O-RI-ON 1






 別れはいつも突然訪れる。


 それは予期していない場合もあるが、時として、予感という形で「別れ」を実感する場合も、ある。
 不思議なことに、忍術学園に入学してからはその「別れ」という、身も引き裂かれるような事態に対して、非道く自然のものとして向き合えるようになったと、兵太夫はおもっている。同じように考えているのは決して兵太夫だけではない。6年間苦楽を共にしてきたは組の仲間たちも、きっとそんな風にひととひととの繋がりを捉えているのではないか。ふとした折に、そんなことをおもうようにもなった。
 それは学園内において「別れ」を直に体感する機会が増えたからに他ならない。「別れ」とは死に直結する。幾人もの人間たちが、この学園の生徒の手にかかり、殺されていった。そんな現実に耐え切れず、自殺を試みる者もあった。自主退学や失踪も相次いで起こった。それらすべてが「別れ」であり、は組にとっても眼を逸らすことのできない現実であったのだ。
 しかしいくら自然と向き合えるようになったとしても、「別れ」に免疫が出来たというわけではない。いままで隣にいた人物が、今日になって消えている。悲しいものは悲しいし、寂しいものはやはり、寂しいのだ。


 授業中、ふと頭の隅に過ぎったそんな不安を、兵太夫は前方にいる三治郎を見ることで抑え込もうとした。以前も同じようなことがあった。消える。別れ。死ぬ。居なくなる。得たいの知れないそれは次第に兵太夫の心臓を萎縮させ、時には吐き気すら催すものとなった。そのとき、三治郎が不意にこちらへ視線を投げたのだ。
 にこ、と笑い、すぐにまた前を向く。
 ほんの一瞬の出来事だったが、それだけで、兵太夫の心は平静を取り戻した。
 三治郎はあそこに居る、という当たり前のことが、当たり前に起きている。それが嬉しくて、安心できた。きっと兵太夫の不安は、自分の目の前から三治郎が消えることなのである。
(三治。)
 またこちらを向いてくれないかと期待していたが、今日は授業に集中しているらしく視線は土井から離さない。真面目な三治郎らしかった。それでもいい。あそこに彼が居るとわかっただけでも、大分兵太夫の不安は薄れたのである。
 不安になったとき、何故か三治郎はいち早くそれに気付いた。
 兵太夫は不安になったときは、何の前触れもなくこちらに視線を送り、そっと微笑んでくれる。やさしい笑顔だった。
 六年生に上がりたての頃は、兵太夫が三治郎の変貌ぶりに動揺し、距離を置いた二人だったが、あれから数ヶ月が経ち、三治郎も大分落ち着いたと見えて、二人の関係はまた元通りになった。
(よかった)
 彼は居る。まだあそこで、筆を執り腕を動かし。
 生きている。その安心感が欲しかった。
 どんな些細なことでもいい。まだ、繋がっているという確実なものが必要だった。
 いつの日か、そんな日常も過去になった頃、そのとき自分は、彼をどうおもっているのだろう。
 そして彼は、自分をどう見ることになるのだろう。
 兵太夫の不安は、これから先の未来のものでもあった。



 日暮れ時。
「さーんじッ」
「わッ」
 飛びつくように。いや、端から見たら抱きつくように。
 兵太夫は三治郎の両目を背後から覆った。
「なに?兵ちゃん」
「なんでわたしだってわかるの?」
「そりゃぁ」
 わかるよ、と言って三治郎は笑う。同時に、兵太夫は三治郎から躰を離した。
 廊下の先に三治郎の姿を見かけた途端、兵太夫は真っ先に彼に駆け寄った。そして、ある種抱きついた。別にそれが誰だかを当てて欲しいわけではなく、ただ三治郎に近づくための口実に過ぎないのはわかりきっている。
 しかしいまやそんなことをしなくても、三治郎と兵太夫は互いにいつも傍に居る存在だった。
 わざわざ抱きつかなくても(本人にその気があるのかは知らないけれど)、声をかければ三治郎は笑顔で振り返ってくれる。だのに、なぜだろうと三治郎はおもった。
「どこに行ったのかとおもっちゃったよ」
「ごめんごめん。ちょっと土井先生に質問してたんだ」
「真面目だねぇ三ちゃんは」
 兵太夫は呆れたように、息をついた。
 三治郎が抱えている書物は、6年間学んだすべてのことが事細かに纏められたものだ。総復習として、三治郎が自分なりに考えた、勉強法である。
 地道だが、これなら確実に実力は伸びる。彼が努力家であることは、兵太夫が一番良く知っていた。
「すごいね。」
 中身を覗かせてもらい、ほうと嘆息した。
「・・・6年分だから、すごい量になっちゃってさ」
「そだね」
「?」
 ぱらぱらと括る手を止め、三治郎をふと見上げて、兵太夫は渋い顔を作った。
「兵ちゃん?」
「すごいよね、三治は」
「そーかな」
 大したことなさそうな表情で、三治郎は答える。
 そういうところがすきなんだと、兵太夫はおもうが、それは絶対に口には出さない。
 手製の書物は所々ほころびがあって、毎夜頁を括る三治郎の姿が思い浮かべられた。努力家で真面目。芯が通っていて、仲間にはやさしいが敵には厳しい。忍びとしての素質は、十二分に備えている。羨ましいわけでは決してない。寧ろいまでは、尊敬の目で三治郎を見られるようになった。
 しかし、とも。
(こんなに勉強して)
 彼は本気なのかと、おもうのも事実で。
 複雑なこころの矛盾が、兵太夫にはあった。
 本気で忍びを志している。それは明らかだった。
 忍術学園としては当然のことで、自分だって将来は忍びとして生きたいと漠然とだが考えている。それがもっとも自然で、なんの不満もなく、受け入れるべき現実であることは、重々承知していた。しかし何故だろう。いまいち腑に落ちなくて、兵太夫は戸惑った。
「本気なんだね。」
「なにが・・・――ああ」
 合点したのか、眼を大きく見開くと、三治郎は大きく頷いた。
「本気で忍びになるんだ、三治は」
 なにを当たり前のことを、言っているのだろう。
 きっと三治郎もそうおもっていることだ。
 なにを、いまさら、そんなことを聞くのか。
「・・・駄目?」
「そんなわけ、ない」
 そんなわけないのに。
 三治郎ならきっと、良い忍びになる。
 力強くそう肯定してしまえば、それまでだ。
 しかし、それを認めながら、未だに受け入れられていない自分がいることが、兵太夫はもどかしかった。
「兵ちゃんはわたしが忍びになることに反対なのか」
「・・・そーじゃない」
 くっと笑って。
「じゃあなんでそんなこと聞くの?」
「だって・・・」
 心配じゃあ、ないか。
 死ぬんだぞ、一歩間違えれば。
 それが忍びというもの。
 死ぬって、消えるってことなんだって。
 知っていて当然のそんなことばかりが頭を占めて、結局何の言葉も紡げないまま。
「ねえ、なんでそんなこと聞くのさ」
「・・・だからッ」
 ズイ、と本を三治郎の胸に押し返すと、兵太夫は声を荒げた。
「・・・・・・忍びは、相手を殺してもするけど、殺されもするんだぞ」
「知ってるよ」
 三治郎はすましている。しかしそのことは、兵太夫よりも彼のほうが、ずっと深い意味で理解している。
「仲間と切り結ぶことになるかもしれない」
「そうかもしれないね」
「思ったより給料が安いって聞いた」
「金ならなんとかするよ」
「・・・ひとごろしって」
「とっくの昔に言われました」
 君にね、と兵太夫を指差す。
 言葉に詰まってしまった兵太夫を見て、三次郎はまたくくっと笑った。
「よーするに兵ちゃんは、心配なわけだ」
 二人の立っている廊下には、人っ子ひとりおらず、三治郎の声がやたら大きく響くようだった。刻限が刻限だから、みな一様に食堂へ向かったのだろう。兵太夫も、三治郎を見かけたら共に食事をする予定だった。
「そんなこと気にしなくていいのに」
「・・・気にするよ」
 急に元気を失くしてしまった兵太夫は、呟くように言った。
 しかし、本当に言いたい事は、喉まで出掛かって、結局口にされることはなかった。
「平気平気。兵太夫だって、立派な忍びになりたいんでしょ?一緒になろうよ、みんなから憧れるよーな忍者に」
 違う。
 そんなんじゃ、ない。
「心配するなよ、兵太」
 違うんだ、三治郎。
 こころのなかでいくら呟いたところで、三治郎に届くわけもなかった。
 違う違うと言うのは胸のうちだけで、三治郎は勝手に言葉を続け、兵太夫を激励した。
「さて、あとの心配はあとの心配。いまの心配は早く夕ごはんを食べることだね。行こ」
「・・・ああ」
 踵を返し、食堂のほうへ足を進める三治郎の背中が目に映る。
 相変わらず華奢だが、逞しく育ったことは誰の目にも明らかで。
 追いかけるようにその背中を追う。
 時々振り返っては、早く早くと催促する三治郎は、ずっと笑顔だった。

 その笑顔を見て、兵太夫はますます困窮した。
 妙な胸騒ぎ。不安。
 落ち着かないこころ。
 言いたいことが伝わらない苛立ちもあった。
 こんなに目の前に居るのに、どうして伝わらないんだろう。
 伝えようとしないからだ、と、自分じゃない自分がそう笑う。
 そうなんだ。だけど、言えない。

 お前がわたしの前から消えるのが怖い、なんてこと。





 卒業。
 その言葉にどんな意味があるのか、なんて、忍術学園という場所に入学した時点には考えも及ばなかった。しかし今更その真意を問うやつなんていない。6年と言う歳月をかけて培われた精神の奥底に、それはしっかりと刻み込まれているはずだ。
「そろそろ卒業だね」
 零れ落ちるような言葉に、は組の全員が耳を傾ける。三治郎は、自分の一言がどれほどの影響力を持っているかなぞ、自身はきっと知らない。
 卒業。6年間慣れ親しんだ仲間たちとの決別。そして、生死が背中合わせの場所へ続く最後の扉。全員がそれを認識したのは、5年生の春だった。
 巣立っていった一年先輩の者達の背中を見て、改めて自分たちの置かれている立場を省みたのだ。やがては自分がその背中になるのだろう。誰もがそう感じ、そして、覚悟した。
「しみじみしてるねぇ」
「三治郎はいつもそうなんだから」
 食堂には、は組のいつもの面子が揃って、夕食を摂っていた。兵太夫は三治郎の隣、同じ机には金吾と虎若と団蔵が居て、先ほどの三治郎の言葉に含み笑いでそう返す。
 彼らはいつもそうだった。しんみりすることを好まない。
 かと言って三治郎が繊細すぎるというわけでもなく、寧ろ、それは兵太夫のせいでもあった。いつも傍に居て、時々寂しげな表情を覗かせる兵太夫、それを三治郎が察知して、共感してしまうのだろう。「卒業」という一大行事に寂しさを感じないはずはなかったが、それ以上に、は組は未来への希望と憬れのほうが強かった。
 兵太夫ひとりを除き。
「おー、みんな揃ってるなぁ」
「ったく、きりちゃんがいつまでも図書室に篭ってるから遅くなっちゃったじゃない」
「まぁまぁ乱太郎。あ、おばちゃん、3人ともA定食ね!」
 にぎやかな声を響かせて、いつもの3人組が入ってくる。眉根に皺を寄せて、ちょっと困った顔をしながらも、食堂の中に仲間を見つけるとふと表情を緩める。しんべヱは終始にこにこと笑み、きり丸と乱太郎を宥めている。
「どーした?なんかあったのか?」
 暢気な声で、金吾が乱太郎に尋ねた。
「図書室でね、破かれた本があったんだ。で、きり丸がそれを直してたの」
「きり丸が?めっずらしー」
 団蔵の一言に、きり丸の眼光が鋭く光った。
「だってうちの大切な本が破かれたんだぜ?!もったいねーだろ?」
「それはそうと、直すだけでそんなに時間かかるものか」
「きりちゃんってば、直すだけじゃなくて犯人探しまで始めちゃって。証拠があるはずだー、弁償させてやるーって言っていままでずっと図書室につき合わされていたの。」
 うんざりした顔で、乱太郎は庄左ヱ門にそう返す。途端、は組一同が一斉に吹き出した。
「きり丸らしいや」
「ほんと。変なとこに真面目なんだからきりちゃんは」
「ぅるせーなー。それがオレのいいところじゃねえか」
「普段から真面目に図書委員の仕事してくれたらもっと有難いんだけど」
「三ちゃん、それ言えてる」
 伊助と三治郎が視線を交わして笑いあった。



 ――なんだろう、この気持ちは。



 兵太夫は殆んど手のつけていない夕食をそのままに、微笑んでいる仲間たちの姿を、じっと見つめていた。

 きゅ、とこころの底が、一気に萎むおもいがした。
(・・・厭だ)
 自分の声が、むねのうちでワンと響く。
 なにかきり丸が冗談を言ったらしい。どっと一同が笑うのが聞える。
 和やかであたたかい、この空気がたまらなくすきだった。
 ずっと、この仲間たちと居られれば、とそうおもう。
(そんなこと出来るわけないじゃないか)
 愛しい。だからこそ、悲しい。寂しい。
 ぽっかりと開いた穴に、冷たい空気がぴゅうぴゅうと入り込むようだった。
 笑顔が眩しい。痛い。
 思わず、あげていた視線を夕食の煮魚に移す。
 胴体は煮汁でうまそうな色に染まっていたが、耳に入ってくる笑い声が、兵太夫の食欲を減退させた。
 厭なわけではない。だけれど、説明の出来ない虚しさが、兵太夫を苛むのだ。
 寂しさや、虚しさや、切なさ。
 いまのは組には、それが感じる。
 それは「卒業」が近いからだろうか?・・・どうなのだろう。
「兵ちゃん」
 ふと耳元で声がして、そちらを見ると案の定、三治郎が丸い眼を細くして兵太夫を見つめていた。
 また気取られたとおもった。そして、すぐに後悔した。
 もう三治郎に迷惑をかけるのはごめんだと、そう誓ったはずなのに、結局は頼ってしまう自分が非道く情けない生き物に見えた。
「はい」
「え?}
 悶々と考えて何も言えないでいる兵太夫の前に、三治郎は自分の箸に取った煮物の里芋を翳す。視線が言っている。「食え」と。
「・・・三ちゃん、意味がわからないよ」
「いいから食べてよ」
 仕方なく口だけ開けて、里芋を含んだ。じわっと煮汁が口の中に広がる。美味しい。思わずそう呟く。
「美味しいよね、この煮っ転がし」
 三治郎はにこと笑うと、再び自分の食事を始めた。
 一連の出来事がいまいち飲み込めなかったが、三治郎はなんの説明もしようとしない。ただ、里芋はよく味が滲みていて、うまかった。
「・・・そっか、」
 周りの連中は、二人のことを見ていない。わいわいとおしゃべりに夢中で気付かなかったらしい。兵太夫は黙々と食事をする三治郎の横顔を見て、ぽつりと呟いた。
 寂しい。
 悲しい。
 切ない。
 すべてが当てはまった。
 そのこころの動きに、兵太夫はようやく気がついた。
 それは皮肉にも、最も大切なひとのやさしさのせいだった。
 苦しい。痛い。
「・・・っ」
 堪えられずに声を洩らしてしまった兵太夫を、三治郎は今度は振り返らなかった。




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