雨ふらし 1



 ひとを斬ったあとの彼に、いつもの笑顔はなかった。
 虚ろに眼を伏せ、少し距離を置いてわたしたちのうしろを歩く。普段ならば駆け寄って、その肩を抱いてあげられたはずだった。
 しかし、わたしは何も出来なかった。

 足音も気配もなく、もしかしたら息すらしていないのではないかとおもうほど、彼は沈黙していた。利き腕は一面赤黒い血に覆われて、深緑色の忍び装束が台無しだった。
「三治」
 前方を歩く庄左ヱ門が声をかける。その言葉に真っ先に反応したのは、呼ばれた本人―三治郎―ではなく、他でもない、わたしだった。
「大丈夫か」
「・・・うん、」
 二人の、幾分か距離を感じさせる会話に、わたしは耳を傾けた。
「もう少しで学園だ。歩けるな?」
「・・・・・・うん」
 三治郎は、口元を歪ませて、へら、と笑った。
 そのあまりの冷たさに、わたしは、三治郎に話しかける機会を失ってしまう。

 いや、所詮それは言い分けに過ぎぬものでしかなかった。
 わたしは、怖かったのだ。
 最早いまの三治郎はかつての三治郎ではなく
 ひとりの忍びであった。今まで絶えず作り続けていた笑顔が、この日を境に嘘のようにおもえてきて、わたしは、非道く戦慄したのだった。

 上級生にあがると、実習も本格さを増す。それが直接生死に関わるものであることは、4年に進級する際教師陣から説明され、それを理解した上でわたしたちは5年にあがった。
 理解、したのである。
 相手を殺すか、自分が死ぬか。そのどちらかしか忍びとして生きる術はない。学園に入学したときには漠然としていたその「現実」が、いま、降って湧いたようにわたしたちを襲う。

 わたしは歩幅を緩める。11人全員がうな垂れて進むなか、わたしはその群から足を引く。
 それは三治郎を待つためでもあったし、同時に、この重く痛い空間から少しでも離れたかったからでもある。
「兵ちゃん」
 蚊の鳴くような、小さい、声がした。
「・・・さん、じ」
「ごめんね」
 謝るな、と云おうとするわたしを制したのは、三治郎の、冷たい視線だった。
「厭なおもいさせたね」
 三治郎は眼を上げ、わたしを見る。
 いつの間にかわたしたちの間に、体格差はなくなっていた。
 まだわたしのほうが少しばかり背が高いだけで、一年生の頃とは比べ物にならないほど、三治郎は成長していた。
「三治郎。」
 血塗れの腕を掴もうとして、それは拒まれた。
「兵ちゃんはさ」
 三治郎の歩調が心なしか早まった。

 取り残されてしまうのは、わたしだ。

「   」

「なに?」
 何か云ったような気がして、問いかけた。と、明るくなりかけた前方から、再び庄左ヱ門の声がかかった。
「おい!行くぞ」
「何してるんだ?」
 伊助も叫んでいる。見上げると、木々の切れ間から朝独特の橙色の空が広がっていた。

「行こ。兵ちゃん」
 走り出した三治郎を、慌てて追った。

 薄く華奢な背中が、非道く大きく見えた。


 ある金貸しの主を護衛すること、それが今回の任務だった。
 訓練実習はこれで四回目である。
 さすがにここまでくるとみな慣れっこのようで、調子の良い一部の生徒なぞはひとりで良いところを見せようと無駄に張り切る。
 隙があったのだ。
 そこをつけこまれた。
 突然何人かの黒装束の忍びに取り囲まれ、わたしたちは散り散りになった。
 そんななか、ひとり三治郎だけが主の前を動かず、そして、気付いた時には、全身を血に染めた三治郎が突っ立っていたのだった。

「・・・合格だ」
 は組の教室で、土井先生の声が響いた。同時にクラスのなかに安堵の色が浮いて出た。
「敵に出くわしたのは不運としか云えないな。訓練実習にはこういうこともある」
 土井先生は教室を眺め回し、落ち着いた口調で云う。何人かの生徒には安堵とともに疲労の色が見え隠れし、眠たい目をしばたたかせながら睡魔と格闘しているものもいる。
 しかしそれでも、は組全員が真剣に教師の話に耳を傾けているのは、矢張り、わたしたちがもう「一年生」ではないからなのだ。
 話を聞き逃す、それはすなわち死を意味するのだと、二年の頃、身をもって体験したのである。
「三治郎」
 あとはゆっくり休め、と云い残して土井先生が教室を出て行ったあと、わたしは三治郎を追って廊下にでた。驚いたことに三治郎に、怪我はひとつもなかった。
 血に汚れた三治郎を見て、狼狽していた乱太郎の応急処置を受けなかったのも、そのためだ。
 三治郎はゆっくりと振り返った。
 返事はない。
「三治郎、大丈夫なのか」
「?なにが」
 ため息混じりにそう返す。意外な反応に、わたしのほうが動揺してしまう。
「なにがっておまえ、」
「別にわたしに怪我はないよ」
 だから安心して、くしゃっと表情を崩した。
 ・・・普段どおりの笑顔。
 半日振りに眺める、彼の笑顔。
「そう・・・」
「兵ちゃんこそ大丈夫?すごい顔してたけど」
 数刻前の自分の顔は、三治郎に心配されるくらい非道いものだったのか。血塗れよりも非道いとはどんな顔だったのだろう・・・。
「ごめんね」
「謝るなよ。三治は何も悪くない」
「兵ちゃんに厭なおもいさせちゃったよね」
 そんなこと・・・と続けようとして、声が出なかった。先刻までの、あの、血の匂い。脂で汚れ、光沢を失った三治郎の小刀。そして、眼。
 暗闇に、三治郎のギラギラした眼だけが光っている。
 明らかに三治郎は興奮していた。
 敵の頸を斬り裂き、玩具のように吹き出る血を全身に浴びて。
「怖かった?」
「はぁ?んなわけないだろ・・・」
 ふふ、と笑う三治郎は、目元に疲労の表情を見せていた。
「兵ちゃんはさ、ひとを斬ったことないんだよね」
「・・・」
 6年生にもなって、ひとをひとりも殺していないことは、とても珍しいことだった。たいていの生徒は5年から6年にあがるまでの間、必ずと云って良いほどに通る途であるらしい。わたしは・・・恐らくは組の中で唯一、ひとを誰も手にかけていなかった。
「だからやっぱり怖かったんでしょう?」
「三治・・・ッ口を慎めよ」
 頭がカッと熱くなる。三治郎は知っているのだ。わたしが、単にひとを斬る機会を逸しているわけではないことを。
「いいよ、無理してくれなくて。」
「別に無理なんかしていないッ!」
 叫んだ。
 三治郎は身じろぎひとつせずこちらを眺めている。
「わたし少し眠るよ。なんだか疲れちゃった」
 云い捨てると、三治郎は踵を返して部屋に戻ろうとした。
 長い髪の毛をたゆとわせ、暗い廊下の奥へと消えてしまう。

 わたしの知らないところで、三治郎は確実に忍者としてのレベルをあげている。




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[ 2006/12/30 ]