雨ふらし 4



 三治郎の姿が完全に見えなくなったあとも、わたしは呆然とそこに座り込んだままだった。さっきまで三治郎の胸倉を掴んでいた右手はまだ熱を持っていたし、心臓が早鐘を打って動く所ではなかった。
 (成長したのは躰だけか)
 頭痛がした。頭がくらくらする。眩暈を覚えて、思わず顔を両手で覆った。
 (いつまで甘えてるつもりだ、兵太夫)
 (ずっと弱虫の三治郎じゃないんだからな)
 気付かれてた。実習で、自分に火の粉が降りかかるのを避けていることを。
 考えただけで胸が苦しくなった。
 自分の行動を非難された情けなさと、悔しさが躰を包んでいた。

「・・・兵太夫?なにしてるんだ、そんなところで」
 ふと、声がかかって、振り返るとそこに居たのは団蔵だった。
 傾きかけた夕陽が、彼の後ろを後光のように降り注いでいた。
「こんなとこで座り込んで、また三治郎となんかあったのか」
「・・・べっつに」
 こういうときもつい反抗的な態度を取ってしまう自分が非道く嫌いだ。もう少しやさしくならないものかとはおもうもの、結局いつも空回りばかりで。
 そういうところが、駄目なのだと思う。
 顔を俯かせたまま立ち上がる。制服についた土を乱暴に払っていると、団蔵は少しだけ苦笑してわたしに近づいた。
「学園長が」
 そう言ってなにか包みを差し出した。
 いぶかしんで受け取ると、それはズシリと重く。
「なにこれ」
「お使いのお駄賃」
 へら、と笑う。
「どーせ学園長のプロマイドかなんかだろ。こんな厚いのは初めてだけど」
「要らないよ」
 邪険に包みを団蔵の手に押し戻した。苛立ちが直に伝わってしまったのが、わかった。
 わたしの様子に流石の団蔵もムッとしたのか、押し返された包みをまたわたしに突き出して、「なに怒ってんだよ」と声を荒げる。わたしは自分の中で怒りが爆発するのを感じた。
 力任せに団蔵の肩を押しのけて、忍たま長屋のほうへ走り出した。
 一心不乱、とはこのことだろうか。
 脇目も振らず、背後で団蔵の舌打ちが聞えたが、気にしないで走った。
 瞼の裏が焼けるように熱い。
 もしかして自分は泣いているのではないかと、情けなくおもった。


「どしたの、その顔」
 長屋の自室には、当然のように三治郎がいた。壁際に文机を立てて、本を読んでいる。なんでさっき喧嘩したばかりの人間が居ると解っているこの場所に、自分が戻ってきたのか理解不能だった。
 引き返そうとおもったが、やめた。此処で三治郎に背を向けたら、それこそ負けたことになる。こういう無駄な自尊心のようなものが、いっそ消えてなくなればいいのに。
「兵太夫、泣いてたの?」
 苦笑する三治郎から眼を逸らして、わたしは部屋の隅に胡坐を掻いて座った。三治郎もそれ以上はなにも言わず、黙って書物に視線を戻す。指摘されたように、どうやら眼は充血しているらしい。少しばかり、痛かった。
「三治」
 呼びかけても、三治郎は返事をしただけでこちらを向かない。それでいいとも、おもった。
「さっきの、ほんとか」
「・・・なにが?」
 またしらばっくれる。イラ、と胸のうちが漣立つ。
「さっきわたしに言ったことが」
「ああ、そう言えばそうね」
 まるで人事のように、三治郎はそう言う。
 わたしは膝を立てると三治郎の横に立った。それにも動じず、書物から眼を離さない三治郎の肩を掴むと、無理矢理こちらに向かせる。不貞腐れたような視線がわたしを捉えた。
「わたしを殴っても仕方ないじゃないか」
「・・・」
 肩を持つ手が震えた。すっかり冷め切った眼が怖い。もう元の三治郎は何処にも居ないのだと、認めるのが厭だった。
「・・・ってこいよ・・・」
「?」
 蚊の鳴くような、声が出た。
「戻って・・・こいよ・・・」
「なに?どうしたの、兵ちゃん」
 三治郎はいつまでも冷静で。
 しがみ付いたままうわ言のように言葉を紡ぐ自分が自分でないようで。
 悲しくて、苦しくて。
「兵太」
 そんな眼でわたしを見るな。そんな、哀れんだ眼をわたしに向けるな。
「いい加減にしてよ」
「な・・・」
 三治郎の声が、再び低くなった。顔を上げると、険しい顔がそこにうつる。
 手首を取られ、突き放された。わたしはしりもちをつく形で座り込んだ。
「鬱陶しいんだよ、兵太は。いつからそんな弱くなったのさ。」
 鬱陶しい、と言われて、わたしの癇癪玉が膨張する。
 体勢を立て直して三治郎をにらみつけた。
「おかしいのは兵太だよ。いっつも苛々しちゃってさ。わたしのなにがそんなに気に食わないのさ」
「全部だよ」
 今度は三治郎の眉根に皺がよった。普段怒りをあからさまに表現しないせいで、尚更それは目立って見えた。
「全部厭なんだ。お前が、そんな口利くのも。ひとを平気で殺すのも」
「ひとを殺すのを厭う忍びが何処に居るんだよ」
 最もな意見だと、おもう。
 しかし今のわたしにそんな論理は通用しなかった。
「厭なんだよ、もう。お前を見てるのが。どんどん俺はお前との歩調が合わなくなってくるし、昔と全然と違うんだ・・・」
 ハッと三治郎が哄笑した。途端に語調が荒くなる。
「そういうのを甘えてるっていうんだよ」
「何だって?」
「兵太はなんのためにこの学校に入ったんだよ。忍びになるためだろう?それが如何して人殺しも出来ないなんて言うの?歩調が合わないって?莫ッ迦みたい。そんなもんいつわたしがあわせたのさ」
 堰を切ったように、言葉は流れ出てくる。そのひとつひとつに、ある種の覚悟に似たものがあった。
「だから兵太夫は弱いんだ。人を殺したくない子供のままでいたい先に進みたくない卒業したくない?そんな忍び、端から此処に居ない方が世のためだね」
「三治郎!」
 叫ぶのと、三治郎の胸倉を掴んで引き倒すのは同時だった。
 振り上げられた拳が、俄かに抑えられた。
 わたしの躰の下で、三治郎が腕を突き出してわたしの攻撃を防いでいる。
 拳は空を舞ったまま動く事ができなかった。
「殴れるもんなら殴ってみろよ」
 三治郎は矢張り笑う。その表情に非道く悔しがっている自分。
「いつまでも兵太が上ってわけじゃないんだ・・・」
 やおら力を込めると、わたしの手首は呆気なく倒され、躰は三治郎に押し上げられる形になる。そうして勢いのままに、三治郎に組み敷かれる状態になっていた。
「弱くなったね、兵太」
「うるっさい・・・!」
 わたしは三治郎の腹を蹴った。押さえつけていた腕が若干力を失ったときを突いて、逃れるように三治郎から離れた。そしてすぐにまたつかみかかる。


 三治郎も今度は手加減しなかった。
 頬や肩に響く痛みに眼を霞ませながら、夢中で拳を振り上げた。
 唇が切れたらしい。口元に温かさを感じて、それが血だと気付いた時、再びあの日の三治郎を思い出して怖気がした。
 もう既に、彼は血に塗れることに慣れているのだろうか。
 そう考えると無性に悔しくて、腹が立って、仕方なかった。
「何してんだおまえら!!」
 怒号が聞えて、庄左ヱ門やら団蔵やらきり丸やらが間に入ってくるまで、わたしたちは我を忘れて殴り合っていた。団蔵と虎若に無理矢理三治郎から引き離されて、頭の芯が熱くなるのを感じた。
 唐突に眩暈が襲ってきて、立っていることも出来なくなって、そのまま気が飛んでしまった。ああ、これがひとごろしの痛みなのか、ぼんやりとした意識の中で、そんなことをおもった。



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[ 2007/01/21 ]