ゆらゆら、ゆらゆらと。 途方もない浮遊感に苛まれながら、わたしは目の前に浮かぶくすんだ天井を見ていた。鼻をつくのは嗅ぎなれた薬草のにおいと、いつしかぶりに嗅ぐ自分の血のにおい。痛みはないが、頭がぼうっとしていて回らない。ただぼんやりと、重い瞼を開けていることしかできなかった。 新野先生と土井先生と、あと、誰だろうか。(乱太郎かもしれない)の声が廊下で聞えた。なんとかかんとか、よく聞き取れないが、自分の事を話しているのだということは、わかった。あの実習の日以来、二日間ほどわたしは寝込んだ。疵を治療してもらい、実際大したことはなかったらしいのだが、矢張りショックが大きかったのだろうと、はっきりしない記憶の中の新野先生は仰った。 「・・・少し様子を見ます。乱太郎、教室に戻ってなさい」 はい、と言う乱太郎の声がする。ああ、やっぱりなとおもった。障子越しの影がひとつ、廊下の先に消えた。後の二人もなにやら話し合っていたが、暫くすると土井先生(らしき)影は乱太郎と同じ方向に、新野先生(らしき)ものはその反対側へ消えた。 取り残されたのは、わたしだけ。 (ああ、何度目だろう) こうやって前も、医務室で寝かせられたことがあった。 あれは初めてひとが殺されるのを見たときで、今回は自分が殺したときで。 ちっとも成長なんかしてやいない。 かけられた布団を思いっきり頭から被って、息を止めた。 あのわたしが殺した男は、今頃どうなっただろう。 誰かがきちんと埋葬してやっただろうか?それともあのまま放置され、勝手に腐敗していくのだろうか。 男が誰にも気に留められず、人間として生きたことも認められず、ひとり腐っていく様をおもうと、罪悪感が胸を締めた。 「ああやってわたしも、死んでいくんだろうな」 ひとごろしはひとごろしに殺される。きっと自分の未来はそうなる。忍びならば、それが誇りだ。 (三治郎もこんな気持ちになったのかな) ふとそんなことを考えた。 淡白な笑顔を浮かべるようになってから、三治郎は本心を語らなくなった気がする。いつもと変わらずに笑い、ふざけ、時々怒って。表情の変化は同じだが、何かが決定的に変わった。顔に貼り付いただけの笑顔。何かに感動し、泪することもなくなった。わたしもいつか、ああなる。いや、あのときだってすでにそうだった。自分でも恐ろしいくらい、乾いた気持ちになっていた。思い返せばいくらでも、偽善の言葉は見つかるけれど。この思いもきっとすぐに薄れてしまう。ひとごろしを、何とも思わなくなってしまう。 そんな日が、いつかきっと、必ず来る。 (わたしもみんなとおなじだ) それは喜んで良いことなのだろうか? 眼が覚めると、あたりは薄暗い光に包まれていた。 カーンとヘムヘムの鐘のつく音がした。 夕餉の時刻らしいが、起き上がるのも億劫で、顔を布団から出したまままたぼうっと天井を見つめた。昼飯は乱太郎が気を遣って持って来てくれた。がしかし食欲がなくて結局箸をつけていない。午後も何度か級友が尋ねてきたが、狸寝入りを決め込んでいたら出て行ってしまった。 誰にも逢いたくなかった。 放っておいて、ほしい。 土井先生も級友達に同じ事を言ったのだとおもう。逢うのはいいが、きっと話さないぞ、と。みんなわたしの性格なぞ知り尽くしている。団蔵の置いていった団子や喜三太のひとりごとをお見舞いに貰っても、拗ねてなにも言わないこの性格。苛々をすぐひとにぶつける、この厭な性格。 やっぱりなにも成長していない。三治郎が、成長したのは躰だけかと言ったのが、今更身にしみた。 「また三治郎に莫迦にされるな・・・」 「なんか言った?」 「?!」 ひとりごちた矢先、頭上からかかった声に驚愕して飛び起きた。ズキ、と腹に痛みが走る。 「さ・・・三治」 何事もないように佇む三治郎に戦慄した。本当に気配がない。 「寝てていいのに」 別に起きたくて起きたわけじゃない。そう言おうとしたが、三治郎は両手でわたしの肩をつかむと布団に寝かせた。幼い子供になったようで少し腹が立った。 「なんか用?」 「別に?わたしだけ見舞わないのはあれかなーっておもって」 そういえば、三治郎だけがこの二日間見舞いに来なかった。喧嘩中だったから、と気に留めなかったが。・・・やはり、気になった。 「疵はどう?」 「平気平気。もう痛くないし・・・」 笑おうとしたら、頬が痛んで笑えなかった。 「笑えないんだ」 くすり、と三治郎が笑んだ。その右手でわたしの頬の疵に触れる。 温かさを感じた。 「うん・・・まだここはちょっとね」 「わたしとおんなじだね」 「え?」 驚いて三治郎を見ると、彼は相変わらずの表情を作っている。どこか覚めた、淡白な笑顔。 「笑おうとすると頬っぺたが痛くってね。なかなか・・・昔みたいにならないんだ」 歯を出して口を横に広げる。途中で何度か突っかかりながら、無理矢理笑顔を作っている。三治郎が頬を怪我したなんて、聞いた事がなかった。 「5年のときさ、初めて他人から殺されそうになったの。兵ちゃんと同じように刀でね。やっぱり敵も狙うとこ同じなんだよね。頸とか顔とか、ちゃんとわかってるんだ」 「顔か・・・」 わたしだってあの男を顔から殺した。頭蓋骨が苦無で砕かれる音を聞きながら。 「死ななくてよかったね、兵ちゃん」 「そう、だね・・・」 制服に隠れて見えないが、三治郎は躰中にたくさんの生疵を持っているらしかった。風呂に入るときに見える切り傷に痛々しさを覚える事がよくある。どうしてそんな細い躰をしているくせに、怪我ばかりするのだろう?本人に問うことなどできず、ただ自分の中で勝手に疑問を抱いていた。 「三治」 いまここで、それを聞こうとおもったが、やめた。それよりも、別の言葉が口をついて出ていた。 「・・・ひとを殺したとき、なにをかんじた?」 驚き、と言うか。 寧ろ呆けたような、そんな表情で、三治郎はポカンと口をあけていた。 「ひとを殺した時・・・?」 わたしは、頷く。三治郎の中にある温かさを、確めたかった。 「・・・何を感じた?」 三治郎は今まで何度もひとを殺して、ひとから殺されかけていた。そんな人間に、こんな質問は愚問だとおもった。 「なにも、感じなかったかなぁ」 「・・・」 呟くように。 「あのときは夢中だったから。それに、殺さなきゃ自分が死ぬんだっておもったら、もうどうしようもなく怖くなっちゃって。やんなきゃ駄目だった。やっぱ、自分、死ぬのは、いや」 「うん」 わかってる。 わかってるんだ。 「兵ちゃんはわたしのことやさしいって思ってるんでしょ」 三治郎の突然の問いに、わたしは驚いた。しかし、きちんと頷いた。 「だから兵ちゃんは駄目なんだよなぁ。そうやって勝手にひとのこと決め付けて。それで失望して悲しいのは兵ちゃんのほうなんだよ」 「・・・そりゃ、そうだけどさ・・・」 「わたしは、やさしくなんかない。」 小さい子供が、秘密を打ち明けるような表情で、三治郎は呟く。 「やさしさなんて、そんなん最初からないし。いつもおもってた。やさしいのは絶対兵ちゃんのほうだって」 わたしが?莫迦言うな。 「初めてひとを斬ったとき、ああ、これが忍者なんだなっておもってね。感動した。このひと死んじゃったよ、こんな簡単に、ひとって殺せるんだって」 三治郎の口調は非道く乾いていて。 今までこんな話を聞かされたことはなかった。 「それからはもう、慣れちゃったんだ、きっと。ひところすのも、ごはん食べるみたいに自然になっちゃって。自分でも異常だなっておもった。悲しむところなのに、笑ってた。その笑うのも、なんか、全然昔とちがくて。昔は笑うとほんとうに楽しかったの。でもね、なんか、いま笑っても、全然楽しくないんだよね」 また口を広げてみた。何度も何度も、開きかけては閉じ、閉じては開いて、笑顔を作るのも、苦労しているようだった。 「痛いの?」 三治郎は頸を振る。 引きつった笑顔が、悲しかった。 「わたしは、どうなのかな」 すっかり傾いた夕陽が、医務室の壁を照らす。次第に暗くなっていくが、灯は灯さなかった。 「わたしも、おなじようだとおもう。ひとを殺すってこと自体が嫌悪だったけど、きっと今になんだそんなことっておもうようになるんだろうな。」 そうだね、三治郎は目だけで頷いた。 「わたしなんか良い例じゃないか」 自嘲した笑い。引きつっているのは、変わらない。 「三治」 わたしはその顔を両手でつかむと、自分の顔に近づけた。 「わたしも、ひとごろしなんだよね」 三治郎は静かに、頷く。 認められた。ここでようやく、自分は認められたんだ。 こんなの、望んじゃいないけれど。 「・・・それで、よかったかな」 わからない。三治郎の頬は柔らかくて、泪が出そうになるほど温かい。その皮膚の何処に、消せない疵があるのだろう。自分のそれと比べ、どちらの疵がより深いのか、それを調べるのは甚だ愚かだと、そう感じる。 俯いてしまったわたしの額に、三治郎の額が触れた。熱を測るように、コツン、と。 「三治・・・なんだよ」 憎まれ口を叩いてしまうのはお決まりで。 恥ずかしいが、今の状態がとても心地良いのも事実で。 三治郎はなにも言わない。無言のまま、動きもせず、わたしの額から自分のそれを離さない。 こうやって近くで顔を見るということも、最近めっきり少なくなってしまった。 いつの間にこんなに精悍な顔つきになっていたのだろう。 自分は相変わらず女顔をしているというのに。 「やっぱりわたし、兵ちゃんが居ないと駄目かも」 「え」 「張り合う相手がね、居ないのは、さびしい」 漸く顔を離して、照れ臭そうに言う。わたしもつられて、頬が紅くなるのを感じた。 「・・・それでいいの?わたしこんなだし。また、三治に迷惑かけるよ?」 わたしはまだまだあなたに届かないから。 「別にいい。きっと兵ちゃんはわたしを越しちゃうから」 そんなの望まないで。 わたしはあなたがおもうほど強くない。 「それじゃあ競争。どっちが先に相手を越すか」 「・・・うん」 三治郎の提案に、わたしは微笑んで答えた。 すっかり暮れてしまった空は、淡い藍色に染まっていた。 太陽は沈んでしまった。部屋に明りを灯す前に、わたしたちは医務室を抜け出た。 もう、痛くない。隣に歩む三治郎に言うと、彼も笑った。 いつもよりすこし、物足りない笑顔。 だけど、三治郎はいつまでも太陽のようだった。 永遠に届かない、わたしだけの陽だまり。 [ end ] [ 2007/01/28 ] |