用具倉庫の硬い引き戸を開ければ、湿度と温度を一定に保たれ揺らぐ事を知らなかった停滞した空気が外に向かってとろとろと流れ出ていった。光の差し込まれたその個室は壁じゅうに棚が備えられ、すべての棚の上には余すところなくものが載っている。首実検用のフィギュアがいくつもの瞳でもって戸を開け放った人物を睨み付けた。作法委員である兵太夫には無論そんなフィギュアに微塵の感慨も持てず、ただじっと、淡い光に舞う埃を見ている。 あの日、と兵太夫は頼りない記憶の糸を手繰りながら、やがて鮮明な輪郭を描く一つの情景を思い出す。否、思い出す、なんてとんだ欺瞞の言葉だ。あの日、確かに自分達は此処にいたのだから。 金木犀が香っていた。風に運ばれてくる凛と冷たい匂いが鼻先に触り、あの日は暑かったのに、あんなに熱かったのに、指の平が戸のささくれた表面をなぞれば、ちくりとした微かな痛みと肌を灼く熱が生まれる。そして浮かび上がった情景が目蓋に宿り、繰り返し繰り返し流れ出す。 兵太夫は舌を打ち、指先に膨らんだ血の珠――小指の爪ほどもない――を口で吸った。 「兵太夫」 ざり、と砂の噛む音がして振り返ると、一尺も離れていない場所に木刀を片手にした金吾が立っていた。制服である深緑の忍び装束を上衣だけ後ろに垂らし、筋肉の付いた胸板が日を照り返す。 「なにしてんだ」 視線をすぐに倉庫内に戻せば追いかける声に、兵太夫は再び顔を向けた。そして感情の汲めぬ瞳で金吾の身体を足から頭の先まで、見やった。 「鍛錬帰り?」 「ああ」 一歩ずつ近づいてくる金吾から目を離さずにいると、兵太夫は、どんどんと、息ができなくなっている自分に気づく。 すっ、と吸い込んだ冷たい風も次の瞬間には何処からか抜け出てしまう奇妙な息苦しさは、やがて金吾の腕が彼に伸び、胸に押し込まれるまで続いた。 井戸で汗を流してきたのだろう金吾の肌は、かなしくなるほどに清潔な匂いが漂い、まるでこの場にそぐわない気がした。 「ウゥ、」 呻き声で拒絶しても金吾は抱きしめる事をやめず、それどころかより力を込めて、兵太夫を喰らってしまおうとしているようだった。 「ここ、」 耳もとで金吾の声が彷徨う。なに、と問うと、彼はそれ以上は何も言わず、黙ったまま兵太夫から身体を離した。 途端に自由になった呼吸が素直に空気を肺に送り込み、その冷たさに咽の奥がひゅっと音を鳴らした。 「なんなんだよ、お前は……」 深いため息を吐き出し、兵太夫は呆れたように言った。 「意味わかんねぇ」 「、ごめん」 「謝んな、ばか」 虚しくなるだろ、と言えば、金吾はふっと笑い、「そうだな」、と言った。 兵太夫はその場で髪の毛を掻き毟り、大声でもって叫び出したい衝動に駆られたが、そんな行為に何の意味も得もない事を知っていたため、とりあえず目の前の男に向かって、ばか、と言葉を吐いた。 用具倉庫の引き戸に手を掛け、そこに背中に預けて空を見上げた。 地上との境目を見失いそうなほどに高く澄んだ空が拡がっている。この空が何処までも、世界の果てまでも続いているのかと思うと、寄る辺ない心もとなさが沁み出してくる。 「お前さ」 でくのぼうの如く突っ立っている金吾に兵太夫は声を投げた。 「あの日の事、憶えてる?」 ああ、と金吾は視線を落として答えた。 「なんであんな事したの」 平坦な発声で畳み掛ければ、金吾の瞳がこちらを向き、空から転じられた兵太夫の視線と絡んだ。 「お前が好きだったから」 それはおそろしく茫洋とした応酬であり、兵太夫は、はっ、と笑った。そして背中を板から離すと、勢いよく戸を閉めた。 「もう戻る。これから委員会あるし」 「ああ、」 背中に立つ金吾の指先が、兵太夫の右手に触れた。長くて節の太い手はやがて兵太夫の手のひらを包み、気配が近づいたと思った次の瞬間には、首筋に熱い唇を押し付けられていた。 「なに、思い出して盛ってんの」 嘲笑えば、 「単純に欲情した」とにべもなく返され、兵太夫は身を硬くした。 「……助平」 「自分の事くらい、知ってる」 「マジでばかだ、お前」 今さらだろ、吐かれた言葉と息が首筋をなぞり、思わず洩れそうになった声を唇を噛む事で凌ぐ。それを邪魔するように舌がざわりと肌を舐め、ふだんは隠れているうなじを暴かれた。 「ちょ、っと、やめろばか!」 いつの間にか板戸に身体全体を押し付けられ、自分より一回り大きい金吾の身体が背中をすっかりと覆っていた。 「お前、無防備すぎ」 「うるさい!」 不覚だ、とんだ失態だ、こいつのばかさ加減を見誤っていた。ぐるぐると渦巻く思考のひとひらが、しかし理性と欲望との楔を断ち切ろうとしている。 ぎゅ、と目蓋を閉じれば先程までの情景が色濃く甦る。兵太夫は息を吐き出し、身体から力を抜いた。そしてぶっきらぼうに言った。 「外は、やだ」 後 |