背後にザッ、と音がして、振り返るより早く伸ばされた手によって目蓋を塞がれた。拡がった暗闇に、土を弄っていた手をとめる。
「三治郎?」
 普段は気配を殺して――本人にその気がなくても、――近づいてくるのに、何かあったな、と直感して探るように虎若は三治郎の冷たく、薄い指に己のそれを重ねた。
 三治郎の手は夏であろうと冬であろうと、非道く冷たい。その、骨の形がわかる指を加減して握ると、己が手に付着した土がこびり付いた。
「汚れるぞ」
「……うん」
 こつん、と三治郎の額が背中に押し付けられたのを、微かな重さと彼の体温で感じた。虎若は作業の手をとめ、目蓋を覆う手のひらを優しく剥がす。そして身体を反転させ、改めて三治郎と向き合った。互いに低く腰を落とした状態である。生い茂った薬草の匂いが、夜の滲み込んだ空気を漂う。
「差し入れ、持ってきた」
 淡い紺青の中で、三治郎の笑みが顔に影を作った。その消えそうな、儚い笑顔が愛おしい気持ちを連れてくる。ありがとな、と言って虎若は、三治郎の頭をポン、と軽く叩いた。
 縁側に並んで腰を降ろし、竹の皮の包みをほどくと、白米の握り飯が二つと沢庵が姿を現した。虎若の好みに合わせて少し大きく作られた握り飯にさっそくかぶり付く。
「食堂に行ったら伊助もおにぎり作ってたから。……伊助ほど上手にはできなかったけど」
 美味いよ、と言う代わりに、口を動かしながら首を振ってやる。その様子を見て三治郎は小さく笑った。
 草履の引っ掛けた足を伸ばし、少し身体を反らして空を見上げる。痩せた首筋に月光が照り返し、いつも以上に青白く見える三治郎の肌を、虎若は横目でみつめた。
「三治」
「うん?」
 こちらを向いた顔に、握り飯を一つ突き出す。
「お前また痩せたろ」
「んー……」
 三治郎は困ったように首を傾け、そんな事ないよ、とはにかむ。
「それにこれ、虎のために作ったんだから。ちゃんと食べてよね」
 握り飯を指差されそんな事を放たれてしまえば、虎若はただ黙るしかできなかった。
「ねえ、こんな時刻まで何してたのさ」
 大人しく少しばかり塩味のきつい握り飯を頬張り、ん、と、三治郎の線の細い横顔を見やる。
「今日の委員会の帰りに立葵が生えてたからサ、こっちに植え換えようと思ったんだよ」
「立葵?」
 うん、と頷く虎若の指差すほうを見ると、薬草園の囲いの一角に、高く聳えた一本の花の影をみとめた。
「なんでまた」
「……なんで、かな」
「全っ然、柄じゃない」
 三治郎があははと笑い、つられて虎若も口もとを緩める。
「ほらサ、俺だって去年まで生物委員だったから」
「今はいけどん体育委員だけどね」
 虎若と三治郎は、3年生まで同じ生物委員会に所属していた。しかし4年に進級し、虎若は体力作りになるからという理由で体育委員会に入り直した。
 ひと言に“生物”委員会といっても多種多様で、植物も生きものに違いないと言いだしたのは三治郎だった。そのため、三治郎と虎若が2年になってから、晴れて委員長となった竹谷八左ヱ門に、植物の世話を活動の一環として始める事を申し出た。
 竹谷が卒業し、伊賀崎孫兵が委員長を引き継いだ今も、その方針は変わっていない。尤も、伊賀崎は「植物は可愛い毒蜘蛛達の棲み家になる」という意見でもって賛成をしたのであるが。
「そいや、サ」
 竹筒に入れられた水を飲み込んで、虎若が話を逸らすように口を開く。
「三治郎はなんで生物委員会で植物も育てようって言ったんだ?」
 さぁっと風が通り抜け、低いところで結った、三治郎の黒く、細い髪の毛が震えた。
「んー、植物だって生きものだから……。それに、ちょっと興味があってね」
「……興味って?」
「毒草、とか」
 いたいけな唇から発せられた思いがけない言葉に、虎若は含んでいた水を吹き出しかけた。
「ちょっと、虎、大丈夫?」
「……ん、」
 ゴホゴホッ、と咽る虎若の背中を叩きながら、からかうように三治郎は笑う。
 三治郎は後輩をもつようになってから、――あるいは、それ以前、虎若の気づかぬうちから――、毒草や毒を内包する虫や爬虫類などに対して興味を抱くようになった。そういえば、と虎若はそう遠ざかってはいない記憶を辿る。最近は特に、蛇についての本を読み漁ってたっけ……。
「お前さー、伊賀崎先輩2号にでもなりたいのか?」
 ついため息混じりになってしまうのは、虎若が伊賀崎の毒虫事件を幾度となく経験しているからだ。三治郎は、そんな彼の杞憂を知ってか知らずか、緩やかに笑って、
「大丈夫。私は先輩よりずっと巧く扱ってみせる」
「……さいですか」
 空になった竹筒を縁側に置き、虎若は苦笑をしながら立ち上がる。
「差し入れ、ありがとな」
「まだ作業するの?」
「ああ」
「虎、……」
 ぐっと背伸びをした虎若の腰に、三治郎の骨ばった腕が巻き付いた。
「ありがと」
 夜の色をした声は、風が吹けば消散してしまうのではないかと思うほど儚く、そして危うささえ孕んでいた。
「なにが?」
「……とぼけんな、馬鹿」
 ポス、と拳で軽く背中を叩かれたが、虎若は三治郎を拒まなかった。
 彼の抱える震えや冷たさに、痺れ、切なくなる。このままその薄い手を引いて、何処かに連れて行ってしまいたくなる。
「先に寝てな」
 不可思議な欲求を抑えるように、声を殺して前に廻された手の甲を撫ぜた。
 わかった、と応える代わりの頷きを微かに感じた。それから、は、と浅い息を吐いて、三治郎は離れていった。



冷 え て ゆ く 虚 勢






[ 2010/07/23 ]