目を覚ますと、隣の布団は既に冷たくなっていて、ああもう顔を洗いに行ったんだなと漠然とおもった。半開きの戸から穏やかな朝日が注ぎ込まれ、だらしなく横になっていた兵太夫を光りが包む。――また、朝がやってきた。
 兵太夫は躰を起こして、あちこちに散らばった自身の髪の毛を鬱陶しそうに掻き上げる。三治郎の朝は早い。恐らくもう顔を洗いに行っているのだろう。兵太夫が朝に弱いのを知って起こさないでいてくれるのも三治郎の気遣いのひとつで、こうして共寝をするようになってからもそれは変わらない。共寝と言っても、2人が躰を重ねたことは一度もなかった。兵太夫から誘ったことは何度かあったがそれでも、三治郎がすべて拒んでいる。しかし兵太夫が布団を頭から被り震えて眠れない夜があってから、半ば成り行きのような状態で一緒の布団で寝るようになった。三治郎に触れていると不思議と躰の震えは収まった。これが安心感であることを6年になったいまようやく兵太夫は知ったのだった。

「あ、おはよー兵ちゃん」
 がらりと戸が開いて、手拭いを首に吊した三治郎がひょっこりと姿を現した。
「…おはよ」
 朝特有の掠れた声でそう返すと、三治郎はにっこり笑って、「もう朝だよ」と言った。
「いい加減起きないと、朝ご飯食いっぱぐれるよ」
「わかってるよ」
 兵太夫はイライラと髪の毛を束ねると、枕元に置いてあった制服を着、顔を洗うために部屋を出て行く。その様子をくすくす笑って三治郎が見ていたのを、兵太夫は知らない。





Heaven's hell 1






「…申し訳ありませんが、」
 学園の裏側、普段は滅多に人が訪れることもない場所に、三治郎は名も知らぬ男と対峙していた。
「ご期待に添えることはできません」
 冷たい口調でそう言い放つと、三治郎と同じ深緑の制服を着た男は頭を掻いて、
「そうか…悪かったな、呼び出したりして」
「いえ…」
 じゃあなと言って、踵を返した。三治郎はその背中が見えなくなってしまうまでずっとそこに立ちつくしたままだった。やがて校舎の角に姿が消えたとき、三治郎はやっと大きく息をついた。
「まーた告白されたの」
 その声にハッとして振り返ると、案の定、兵太夫が苦笑して立っていた。校舎の壁にもたれかかるように、腕を組み、少しだけ険しい表情をしている。
「…なんだよう、兵ちゃんだって同じじゃないか」
「わたしはくノ一からだから。男から告白されたことなんて数えるくらいしかない」
 6年生になって、かつて落ちこぼれと言われていたは組の連中は性別を問わずよくモテるようになった。特に女子からの人気が圧倒的なのは兵太夫と金吾、きり丸で、男子忍たまからは三治郎…ということになっているらしい。この噂は瞬く間に広まり(一体誰が広めたのか、未だに不明であるが)、今では金吾などはからかいの対象になっていたりする。
「ねぇ三治、」
 兵太夫はゆっくりと三治郎に近づくと、その唇に触れるだけの口づけを落とした。
「なぁに」
 三治郎は慣れているのか何も言わない。それより、先刻までの告白されている場面を見られていたことの恥ずかしさのほうが勝っている。
「さっきのやつ、い組のやつだよな。」
「わからない。全然知らないひと」
「ふぅん…」
 ま、いいやと言って兵太夫はもう一度三治郎に口付けた。ちょん、と啄むように、唇と唇を合わせる。
「っていうか兵ちゃん、なんでいつもわたしが呼び出されたこと知ってるのさ」
「そりゃーいつも三治を見てるからね。」
 得意げに胸を張る。嬉しいことではあったが、毎度毎度くっついて廻られるのも迷惑というものだ。しかしそれを兵太夫に言ったところで彼は三治郎について歩くことを止めないだろう。兵太夫の独占欲の強さは、6年間共に過ごした日々が語っている。
 誰にも渡したくないのだ。男だろうが女だろうが、三治郎はいつも自分の隣に居なければならない。
 至極自分勝手な欲望だと思ってはいる。がしかし、どうしようもないのだ。好きなものは手の中に納めておかねば気が済まない。
「あの男には悪いけど、三治にはわたしという恋人が居るって事、あとでわからせてやる」
 冗談なのか本気なのかわからない笑顔で、兵太夫は言った。
「いいよ、そんなことしなくて」
 ふ、と笑って三治郎は言う。
 三治郎が告白される相手は、何故かいつも男子だった。もちろん女子から告白されたこともあるが、今では圧倒的に男子からの告白が多い。恋文も多く貰っている。
 この手の話題に不慣れな三治郎は初めこそどうやって断ったらよいものか悩んだものだが、初めて呼び出されたとき何処からか兵太夫が現れて、三治郎の両肩をがしっと掴み「この子に手、出さないでくれる?」と得意の睨みを利かせて危機を乗り切ったことがあった。それ以来、三治郎が呼び出されると当然のように兵太夫が出てきてはガンを飛ばしてくれる。流石に告白の真っ最中に乱入することは少なくなった昨今だが、陰から覗かれていると思うと気恥ずかしさで三治郎は顔を赤くするのだった。

「ねぇ頼むからさ、変な男にだけは気を付けてくれよ」
「はいはい」
 長屋へ向かう廊下を、肩を並べて歩きながら、兵太夫は念を押した。
 もうこれで何度目だろうと三治郎は軽く受け流す。告白されたからと言って、そう易々と相手に付いていくものか。わたしには兵ちゃんが居るのに。と、これまた何度目にもなる台詞を繰り返して、何とか兵太夫の機嫌を治そうとする。
 矢張り恋人が他の男に目を付けられているのが気に食わないのか、兵太夫は先刻から眉間に皺を寄せ、厳しい顔つきをしている。
 わからなくもない。誰だって、自分の想い人が何処の馬の骨かも分からない奴に狙われているのを知れば、恐らく兵太夫と同じようなことになるだろう。だが兵太夫は特別だ。これは6年間ずっと一緒に過ごしてきた三治郎だからこそ分かる。兵太夫が大変なヤキモチ焼きで、一度ヘソを曲げたらなかなか元に戻らないことを。そしてとても独占欲が強いということを。
「…兵ちゃん?」
 兵太夫が不意に黙ってしまったのを不思議に思い、三治郎は声をかけた。
 少し俯き、その顔は不機嫌そのものというもの。
 こりゃ元に戻すのは至難の業だぞと、三治郎は困ったように笑い、ぽんと兵太夫の背中を叩いた。
「心配しなくても、わたしはずっと兵ちゃんの傍に居るよ」
「……本当?」
「うん」
 それでも兵太夫はこちらを見ようとしない。
「大丈夫だから。離れたりなんかしないよ」
「……。わかった」
 ようやく視線を三治郎に向け、兵太夫は言った。
(そんなに信用無いのかなぁ)
 そう思うと三治郎は、少し哀しかった。



 例の事件から一週間ほどが過ぎた。どうやら三治郎に告白した男は、哀れにも兵太夫の激しい攻撃によって二度と三治郎に近づくことが許されなくなった。それを知った三治郎は、そこまでしなくてもと呆れたが、兵太夫はにべもない。
 それからは普段と変わらない様子で朝食を摂り、授業を受け、放課後は三治郎の手を引いて町に出たり、部屋でのんびり過ごしたり、以前のように穏やかな生活が続いていく。
 そんなある日の放課後のこと。
「あれ?三治郎は?」
 がらりと6年は組の教室の戸を開け、開口一番、兵太夫はそう言った。教室中を見渡すと、兵太夫に視線を向ける伊助と庄左ヱ門、きり丸と乱太郎――しんべヱと喜三太は委員会の臨時招集で居ない――、談笑をしていた虎若と団蔵と金吾の姿が目に入った。が、お目当ての人物は居ない。
「兵太夫と一緒じゃないなんて珍しいね」
 伊助が言って、他の級友達が頷く。兵太夫自身もそう思っていたところだった。
 一日の授業が終わり、一度自室に戻ったときは、三治郎と一緒に居た。そのあと三治郎が厠に行くと言ったので、部屋で待っていたが、待てど暮らせど三治郎が戻ってくる気配はなく。
「教室に行ったのかなって思って、来たんだけど…居ないようだね」
 兵太夫は不機嫌な口調でそう言い残すと、少し乱暴に戸を閉めてさっさと教室を出て行ってしまった。
(まったく、何処に行ったんだ?!)
 自分に何も言わないで行くなんて、と兵太夫は心臓の奥がちくりと痛んだ。少し三治郎が居ないだけでこんなにもイライラしてしまう自分を何度異常かと思ったことだろう。自覚はしている。自覚はしているのだ。だがしかし、矢張り、傍に居ないと、不安が募る。思考が一点に留まらずぐるぐると良くないことばかり考えてしまう。
(依存してる…)
 軋む廊下の音を聞きながら、ぼんやり思った。


 三治郎は、校舎裏の一角にひとりの人間と一緒に、居た。
 その姿を渡り廊下から見つけたとき、兵太夫の心臓は再び鈍い音を立てて痛んだ。
 三治郎が対峙している人間が、同じ深緑色の制服を着た男だったからだ。
(さん…じ、)
 廊下の奥に躰を留め、2人を呆然と見つめる。足を踏み出す勇気がなかった。
 男は三治郎の両肩に手を乗せ、何かを真剣な表情で言っている。三治郎はずっと視線を男から外さずに、時々小さく頷いたり、微笑みを浮かべたりしながら、男がしゃべり終わるのを待っていた。
(…なんなんだよ…)
 またか、という呆れが兵太夫の脳裏を過ぎった。
 もういいから早く戻ってこいよ。一緒に遊びに行く約束だろう?
 出来うることなら、今此処でそう叫びたい。三治郎をこちらに振り向かせたい。しかし、兵太夫が息を吸い込み、2人に近づこうと足を持ち上げた瞬間、兵太夫の動きはぴたりと止まってしまった。
 男が三治郎の両肩に手を置いたまま、顔を三治郎にくいと近づけ、そして、そのまま2人の唇が重なった。
(――……な)
 ひんやりとしたものが背中を這い上がった。
 心臓はこれ以上ないほどに鼓動し、音が、兵太夫の鼓膜を刺激する。
 ようやく2人の顔が離れたとき、男は満足したように笑っていた。そして二言三言口を開くと、そっと三治郎の肩から手を退き、逃げるように踵を返した。
 すべてがゆっくりとした動作で、兵太夫の目に映っていた。
 男が三治郎を抱くように立っていたこと、2人の視線が絡み合っていたこと、そしてなによりも。
(――接吻した……?…)
 三治郎はまだ動かない。俯き、自分の足下をまんじりともせず見つめているだけだった。
 声をかけようか、否、やめよう。兵太夫は持ち上がりかけた足を地に戻すと、元来た方向に脇目もふらず駆けだした。
(なんで?三治郎が、僕以外の男と…?!)
 見てはいけないものだった。どうせなら、見ないで済めば良かったのだ。
 しかし時は既に遅い。兵太夫の瞼には、先刻までの三治郎と男との一連の行為が熱く焼き付いている。
(厭だ、厭だ、厭だ…っ)
 自室に駆け込み、戸を後ろ手に思いっきり閉めた。そのまま戸にもたれ掛かるように背中を押しつけ、大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。心臓がどっどっどっと明らかにおかしな動きで高鳴っている。
(どうして?離れないって言ったじゃないか…っ)
 足の力が抜け、ずるずると躰がさがっていく。ついにはぺたんと力無く座り込む形になってしまった。
 ふと、人が来る気配を感じて、兵太夫は戸から離れた。文机の前に何とか躰を持っていき、なるべく動揺が表情に表れないように気を付けて、やがて戸がそっと開いても、そちらを振り返ることはなかった。
「ごめん、兵ちゃん!遅くなって…」
 三治郎が、何喰わぬ顔でそう言った。その顔には申し訳ないと言った微笑が湛えられていて、兵太夫は気配でそうとわかった。
「兵ちゃん?」
 文机の前に座り、一向にこちらを見ようとしない兵太夫に、三治郎は訝しんで再び名を呼んだ。返事はない。
「ごめん、ちょっと用事を思い出して…、ね、お団子屋さん行くんだよね?今から行こうよ!」
 相変わらず、無言だ。
「兵ちゃん…?」
 三治郎の気配が近づいた。兵太夫の隣に座り、覗き込むように顔を傾げる。兵太夫はぎゅっと唇を噛みしめたまま、微動だにしなかった。
「どしたの?」
 いつも兵太夫が不機嫌なとき宥めるような口調で、三治郎は問うた。顔に張り付いた笑顔が嘘みたいで、兵太夫は肩に乗せられた手を横柄に払いのけた。
 一瞬何事かと目を丸くしたが、すぐにまた「ねぇ、怒ってるの?」と問う。
「ごめんね、遅くなったのは謝る。でも――」
「……よ」
「え?」
 ようやく口を開いた兵太夫の声は、蚊の泣くように小さくて。
 のんびりと聞き返す三治郎に、兵太夫はぷつりとなにかが切れるのがわかった。
「もういいよ」
「な、にが…?」
 とぼけるなよ、ぜんぶ見てた。男に告白されたんだろう?さっき、校舎裏で…。
 言いたいことはすべて頭にあったが、口には出せなかった。
 三治郎を押しのけるように、兵太夫は立ち上がると、「もういいよ」と繰り返して、部屋の戸に手をかける。
「今日の団子屋、やめにしよ。」
 言い捨てて、兵太夫は部屋を後にする。
 残された三治郎は、呆然と見送るしか出来なかった。






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[ 2007/10/01 ]