O-RI-ON 2






「大丈夫?」
「・・・なーにが」
 わざととぼけた声で答えたが、三治郎にそんな嘘は通用しない。わかっていて、敢えてそう答えるのが、いつのまにか兵太夫の癖になっていた。
「わかってるくせに」
 これもお決まり。
 6年間もずっと一緒に居たのだ。わからないはずがない。
 三治郎は人一倍、他人の感情を機微に感じ取る人間だった。
 山伏という父の影響も強いのだろうが、もともと生まれ持った才能だろう。あんまりひとを気にしすぎて、幼い頃は人嫌いの子供として育った。そんな三治郎が変わったのは、学園に入学してからのことだった。
「ごはん、あんま食べてないし」
「そうかな」


 二人は庭に出ていた。
 寝巻きのまま、長屋の決して広くない庭をぶらぶらと歩き回る。
 まったく意味のない行動でしかも季節が季節のためとても寒く、端から見れば何をしているのかという状況に、いまの二人は居る。しかし意味のないのも、寒いというのも、もうどうでもいいことだった。「外に出ようか」と誘ったのは三治郎のほうだったが、それに従った兵太夫も、意味があるとかないとか、考えていたわけでもないのだろう。意味なんていらない。隣に三治郎が居れば、それでよかったのだ。
「変なことばっか聞くしね、最近の兵ちゃんは」
「・・・変なことって?」
「忍びになるのか、とか。本気なのか、とか」
 バカみたい、と呟いた三治郎の頭を、コツンと小突く。
「兵ちゃんも同じような生き方をするんでしょ」
「・・・ん。まぁね」
「じゃあなんでそんなことばっか聞くのさ」
 三治郎は足元の土を手持ち無沙汰に掘りながら、尋ねる。誠に返答に窮する質問だった。
「それはさっき言ったじゃん」
「ああ――忍びは相手を殺すだけじゃなく、殺されもするんだってこと?」
 夕方の出来事を思い出す。
 真面目な顔で、兵太夫は確かにそう言った。そしてそれは見事に否定された。・・・当然だ。愚としか言いようがない。そのことも兵太夫は知っている。自分が、なんて間抜けで的外れなことを言っているのか、なぞは。
 うまい表現が見つからないだけだ。本当に言いたい事はそんなんじゃない。
 しかしそれを彼に言ってしまえば、どうおもわれてしまうのだろうか。
 また甘ったれと言われるのは厭だ。それ以上に、嫌われてしまう気がして、恐ろしかった。
「兵ちゃんはなりたくないの?」
「・・・いいや」
「折角頑張って6年も勉強して、そして、忍者として生きる。それでいいじゃない」
 そうだけど。
 そうだけど、そうじゃない。
 もどかしい。違う。
 ぐるぐると巡る脳内はもう殆んど混乱状態だった。
 なんと言えばよいのだろう。三治郎はこちらを見ることなく、小さく開けられる地面の穴を見下ろしながら、ささやくように言葉を紡ぐ。
 三治郎には聞きたいことが山ほどあった。
 どうしていつもそんなに冷静でいられるのか。怖くはないのか。
 愚問だとおもわれるのを承知で、聞いてしまえればいい。しかし兵太夫の喉はこれ以上音を発さない。
 わたしの言いたいこと、伝わっているか。
 伝わっていないだろうな、きっと。
「あのさ、三治」
「うん?」
 俄かに穴掘りをやめ、三治郎がこちらを向く。
 線の細い、華奢な躰だ。
 見るたびにおもうそんなこと。兵ちゃんのほうが心配だよぉと笑いながら、肩を抱かれると涙が出そうになる。自分のほうが三治郎よりも少しばかり痩せていたのだ。気付かないうちに、そうなっていた。
「死ぬってどういうことか、考えたことある?」
「・・・」
 穏やかな沈黙が流れる。
 そして、「あるよ」と返した。
「死んだらもう、戻って来れない」
「うん」
「死ぬって、そういうことじゃないの?」
 よく、わかんないけど。
 昔三治郎に聞いたことがある。
 幽霊はほんとうに居るのか、と。
 どうしてそんなこと聞くの、と問われれば、迷わず、君のお父上は山伏だからと答えた。そしてそれは一笑された。三治郎はにこやかに「あのね」と言って、しばらく笑いをやめなかった。
「山伏が幽霊を見れるかなんて、僕にはわかんないよ」
「でも、お父上と一緒に修行しているんでしょ?」
「そうだけど・・・でも、わかんない。僕、幽霊って見たことないし、信じたこともないんだ」
 幽霊になるってことは、死んでもまたこの世に戻ってくるってことでしょう?
 そんなんじゃあ世の中、死ぬひとなんて居なくなっちゃう。
 意外な返答に、兵太夫は戸惑ったのを覚えている。
 あれは一年生になってしばらくしてからのことだった。
「願ったり祈ったりしたらこの世に戻ってくる、そんなことは、絶対にない」
 断言した。それは自分に戒めるような言葉尻だった。
「もしかして兵ちゃんはそう信じてた?」
「・・・いいや」
 正直に。
 まったく逆のことを考えていたよ、と。
 そして君と同じことを。
「だから心配なんだよ」
 え、と三治郎の視線が真っ直ぐに兵太夫を捉えた。
「もう二度と戻って来れない。死んだら、二度と三治郎に逢えない」
 自分が何を言っているのか、もうわからなかった。
 呆れられることも承知だった。
 しかし言わなければいつまでもこのままな気がして。
 搾り出すようだったが、静かな庭に兵太夫の声ばかりが低く響いた。
「死ぬことが怖いんじゃないんだ。死んだそのあと、三治郎が消えてなくなってしまうことが、一番辛いんだよ」
「・・・そう」
「わかる?わたしの言ってること」
 しばらく押し黙ってから、わかる、と頷く。
 いつしか月が隠れ、暗闇があたりを包んだ。
 数歩先なのに、相手の顔が見えないというのは恐ろしいことだと兵太夫はおもう。
 いつの間にか違う人間に話して居るのではないかという錯覚に陥るからだ。
 しかし三治郎はそこに居て、じっと兵太夫の言葉に耳を傾けていた。
「本気なんだよね、三治は」
「当然。」
 息を吐く。白い湯気が、もあと立った。
 2月に入ってからは、寒さが急激に厳しくなった。
 薄着のまま、外に出ていたたためか、兵太夫の肌は普段より何倍も白くなっていた。
「寒くなってきたね・・・」
「冬本番だからな」
 ふと三治郎は空を見上げた。長い黒髪が揺れ、闇に溶けるようだ。
 死んだら、この髪もなにもかもが消えてなくなるのだろうか。
 身の毛も弥立つようなそんな不安に身震いがする。寒さが手伝って、それは三治郎も感じ取ったらしい、天を仰いでいた彼は唐突に兵太夫の前に立った。そっと手を握る。
 ひや、とした。
「冷た、」
「三治も同じじゃん」
「ふふ、そだね」
 手を握り合うことで少しは血の巡りはよくなるだろう。
 自分と、そして兵太夫の手をこすり合わせながら、再び三治郎は空を仰ぐ。
「星、見えないね」
 雲がかかっている空は、一面黒に覆われて。
 普段見えるはずの星は、ひとつとしても見当たらなかった。
「いつもはあっこの空に、きれいに並んだ星が見えるんだよ」
「ふぅん」
 生返事をして、三治郎を見る。空を見上げる彼の横顔は、無垢というか純粋というか。
 その顔の裏には忍者として生きようとする強い意志が含まれている。三治郎自身はそのことに気付いていないらしいが、兵太夫にはしっかりと伝わっていた。
 三治郎は強い。
 途方もなく、強い人間だ、と。
「兵ちゃんは空なんて見上げないもんね・・・」
「興味ないからな」
 空なんて、と拗ねた口調で続ける。
「だだっ広いだけでなんの面白みもないし。三ちゃんくらいだよ、その若さで空に感動するのはさ」
「そーかな」
「そうだよ。」
 空気が震えて、三治郎がくすくす笑いをしたのがわかった。
「でも兵ちゃんだよ、死んだらひとは星になるんだーなんてゆったのはさ」
「はぁ?なんだよ、それ」
「覚えてないの?」
 覚えてない。そんなこと言ったっけ。
 記憶を巡らせてみるが、いまより前のことは断片的にしか思い返せない。
 それも、実習でとんでもない失敗をしたこととか、は組の仲間と共に川釣りに出かけ、しんべヱが川に落ちたこととか(それで土井先生にこっぴどく叱られた)、そんなくだらない出来事ばかりが、兵太夫の記憶にはあった。
「まぁ仕方ないか。一年生の頃だもんね」
「よく覚えてるよね、三治は」
「記憶力だけはいいので」
 にこ、と笑う。顔はまだ空に向けたままだ。
「いまと同じくらい寒い日にさ、こうやって庭に出て、ひとは死んだら星になるんだってわたしに教えてくれたんだよ。丁度きれいな星が出てて、わたしはすっかりそれを信じてた。あー、かわいかったなぁ、あのときの兵ちゃん」
「それは皮肉ですか、バカ三治」
 三治郎を背後から抱え込むように、抱きしめる。頸に手を回し、殆んど圧し掛かるように、だ。三治郎はただ微笑むだけで、これ以上その昔話を続けることはしなかった。
 三治郎の髪の毛が鼻先に触れる。微かに石鹸のにおいがして、切なさを更に掻きたてる。
 このひとはいつか、何処かへ行ってしまうのだろう。
 直感だが、そうおもう。
 三治郎だけじゃない、自分も。
 別れた後、三治郎の隣に居るのは一体誰になるのか。
 それを考えるたびに、悔しくて悲しくて、離したくないと切におもう。叶わないとはわかっていても、願わずには居られない。虚しい願いだった。
「でもね、」
 諭すような三治郎の声。
「ひとは死んだって星になんかならないんだよ、兵ちゃん」
「・・・わかってる」
「よく、死んだひとは死んでも傍にいて、見守ってるとか言うひとがいるけれど、あれも嘘だからね。信じちゃ駄目だよ」
「知ってるよ」
 何を言っているのか、わからなかった。
 奇妙な感覚が兵太夫の胸を締める。
 三治郎?口の中で問いかける。
 何を言いたいんだ、一体。
「ねえ、兵ちゃん」
 ひときわ低い声で、三治郎は呟いた。
「わたしが死んだら、もう戻ってこれないから」
「・・・・・・」
 だから。
 だから、なんだって言うんだ。
 言葉が紡げない。三治郎を抱く腕に力を込める。
「・・・知ってるでしょ、そのくらい」
「知ってる」
 わかってるさ。
「それでも、」
 兵太夫は額を三治郎の肩に載せた。不安定な躰はそれによって支えられている。
 いつかこの支えが消えてしまうのか。
「わたしは忍びになりたいんだよ」
「・・・・・・ああ。」
 一番聞きたくなかった言葉が、三治郎の口から零れ落ちた。
 凛として、芯の通った、彼らしい口調で。
「忍びとして生きて、忍びとして死ぬ。それが、わたしの目標だから」
 三治郎の声が、躰の底に響いていく。
 響いて、浸透して、兵太夫の思考を絡めては、行き場のない不安を強めるのだった。
「・・・やっぱりそうなんだ」
「うん。――ごめんね」
 頸を振る。謝ることでは、決してない。
 寧ろ喜ぶべきなのだ。ここまで潔く、自分の将来を決定した彼を、祝福するべきなのだ。
 しかし兵太夫は素直に喜べないで居た。きっと自分も、あと少ししたら三治郎と同じ覚悟を決め、同じように舵をとることになるのだろう。それでも、と執拗に兵太夫を苛むのは、どうしようもなく肥大した「不安」だった。
 死への恐怖ではない。


 ――一番怖いのは、彼が消えること。


「・・・寒いなぁ」
 ひょうひょうと音を立てて、風が吹き抜けて行った。
 三治郎の背中からも次第に体温が出て行ったらしく、抱きしめていても二人が温まることはできないでいた。
「部屋に戻ろうか。今日は空もご機嫌斜め」
「うん・・・」
 絡み付いていた腕を解く。ようやっとこちらに顔を向けた三治郎は、慈しむような笑顔をひとつ見せて、兵太夫にそっと口付けた。
「ごめん」
 最後にそう呟いて。





[ end ]




[ 2007/03/07 ]