もうすっかり見慣れた門をくぐり、中に入る。途端に、最後に見た景色とまったく同じ風景がそこに広がっていた。 「やあ、兵太夫くん」 ほうきを片手に、学園のなかから出て来た小松田さんがそう言った。 「久しぶりだね。元気だった?」 「ええ、なんとか」 もうみんな集まってるよ、と視線で促された。兵太夫は軽く会釈すると、その方向に足を進める。 風に乗って、あのころと変わらないにおいが漂ってきた。草と花と土の混じったにおい。最初こそ田舎くさいと嫌っていた兵太夫だったが、いざ帰ってかいでみると、急激に懐かしさがこみ上げてくるのがわかった。 廊下を歩くと足元は軋む。壁のくすみや、床板の冷たさも、なんの変化なく兵太夫を迎えた。 あの日から6年。 6年かぁと、しみじみおもう。 長かったような、短かったような。 目まぐるしく過ぎてしまった6年間を思い返す。 卒業のときは、悲しくて寂しくて、それでも出なかった涙も、いまならきっと流せるとおもった。 休校日だからか、学園内は静かなものだった。時折運動場から賑やかな声が洩れ聞えてくるだけで、教室には人影もない。 土井先生や山田先生もいない日を狙ってきたのは、いらぬ心配をさせぬためだ。しかし集合場所と言えば此処・・・学園しかないということで、現在に至る。 馴染みのある戸を前にして、ふと足が止まった。 これをあけたときに広がっているであろう光景を、不意に想像した。 ひとつだけ開いた席。 期待してももどってくることのない彼の場所。 「・・・・・・」 静かに引き戸に手をかける。それはたいした力もいらずに、スルスルと開いた。 「兵太夫!」 一斉に注がれる視線。予想通りの、明るさ。 ちゃんとそこにある温かさを感じ、ほっと胸をなでおろした。 「久しぶりだねぇ、兵太」 「変わらないなぁ」 伊助と乱太郎に手招きされて、教室の中に入った。 みんなが笑っている。こちらを向いて、にこにこしている。 「喜三太は仕事で来れなくなっちゃったんだ」 乱太郎が残念そうに言った。その顔には寂しげな色を浮かべていたが、それでも、成長したかつての仲間の到着に、喜びの表情を隠さなかった。 「でも元気だって。なんの心配もいらないから大丈夫ってさ」 「そうか」 しばらくはなにも言えなかった。 喜三太がすっかり仕事の鬼になってしまったという話は、少し前に聞いた。 しかし生きていればまた逢える、と、もう笑うことの減った喜三太は金吾に言伝たそうだ。 (生きていれば、か) 『またあの場所で、逢おう』という文を貰ったそのときから、覚悟はしていた。 無論皆と再会できるのはうれしい。しかし、それを素直に表現できるほど、兵太夫は器用ではなかった。きっと、皆もそうおもっているはずだった。 ひとり、足りないと。 「兵太夫はいま、なにしてるんだ」 黒板の下で胡坐を掻いたきり丸に問われた。 「城に雇われてる。結構いい仕事なんだ」 「へぇそりゃいいな」 「きり丸もいい加減フリーやめたら?安定しないでしょ、収入」 「ばっか、おまえなー。フリーじゃなかったら掛け持ちできないだろー?おれ、一回に5、6個仕事持ってんだぜ」 きり丸は軽快に笑う。それにつられ、みながどっと笑った。 あたたかい。変わらない、この風景。 「それにバイトもできるし」 「まだやってたの?それはそれですごいよな」 「伊助んとこで働いてやってもいいぜ」 遠慮しとく、と、人のよさそうな染物屋の主は笑った。 やがて廊下を駆けてくる慌しい音を響かせて、しんべヱが入ってきた。 「わぁもうみんな来てる!」 ごめんごめんと言いながら頭をかくしんべヱは、また少しだけ太ったように見えた。しかしその顔にはまだあのときと同じ穏やかな微笑を湛え、恰幅のいい躰はそれだけで、一介の貿易商の主を彷彿とさせた。 「遅いぞ、しんべヱ」 「ごめん!お土産なんにするか迷っちゃってさ」 「で、それお土産?」 真っ先に反応したのはきり丸だ。変わらない、とおもい、兵太夫は笑った。 「南蛮渡来のボーロ。冷めないうちに食べちゃおうよ」 しんべヱが手にしていた包みを広げると、ぷぅんと甘いにおいが教室に満ちた。 「庄左、そんなとこ突っ立ってないでこっちこいよ」 伊助に引っ張られ無理矢理座らされた庄左ヱ門は、気遣わしげな視線を兵太夫に向けた。 「?なに」 平静を装ったつもりだったが、声が若干裏返った。 「・・・いや、」 わざわざ問わなくてもわかる。なにを言いたいのか、そして、何故みなが一様に、こうもにぎやかなのかは。 痛いくらいによくわかっていた。そして、申し訳ない、とも。 「気、遣ってくれなくていいから」 その一言は何気ないものだった。 だが、この空気を一瞬にして張り詰めたものに変えてしまうほどの影響力はあった。 不意に気まずそうな表情を作るしんべヱや、眼を伏せて、ふんわり焼けたボーロに視線を落としてしまうきり丸や、人一倍心配そうな顔の乱太郎。 「・・・なに、この暗いのは」 出来うる限りの笑顔を作って、明るい声を張り上げた。 「やめようよ、折角集まったのにさ。ほら、早くそれ食べようよ!」 こんな重苦しい空気、とてもじゃないがこれ以上吸っていたくない。 「そうだな、しんべヱ、切ってくれ」 「う、うん!」 「全員分足りるかなー?」 「平気平気。こんだけ大きいんだから」 ボーロに包丁を入れるしんべヱを囲みはじめた乱太郎たちを見て、兵太夫はほっとした。 自分のせいで、この場の空気を重くさせたくなかった。 庄左ヱ門は「悪かった」と謝ったが、別に庄左ヱ門が悪いわけではない。悪いのは、なにもかも、彼。 自分を置いて、ひとりだけどこかに行ってしまった、彼のせい。 兵太夫は無言で教室を見回した。 にぎやかさのなかに、納得の出来ない、ぽっかりとした虚無感が浮かんでいる。 兵太夫は庭に出ていた。 教室の中ではまだは組の連中が談笑しているところだろうが、ふと外の空気を吸いたくなった。 気持ちの良い風が吹いて、兵太夫の長く伸びた髪を揺らせた。 「・・・どこに、行ったんだろうな」 誰に言うわけでもなく、呟いてみる。その答えは、誰も知らない。きっと、尋ねた本人すら、わからない。 「帰ってこいよ」 みんな、待ってるから。みんな、待ってるんだぞ、おまえのこと。 わたしだけじゃない、とそう付け加えようとしたが、やめた。 そんなことを言えば彼は、自分をまた置いていってしまう気がした。 「・・・帰って」 声は響くこともなく、兵太夫の躰の中に反響しては、消えた。 暮れていく太陽が兵太夫の影を伸ばす。ゆらゆらと不安定に揺れながら、それは学園の端にまで及んだ。 もう、帰ろう。踵を返しかけたそのとき、ふと耳元で自分の名前を呼ぶ誰かの声がした。 「・・・?」 もう一度耳をすませてみる。 幻聴かもしれない。しかし、もしかしたら。 淡い期待をして黙っていると、ふたたび聞えた。 「・・・三治郎・・・?」 そんな莫迦な。だけどもそれは確かに三治郎の声だった。 あの、凛としたすずのような細い声は、紛れもなく三治郎のものだった。 「三治郎!」 兵太夫は叫んだ。学園の塀に反響してそれは、空へ向かって虚しく響く。 「三治郎。」 もう一度、今度は確めるように。 「・・・・・・」 振りかえってみる。なにもいない。植えられたばかりの紅い花が、風に揺らされていた。 「・・・莫迦か、わたしは」 自嘲した。自分の情けなさに腹が立った。 三治郎はあの別れた日を最後に、消息が途絶えた。 そして風の便りに、死んだと聞いた。 誰かに尋ねる事も出来ず、それを嘘だと証明することもできず。 ただ嘘であれと願うばかりに、月日を過ごした。 もし、生きていたら、とはおもう。しかし、生きていたら何故便りのひとつも遣さないのか。 (まだ、気を遣っているのか、わたしに) 最後の最後、三治郎は兵太夫に自分のことは忘れろと言った。 そうでなければ兵太夫がかわいそうだ、と。 (そんなこと、おまえに言われる筋合いはないからな) 結局忘れる事なんてできなかった。 約束を破るのも、ぐずるのも、三治郎の嫌いなことだった。 (きっとわたしは、三治に嫌われる) しかしそれでもいいとおもった。 生きていなければ、すきになったり嫌いになったりもできぬのだから。 誰もいない学園の庭は、驚くほど静かだった。 自分以外のなんの気配もない。 ただ風ばかりが、ひょうひょうと音を立てて過ぎていく。 (わたしも、もうすぐ、そちらへ行くから) いまここで逢えぬのなら、向こうで。 三治郎の死を知ったときからおもっていたことだ。 (だけども、まだ行けないんだ) 教室へ戻ろうとした。 みなが待っているであろう、あの場所へ。 「兵太。」 黙って踏み出した足がにわかに止まった。 誰か、呼んだか? 「待てよ、兵太」 声がする。 すっかりなじんでしまった、忘れたことのない、あの声が。 「・・・逃げんな、」 「逃げてなんか・・・」 振り返った。そして、眼を疑った。 逆光にぶつかったそこに、三治郎が立っていた。 眩しそうに眼を細め、こちらを向いている。その顔は真剣そのものといった様子で、じっと兵太夫を睨むようだった。 「三治・・・?」 嘘だ、と言おうとした。しかし、声は出なかった。 口をぱくつかせていると、先に三治郎が口を開いた。 「ったく、さっきからずーっと呼んでるのにさ。全然気付いてくれないんだから」 「嘘・・・」 「嘘じゃない。ほんと」 兵太夫の手が握られる。自分より少しだけ温度の高い手だ。 生きているものだけが持つ、温かさ。 「生きてるでしょう?わたし、ちゃんと存在してる」 「・・・・・・」 呆れのような、ため息を吐いた。三治郎は生きている。そんなはずはない。 だけど、実際、ここにいて、こうして手を握っている。 「なん、で」 「?」 搾り出した声は、ようやっと自分に届くくらいだった。 「なんで、生きてるんだ。死んだんじゃ、なかったのか」 「非道い言い草だね。」 三治郎は手を離して、言う。 「死んだなんて、わたしがいつ言った?」 「・・・言ってない」 「ほら」 いまだに信じられなくて、今度は兵太夫から手を握った。ぎゅう、と音が鳴るくらいに、強く。 「ほんと・・・」 嘘じゃない。 「ほんとだって、言ってる」 「消えない・・・」 「うん」 生きている。 三治郎は、いま、ここで生きているんだ。 「どうして、便りくれなかったんだよ」 「・・・ごめん。だって、あの約束、護らなきゃだめだから」 「約束」 三治郎は頷いた。 「言ったじゃないか。わたしのことは、忘れてって。そうしないと兵太はいつまでもわたしのこと引きずるだろう?わかってんだ、自分がこれからさきどうなるかくらい」 「・・・だから、か」 「そう。だから、もう気にしないでほしかった」 俯いた三治郎は、心なしかすこしやつれたようだった。 かつてはとても気丈だった彼が、暫く見ないうちにずっと小さくなってしまった。 「忘れてほしかった。また、自分のせいで、誰かが疵ついたりするのヤだった。兵太が、わたしが死んで悲しむのは、すごく厭だ」 「そんなことおもって、誰が喜ぶんだよ」 自然と強い口調になっていた。驚いたような三治郎の視線とぶつかる。 「そんなのただ、三治郎の自己満足だ。おまえが死んで、悲しむやつはそりゃいっぱいいる。わたしも、あいつらも、みんな絶対悲しむ。だけどな、おまえが誰にも気付かれずに死んじまったら、わたしは悲しいどころじゃすまないぞ。きっと、気が狂って、おかしくなって、死んじまうかもしれない。いまよりもっと非道いことして、死ぬかもしれない。そんなの、お前望んでるか?」 「・・・兵太・・・?なに言ってんの?」 「莫迦じゃないのか。おまえは、一体どれだけわたしらに心配かけたとおもってんだ。気遣われたくない?忘れて欲しい?そんなこと、言われたほうの身にもなってみろ!」 怒りで顔が赤くなるのがわかった。抑えきれなくなった感情は、堰を切ったようにあふれ出した。最早自分のものではないような口が、次から次へと言葉を紡ぐ。 「大体おまえのせいでわたしがいつ疵付いた?誰かおまえのために苦しんだか?」 言いながら、何度も喉が詰まった。 怪訝そうな表情を浮かべる三治郎を無視して、兵太夫は怒鳴り続けた。 「勝手なんだよ、三治はむかしっから。自分で勝手に決めて勝手に行動して、そういうのがすごい迷惑なんだってことわからないのか」 「兵太――」 「どうして、こんな、心配してるのに・・・わからないんだよ!」 涙が、出そうだった。 我慢できなかった。 ずっと死んだとばかりおもっていた人間が、いまとつぜん、目の前に現れた。 その事実は果たして喜ぶべきなのか怒るべきなのか、はたまた悲しむべきなのか。 完全に感情の操作ができなくなっていた。 「兵太、ごめん」 「・・・・・・」 眼を伏せ、地面を睨む兵太夫の頭に、三治郎は握られていない方の左手を載せた。 「やめろよ・・・」 「悪かったよ。知らなかった、兵太がそんなふうに考えてたなんて」 「・・・」 何度か撫でられると、ようやく兵太夫の心も落ち着いてきた。 顔をあげ、三治郎を真正面から見る。 「・・・三治」 「なぁに」 何を言えばいいのか。 いや、言いたいことは決まっていた。 手を握るとか、抱きしめるとか、そんなことよりもまず言ってやりたいこと。 「生きてて、よかったよ」 「うん。わたしも、そうおもう」 「三治」 太陽が沈む。しかし三治郎の顔ははっきりと見えた。 何度も何度もこころのうちで唱えては、決して言うことのないとおもっていた言葉。 時間は流れるが、いつまでも廃れることなく抱き続けた。 「おかえり、三治郎」 陽だまりのような、彼は笑った。 [ → } |