くのいち教室から離れた場所にある、つつじの樹の翳に近づいた瞬間、背筋が凍るみたいな、そんな奇妙な違和を覚えて足が止まった。
 いつもこの時間に、私が側にゆけば小さな鳴き声を上げながら出てきたあのこだったから、まさか、と思い慌ててつつじの根許を掻き分けた。
 出逢った時からまだ目も開いていなかった灰色の毛をした仔猫が、胎児みたいな形に丸まって、横たわっていた。
 そうっと指先で身体に触れてみる。動物の毛の感触、ちくちくと指の平に刺さる痛み、硬く冷たくなった身体はもう生きものではなかった。
 私はため息を吐いて、食堂のおばちゃんに頼んでもらってきた、残飯を足許に置いた。そして、死んだ仔猫を胸に抱いた。
 春が過ぎ、梅雨の時期が近づいてきた風はさらさらと冷たく、湿っていた。仔猫の固まってしまった毛が微かに揺れ、私の髪の毛も一緒に流れた。
 雨の日に出逢ったこのこは、元は白かった毛を灰色に濡らしていて、非道く小さかった。それから5日間、この場所で暮らした。朝と夕に食堂から残飯をもらってきて、それを与えた。生ゴミとして棄てられるものが主だったから、充分な栄養は取れないだろうとわかっていた。そのくらいの知識はあったし、もって数日だろう、と、覚悟もしていた。
 それなのに、
 失った、と、感じた。
 失ってしまった、というどうしようもない寂しさが胸の中で渦巻いていた。
 渦巻きに飲み込まれないように踏ん張っていたすべてが決壊して、私は仔猫を抱きしめて泣いた。
 嗚咽が零れて、曇った空からささやかに延びる光が私と、仔猫を照らした。
「何やってんの」
 背中に声がかかった。気配を感じる事は容易いのに、今は仔猫と、自分だけの世界に浸っていたかった。
 このこはまだ私の大切な一部なんだから。
 だから、誰も侵入ってこないで。
 お願いだから、誰も侵入らないで。
 私達だけにして。
「授業、始まんぞ」
 私は、ようやく振り返った。
 光の梯子が差す場所に、級友の卯子が立っていた。
「どうした?」
 卯子は私の泣き顔を見て、ゆっくりと身を寄せた。同じ位置にしゃがみ込み、私の胸許を覗く。
「……ねこ、だ」
「……」
「死んだの?」
 私は黙って頷いた。
 しばらくの沈黙が落ちた。
 雲がちぎれ始め、光が帯状に拡がってゆく。卯子を照らしていた光が、私と、このこと、卯子とを、一箇所の丸い空間に集めてゆく。
 私は、それを触角しながら哀しくて泣いた。
 哀しくて、寂しくて、優しくて、泣いた。
「埋めてあげよう」
 泣き続ける私の頭に手を載せて、卯子は言った。その言葉に、私は、何度も頷いた。


 結局、私達は一時間目には出ずに、学園の隅の、誰からも死角となるだろう場所に仔猫を埋めた。苦無で少しばかり土を抉っただけで、仔猫の身体はすっぽりと収まってしまった。
 仔猫と一緒に、私は残飯もその穴に放り込んだ。
 そして、もう一度、5日間だけのあのこがいたつつじの茂みにゆき、つつじの花を数個ちぎって卯子とあのこが待っている場所に戻った。
 もう平たくなってしまった、でも周りより濃い土に覆われた、今のあのこがいる場所に、花を供えた。
 すべての行為は淡々としていて、いつもは級友達と楽しそうにしゃべったり笑ったりしている卯子が、普段と違う表情をしている事に私は気づいていた。
 慰めるわけでも、労わりの言葉を投げるわけでもない、卯子はただやわらかく微笑んでいた。それが、私には、生ゴミみたいな残飯より、つつじの花より、ずっとあのこへの餞になると思った。
「いつも始業ぎりぎりに教室に入ってくる理由がわかったよ」
 あのこのお墓の前にふたりで膝を抱え、卯子は言った。
「あんた、一人で猫の面倒看てたんだな」
「……、うん」
「優しいんだ」
「え?」
 私は卯子の瞳を見つめた。栗色の瞳は大きく、透明で、そこに映る私を私は見つけた。
 泣きすぎで、腫れた目蓋が熱い。
「優しいんだ」
 卯子はその言葉を何度も繰り返した。私は、また押し寄せてくる感情が、涙を齎すのを覚えた。
 卯子の指先が私の手の甲に触れ、泥を払ってくれる。思っていた以上に温かい指先だった。
「ありがとう、」
 小さな声で、私は言った。
「何が?」
 卯子が悪戯っぽく、歯を見せて笑う。私はそれにつられて、とうとう泣きながら笑った。



 ああ、なんて、

温 か な 指 先




[ 2010/04/23 ]