それはあまりにも一瞬だった。 計画通りに事は運んだ。 自分で言うのもおかしいが、本当に笑えるくらいに、容易い任務だった。 真っ先に飛び出して行ったのは三治郎で、屋敷の庭の警護をしていた男を薬で眠らせた。倒してしまえばもっとよかったのだろうが、時間がない。三治郎の合図を待って庄左ヱ門が入っていく。わたしは塀の反対側にまわり、警戒にあたっていた。 暫くしたら出て来た二人の逃げ道を作って、学園に戻ればいい。 わたしに課せられたのは、ただ、それだけのことだった。 すっかり人気のなくなった塀の外は、暗い沈黙で満たされている。気配を消すのは十八番だから、いま自分がここにいるということすら誰も気付いていないだろう。 屋敷の中からも物音はしない。三治郎は足音を消すのが得意だ。潜入役に向いている。今夜の計画を立てたのは庄左ヱ門で、彼は頭がいいから危険なことは決してしない。常に有益なことだけを頭に入れ行動する。 そしてわたしは、 (なんなんだろう) 心の中で呟いた。初夏の風が足元を通り過ぎていく。焦燥感が駆り立てられて、虚しさがこみ上げてくる。 カラクリは得意。だけどいまここで、カラクリなぞなんの役にも立たない。 4年のころ、薬学を学んだが、成績のトップはいつも乱太郎だった。 剣術は金吾、頭脳は庄左ヱ門ときり丸、力はしんべヱと虎若、馬術と罠は団蔵、情報収集は伊助、虫獣遁なら喜三太、三治郎は潜入。みな一様に忍びとしての素質を備えていた。卒業したら、矢張り忍びの仕事に就くのだろう。それは恐ろしいことでもあったし、羨ましい事でもあった。 わたしは一体、なにをしているのだろう。 今見つかれば、屋敷に入って行った二人は捕まって、抵抗しなければ恐らく殺される。しかし自分はどうだ。危険になったら逃げればいい。さっさと学園に戻って、仲間を呼んでくればいい。皮肉な事に、逃げ足だけはクラスのなかでずば抜けていた。それを三治郎に指摘されたとき、激怒して掴みかかったこともあった。 「・・・チッ」 舌打ちをして、顔を上げた。真っ暗な空が広がっている。星も月もない、完全な暗闇だ。三治郎は夜目が効いた。だから魁を務めることができた。真っ先に斬り込んで、仲間を完全に目的地へと導く貴重な人材。あれを欲しがる人間はきっとたくさんいるだろう。 三治郎は求められている。世の中から。多くの人から。 (・・・わたしも) 本当のことを言えば、欲していたのかもしれない。 自分にないものを持っている、彼のことを。 何となく悲しくなって、わたしは顔を上げたまま半歩ずつ後ずさった。視界が開けていく。音を立てず、うしろへさがった。 そのときだ。 「・・・ッ?!」 足元に苦無が突き刺さった。驚愕して飛びのくと、続けざまに二本、三本と突き立てられる。わたしは転がるようにして背後の叢に身を伏せた。苦無は目の前に五本、土に深く刺さっている。 (敵か) 思った途端、屋敷の中が騒がしくなった。俄かに明るくなり、篝火が灯されたらしい。しわがれた男たちの声が、そこここに響いている。「曲者だ!!」・・・確かに、そう聞えた。 (・・・三治、庄左) 身が縮むおもいがした。背中を冷たいものが這い上がってくる。 と、風を切る音を立てて、苦無が背にしていた木の幹に刺さる。 弾かれたように躰を立てると、叢から抜けた。 「・・・!」 目の前に、黒い人影が突っ立っていた。暗闇に馴れた眼には、それが黒の忍び装束を纏っていることなど見て取れた。敵の忍び。気配はないが、バレたのなら一人のわけがない。恐らくこの近くに数人が固まっている。 わたしは懐に手を突っ込んだ。先日乱太郎に調合してもらった痺れ薬があったはずだ。手先に触れた冷たい感触に、それを確信する。が、敵の動きの方が早かった。 「・・・ツ!」 突如突進してきた敵を辛うじてかわし、身を低くして視野から自分を消そうとした。しかしそれも遅かった。ギラリと光る硬いものが、わたしの頬を掠った。 「痛・・・ッ」 とろりと流れ出た温かい液体。口に入ったそれは鉄の味がした。 (殺される) 心臓が早鐘を打った。恐怖と不安で目の前が暗くなった。 敵の刀は迷うことなくわたしをとらえ、振りかざしてくる。死ぬ、ということを、初めて確信した。 屋敷の音が激しくなってきた。なにやら喚きながら、右往左往する警備のものの姿が思い浮かべられる。三治と庄左は大丈夫なのだろうか?忍びの者は屋敷の中に残っているだろう。集団で攻められたらきっとおしまいだ。 と、ヒヤリとした感覚がわたしを襲った。 どうして、バレた? 三治郎や庄左ヱ門が、そう易々と見つかるはずがない。それは今日までの実習で証明されたことだ。二人は実力者だ。は組の誰もがそうおもっている。だとしたら、何故? (・・・わたしの、せいか) あのとき。 後ずさりをした、そのとき。 あの直後に、わたしは敵に見つかった。 敵の忍びはわたしの存在を中の人物に知らせ、仲間が居る事も見破った。 そしていまの騒ぎだ。 わたしのために、二人はいま袋の鼠になっている。 (そんな莫迦な) 襲ってきた刀身をかわし、何とか狭いこの空間が逃げようともがいた。何処に行っても敵は追ってくる。塀に追い詰められぬよう留意して、わたしは敵の背後にまわる。 「・・・ッ!!」 振り返りざまに、敵は自分の腰元から短刀を立てた。それはわたしの腹部をいくらか切り裂いて、板塀に突き刺さる。痛みが全身を駆けた。生ぬるい感触が、腹を包む。 敵は無言で振り向くと、再び短刀を突きつけてくる。足から力が抜けた。その場に座り込むようになると、敵はことさら力を込めてわたしの頭上に刀をかざした。 「う・・・」 何とかそれを抜け、勢いに任せて敵の足を蹴り上げた。平衡を失った忍びは、上の力も加わって前につんのめった。 ガン、と言う音とともに、忍びの短刀は壁を突き破る。 手を伸ばし忍びの胸倉を掴むと、力任せに押し倒した。 「・・・!」 腹部が痛む。いままで、経験した事のない痛み。疵のせいばかりではない。躰中が、自分のものではにように、非道く痛んだ。目の前が朦朧としてきたが、頭には血が上っていた。 自分のせいで敵に見つかった事。任務の責任を負ってしまった事。 そのことがわたしの脳内を占めていた。 膝で忍びの肩口を押さえつける。自分でも信じられないほど、わたしは興奮していた。 懐から苦無を抜き取る。両手でしっかりと握りこみ、眼下の男を睨みつける。 忍びが何か言ったようだったが、気に留めなかった。 こいつの仲間が見ているとしたら、すぐにまたわたしは襲われるだろう。だから早く処理しなければならない。この手で早く、消さなければならない。 苦無を持ったまま、拳で殴るように、忍びの顔面を砕いた。 厭な音が響いた。これが、ひとの死ぬ音なのか。無我夢中で忍びの頭を殴り続ける。途中で手を休めることはなかった。休めたら自分が死ぬんだ。確実にそうおもった。 大きく肩を上下させ、息をつく。自分の下にしている忍びは、もう動かない。 (・・・死ん、だ) 呼吸をしているのは自分だけ。 (やっちゃったな・・・) 不気味な静寂が、あたりにあった。襲われるとおもっていたが、どうやら忍びの仲間は此処に居ないらしかった。しかし屋敷の中は相変わらず騒々しい。心なしか篝火のたく音も大きくなったようだ。 「やっちゃったんだ・・・」 声に出してみた。どう頑張っても変わることのない事実を、自分のなかで整理できないでいた。 「ひとごろし」 言いながらも、乱れていた息が次第に収まっていくのは皮肉だとおもった。 掌に残った感覚は、忘れようにも忘れられない。吹き出た血のにおいや、鉄と砂の味は、一生抱えていかなければならないものなのだろう。 ふと我に返って、立ち上がった。 足元で力なく崩れている忍びの顔を見下ろし、非道く淡白な気分になっている自分に驚いていた。こんなことをしている場合ではなかったんだ。思い直して、屋敷のほうへと足を速めた。 「しょーざ!三治!」 声をあげ、手を振る。三治郎がすぐにそれに気付いた。 屋敷の裏側に穴を開け、中に入った途端二人が駆けてくるのが見えた。炎があちこちで炊かれており、容易に足を踏み出せないとおもった矢先だった。 「遅かったじゃないか、兵太」 「悪い。敵に見つかった」 三治郎の冷たい表情を受けて、わたしはうな垂れた。庄左ヱ門が肩を叩く。 「さっさと逃げるぞ。もう課題は終わった」 「殺されちゃったら元も子もないものね」 よく見ると二人とも無傷だ。わたしはそれを心底ほっとして、先頭切って穴を出た。屋敷を背後に立つ。と、三治郎が声をかけた。 「なにこれ、兵太」 「うん?」 振り返ったさきに、三治郎の驚愕したような顔がある。視線はわたしの忍び装束に向けられていた。 「血塗れ」 「・・・」 「兵太夫、誰かとやったのか」 庄左ヱ門も驚いた表情を作った。篝火の明りで、二人の様子はよく見えた。驚きとも、呆れともとれない複雑なまま。自分でも、自分の行動のすべてを思い返すことはできなかった。 「さっき・・・見つかった時に・・・」 言葉が紡げず、なんとかそれだけ言った。 再びあの、骨の砕ける音を思い出して、軽い吐き気がしたが、顔には出せない。 「そっか」 三治郎は眼を伏せて言う。血のにおいが立ち込める忍び装束を握って。 「・・・兎に角、戻ろう。兵太も怪我してるじゃないか」 庄左ヱ門が促して、再度わたしたちは駆け出した。 学園への道を走りながら、風を受けるたびに痛む頬の疵が、実は大したものではないのだなと、今更のようにおもった。 ひとを殺すのは容易いが、死ぬ事はなかなかできないんだ。 [ ← ] [ → ] [ 2007/01/28 ] |