頭が痛い。焼けるように、痛い。 痛いのはもしかしたら頭だけじゃないのかもしれないけれど。 「三治郎があんなに感情的になるなんてね」 目の前で乱太郎が呟いた。 その表情は明らかな同情を湛えていて、わたしは手渡された手ぬぐいを顔に押し付けながら、少し悪態をついた。赤く腫れ上がってしまった頬はまだ熱を帯びている。口の中は微かな鉄の味がして、気持ち悪い。 「三治は?」 「部屋に居る。手当ては別にいいからって」 苦笑して答える乱太郎。最近、三治郎はひとに頼ることをしなくなった。去年まではわたしやほかのは組の連中と等しく、この医務室で乱太郎の世話になっていたくせに。 あの細い躰のどこに、そんな力があるのか甚だ疑問だった。 「二人が殴り合ってたの初めて見たよ」 「ふん」 わたしは鼻を鳴らす。あれだけ大騒ぎしてしまって何だが、蒸し返されるのは矢張りいい気持ちがしない。三治郎の振り上げられた拳を思い返して、わたしははぁと息をついた。 「一体なにがあったのさ」 「・・・別にいいだろ、もう」 すっかり気がめいってしまったわたしは、手ぬぐいで完全に顔を覆うと、さらに膝を抱えて蹲る。全身で拒絶を表現したつもりだったが、心の中のもやもやは、乱太郎が傍に居るとどうしようもなく広がっていって。 「兵太夫」 自分では既にどうすることもできないこの不安のようなものを、一気に吐き出してしまいたい衝動に駆られるのだ。 乱太郎はいつもそんな笑顔を作っている。 ひとに安心感を与える、そんなものを持っている。 三治郎のそれととてもよく似たもので、だけど、三治郎とは少しだけ違う。 「どうしてかな」 「?」 呟きは、聞えただろうか。 反応を確かめないまま、わたしの口は勝手に動きを進めていた。 「いつもあいつはわたしの後ろに居るもんだとおもってた。ずっとそうだっておもってた。これからさきもそうだったらいいのにっておもった。だけど、いつのまにかあいつはわたしなんかよりずっとずっと先に進んでた。」 「・・・」 「それに気付いた時、それを認めようとしない自分がいたんだ。そんなんじゃ駄目なのに、どうしてかな。本当はあいつは、わたしなんかより強いんだってこと、認めたくなかった。どうしてだろう?すごく大切なのに。大切だから、自分の道をちゃんと行ってほしいのに・・・」 「兵太夫」 「わたしは傲慢だったんだ。どうしてこうなったのかわからない。だけどきっと、わたしは悔しかった。悔しくて悔しくて、これ以上先に進んで欲しくなかった。これ以上忍びとしての力をあげて欲しくなかった、人なんて殺して欲しくなかったんだ・・・ッ」 いつの間にかわたしの声は震えていて、見っとも無いとは解っていても、それを止めるなんて器用な真似は出来なかった。頬を駆け上がる熱いものは容赦なくわたしを侵した。膝の間に顔を突っ込んで、喉を引きつかせているわたしは、どれほど情けない姿だったのだろう。 乱太郎は何も言わなかった。 蹲るわたしを見るでもなく眺め、時間ばかりが冷たく流れた。 こんなことを、級友に言うべきではない。心のうちでは、おもう。 しかし言葉は堰を切ったように零れ落ち、医務室の狭い空間に響いていた。 「兵太夫」 頭の上から乱太郎の柔らかい声がかかった。 「きっと兵太夫は、三治郎がこれ以上疵付いて欲しくなかったんだね」 「・・・」 今度はわたしが沈黙する番だった。”疵付く”という言葉が、すんなりと心に入ってくる。 「疵付いて欲しくなくて、危ない真似して欲しくなくて、だから三治郎に忍びの道を歩んで貰いたくなかった。そうでしょう?」 脳裏に浮かぶ三治郎の笑顔は、遥か遠い昔の記憶だった。乱太郎が言葉を繋ぐたびに、忘れたことのない笑顔が断片的に蘇ってきて、わたしの瞼に貼りついた。 「そう・・・なのかな」 わからない。だけど、 「そうだよ、きっとね」 乱太郎は穏やかに頬を緩めた。ようやく顔を上げたわたしは、乱太郎のその顔に心底驚いてしまった。久しぶりに、誰かの笑顔を見た、と、そう思ったからだ。 「なに?どしたの」 「いや・・・」 びっくりしているわたしを、乱太郎は怪訝そうな眼で見た。貼り付いたままの表情に少し安堵した自分が居た事を、きっと彼は知らない。 「笑った誰かを見たのって久々だなっておもってさ」 「いつも団蔵とか笑ってるじゃない」 「や、違う」 うん?、とまだ乱太郎は納得していない様子だ。疑問を残して、わたしはこの会話を打ち切った。胡坐を掻いて、その膝に肘を乗せる形を取る。思考、というサイン。 その笑う、じゃないんだ。心の中で呟いてみせる。なんと言うか、勝ちや負けにこだわったような笑顔は、毎日毎日見飽きている。団蔵や虎若や、そして三治郎。彼らは近頃一様に、勝ち誇った笑みを覗かせている気が、する。 わたしは三治郎の笑顔がとても好きだった。昔は、ずっとそれを見ていられるとおもっていた。三治郎が笑うことで、自分の足りない何かが満たされている気がした。 そう、何かが”足りない”んだ。自分にとって必要なものなのに、その何か、決定的な何かが、欠けている。 「さっき言ってたことだけどさ」 わたしが話しの腰を折ったことで、治療道具の整理に取り掛かり始めた乱太郎は、再び口を開いたわたしに、背を向けたままの状態で耳を傾けてきた。 「半分当たりで、半分はずれかもしれない」 なにそれ、と言うような表情を作った。そりゃそうだ。自分だってわからないのだから。 「三治との間に超えられない一線を引かれるのが厭だったんだ。それがあるからわたしは永遠にあいつに追いつけない。そうおもうのが、ヤだった」 それが人殺し、という事件だったのだろう。わたしたちの間が確実に分離した瞬間。 「怖くてさ、あいつに近づくのが。なんて言うか、自分の弱さとずるさを思い知らされる気がして。あいつは頭いいし、忍びとしての素質もあるし、わたしなんかとは全然比較にならない」 「それは違うんじゃない?」 乱太郎は薬草箱を持っていた手を休めて、言う。 「兵太夫はただ前に進まないだけだ。そうやって怖がって、何処にも行かないのが一番いけないことなんだよ」 いつの間にか頬の痛みは退いていた。 何度か手ぬぐいを洗った桶に張った水面を見下ろして、そこに揺れる頼りない自分の顔に一瞥を呉れてやる。 同年代の男から受けた痛みが、此処まで堪えるとはおもわなかったな、すっかり沈黙してしまった部屋の中でそんなことをおもった。 乱太郎はまたこちらに背を向けて、忙しなく手元を動かせていた。陽が傾きようよう暮れていく。弱くなった西日が部屋を照らす。 結局何の答えも出ないままに、時間は経とうとしていたが。 わたしはばしゃ、と桶のなかに手ぬぐいを放り込むと、俯きながら呟いた。 「乱太郎」 頸だけをかしげてこちらを覗く。 「・・・ありがと」 「どういたしまして」 くくく、と乱太郎は喉の奥で笑った。 「兵太夫、大丈夫か」 「・・・は?なにが」 「顔色、悪ぃ」 きり丸の言葉に、は組全員が反応した。そしてわたしのほうへ視線を向ける。 「そうか?別になんともないけど」 「無理しなくていいんだよ、兵太」 背後から声が聞えて、ぎょっとして振り返ると、三治郎が笑っていた。 「なにかあったらわたしのうしろに行けばいいから」 「な・・・ッ」 「三治郎!」 乱太郎が慌てて場を取り成そうとするが、無駄なことだった。ただでさえ林の中で冷たい空気が一瞬にして凍りつく。暗闇の中に、三治郎の目ばかりが妖しく光った。 「やめろ、二人とも」 庄左ヱ門がわたしたちの間に割ってきた。彼だけじゃない。は組の皆が皆、はらはらした表情でわたしと三治郎を交互に見ていた。 「喧嘩するならよそでやってよね」 伊助がさり気なく三治郎の袖を引く。わたしも団蔵から肘で小突かれた。 皆昼間の出来事を知っているのだ。 そう思うと、情けなさと恥ずかしさで気がおかしくなりそうだった。 ちらりと乱太郎を見ると、彼は気遣わしげな視線を投げかけてきた。 わかってるよ、とわたしは目だけで射ししめす。 日中休んでいた分、今夜の実習の内容は高度なものとなりそうだった。 予め本物の武家屋敷に隠された密書を、夜の間に忍び込んで奪うというものだ。この手のものは初めてではないため、尚更難易度が増していることは明らかだった。喧嘩しているいとまはない、乱太郎はそう言ったのだ。 風が吹くたびに枝がざわめく。大小さまざまな木々に覆われたそこは、実習場所に向かうまでのスタート地点だった。 三人と四人に分かれ、班によって忍び込む場所は当然違う。わたしは庄左ヱ門、三治郎と同じ班だ。 「気を付けて」 は組の頭である庄左ヱ門の言葉を合図に、わたしたちを残した全員が散って行った。あっと言う間にその場に静寂が訪れる。僅かな葉の囁きが聞えたが、やがてそれも消えてなくなった。 「さっき話した通りに実行する。魁は三治、次に俺、最後に兵太、だ」 応、と答えたもの、わたしの中にざらついたものが不意に過ぎった。それを拭い去るように頭を振って、空を見上げる。 月はない。忍びにとっては絶好の機会だ。 わたしは視線を三治郎にずらした。何事もなかった様に忍び装束を着直している。落ち着きを持ったその状態に、少しばかり嘆息した。 庄左ヱ門が隣に立つ。気配が消えた。 「見つかったら、どんなことをしても逃げろ。相手を殺しても構わない。・・・行くぞ」 [ ← ] [ → ] [ 2007/01/25 ] |