死んだと思った?」 こくり、と頷く。 「大丈夫。死んでないよ」 そう言って、三治郎は両の手で兵太夫の手を握り返した。 「兵ちゃんを残して死ぬわけ無いよ」 「…そう、だね」 温かい。手のぬくもりさえ、愛おしくて。 もうこんな想いはしたくない。三治郎を、失いたくない。 「三治、目、瞑って」 「?なぁに?」 「いいから」 三治郎が目を閉じた瞬間、ちゅっと音を立てて兵太夫は三治郎に唇を重ねた。 「大好き」 「…わたしもだよ」 2人は抱き合うように重なり合って、そう呟き合った。 誰かが見ててくれても構わないとさえ思った。寧ろ、見せつけてやりたいと思った。 三治郎は僕のもの。誰にも渡すものか。手放す気など毛頭無い。 兵太夫は愛しそうに三治郎の髪の毛を撫でて、もう一度頬に口づけを落とす。 もう涙は止まっていて、ただ三治郎の頬の柔らかさが、心地良いと感じた。 [ end ] Heaven's hell / Cocco |