今じゃあもうすっかり肉欲に溺れてんのサ。まさか自分がそんなふうに思ってしまえるなんてまるで考えていなくって、唐突に披けた未知の視界にじっ、と目を凝らしてみても拡がるのは青暗く染まりゆく部屋でしかなかった。だってあんまり唐突でサ、ごめん。誰にともなく謝ればそこにいたのかと思う人物に「それはきっとお前のせいなんかじゃないよ」と窘められる始末。なんという不甲斐なさ! 茫洋とした思考の片隅にあるぎりぎりの、理性、が、目の前の男――おそらく、おまえ、――の首筋に噛み付きたい衝動を抑えている。「じゃあ、誰のせい」。問うと、少なくともお前のせいじゃあない、との返事。ばかみたいだね、なんでこんな押し問答をしてんだろう。お前は私のせいじゃあないと言うし私は私のせいだと言うし、とんだ水掛け論を蜿蜒、かれこれ二刻は過ぎたか、その間にできたかもしれない、何か、を、私はぼんやりとした頭で考えてみた。やりかけの課題、読みさしの本があった。「あぁあ、まったくばかだよ」。顔を手のひらで覆い部屋の青さとお前から逸らそうとずるずる、壁に背中を押し付けて身体を投げ出した時、額にお前の指が触れた。指の平はごつごつと硬くてそれで、額に掛かった前髪を払う。目は閉じていたものの気配はお前が私のすぐ側にいる事を主張していた。「俺も同じようなばかだよ」。指の隙間から窺うとわかる、お前のやわらかい笑みが翳を作り、鼻と、下がった眉尻、さほど高くない鼻梁とが現に浮かび上がる。とてもかなしい情景をみつめている気がして、目の奥が熱を帯びた。それはあっという間に膨らんでまばたきをするまでもなく毀れ落ちた。「なんで泣くの」。わからない、と首を左右に振る。すると、それまで額に触れていた温かさ――人間の持つ、血の通った、それ、――が一瞬だけ離れ、側頭を手のひらで包まれた。とかく大きさばかり目立つ手が、こんなにも優しく身体の抱く事を私以外には知らなければいい、のに。「そういうふうに思えている限り、お前は人間だよ」。ちなみに俺も人間だ、残念な事に。虎若の熱い吐息が耳朶に触れて、私は浅く呼吸をした。




停 滞 い し か 知 ら な い






(2010/10/17)