蜩が鳴いている。 木立が左右を囲む道を一歩ずつ踏みしめるたび、雨に濡れ柔らかくなった土の匂いが鼻腔をくすぐった。 夕立が来る、という三治郎の予想は当たってしまった。実戦訓練のためふたりひと組に分かれての札取り合戦であったのに、得意の火器が使えなかった事を虎若は憤慨した。 「三治、お天道様に空気読めって言ってくれよ」 並んで歩いていた三治郎にぼやくと、4年に進級してぐっと背の伸びた、しかし相変わらず線の細い三治郎があははと笑った。 「お天道様はうちの兵ちゃんより気まぐれだからね、無理だよ」 特に、梅雨明け間もないこの時期だ。カラッと晴れた気持ちのいい一日もあれば、朝からどしゃ降りの日もある。 「それに、虎ちゃん、今日はは組内同士の訓練だから」 鉄砲があるって知らせる意味はないよ、と三治郎は柔らかく諭す。 いくら火器、とりわけ鉄砲が好きといっても、授業で使う事は滅多にない。同じ組同士であるならなおさらだ。虎若はだから、今日も火縄銃は持っていない。 忍びにとって火器はものを破壊したり敵を攻撃するためにあるものではない。時と場合によるが、少なくとも“忍び”という存在である限り、火器はあくまで、敵を“威嚇するため”のものである。常に火種と火薬は携帯しているが、虎若も重い火縄銃をわざわざ担いで訓練に臨もうとは思っていなかった。その点は重々承知しているため、虎若はようやく彼らしい柔和な笑みを作って、仕方ないか、と言った。 「あー、しっかし三治が対でよかったよ、ホント」 「ん、なんで?」 訓練終了の鐘が木霊してほっとしたのか、思わず洩れたのだろう本音に、三治郎は無邪気に笑ってみせる。 ……ほんっと、怖いヤツ。 そっと心の内でぼやいて、 「ずっと団蔵とか金吾とか、俺とおんなじ前線向きのヤツと当たってたから。特に団蔵は作戦って概念がないヤツだろ、一人暴走して、大概兵太夫の罠に掛かる」 三治郎はぷっと吹き出した。 「で、兵ちゃんと喧嘩が始まってまんまと金吾に札を取られるわけだ」 「そうそう」 札取りは上級生向けの実戦訓練だ。実習場所は裏々山、火器を含めた忍器を臨機応変に使い、持ち札2枚の44枚の札をふたりひと組で奪い合う。他より多く札を集めた対から順に成績がつけられ、実習態度もその都度加算される。 あまりない事だが、最後に札をすべて奪われた対はいくら実習態度がよくても当然補習決定だ。一度だけ、虎若と団蔵の、は組でいう“超前線向け”が対になった時がいい例である。走り屋の異名を取る団蔵が作戦を忘れ突っ走り、ことごとくすべての札を奪われた。 「今回はくじ運がよかった、ホント」 しみじみ物語る虎若の声で、こいつも案外、乱太郎に負けず劣らずの巻きこまれ型不運なのかも、と思った。 西日が背中をちりちりと灼く。夕立後の林はむっとした空気が立ち込め、低体温の三治郎でもさすがに汗が噴き出してくる。虎若は疾うに頭巾を外し、襟ぐりまで寛げている。 身体が、奥底まで引っ張られるようにずん、と重いのは、実習での疲れも充分関係しているのだろうが、此処のところは期末前の試験や委員会の会計決算などに追われて、睡眠時間をだいぶ削っているせいだ。 「三治、大丈夫か?」 ささやかに洩らしたため息が聞こえたらしい、虎若が眉根に皺を寄せて三治郎の漆黒の瞳を覗き込む。三治郎は片手を軽く挙げ、大丈夫、と言った。 「さすがにちょっと疲れただけ。たいした事ないよ」 「……そっか」 三治郎は頭巾をほどき、首に引っ掛ける。学園までもう少し、ふたりの持ち札は14枚。12枚――つまり単純に考えれば3組から奪った事になる。上出来だ。 安堵の息を吐いたその時、 「――ッ三治郎!」 虎若が咄嗟に叫び、苦無を茂みに向かって投げた。しかし、疲れ切った身体は神経までも冒し、苦無が地面に刺さった時には既に、細長い蛇が三治郎の白い腕に噛み付いていた。 「……やられた」 三治郎は舌打ちをし、腰に差していた小刀で蛇の首を斬り落とす。 一年生の頃から、毒蛇を愛玩動物として所有していた先輩が同じ生物委員にいたおかげで、こういった生きものの対処には慣れている。今は体育委員に所属している虎若もまた同じであったが、凶悪な顔だけになった毒蛇が三治郎の腕に歯を立てている様を見て顔を渋くした。彼は三治郎ほどこういった野生の、――野生であるからこそ無邪気な――、生きものに対して冷静になれない。 「くそッ、蝮かよ」 「虎、火薬と火種持ってたよね」 吐き棄てるように言い、蝮の胴体を睨みつけている虎若に、淡白な声で三治郎は言った。 「私のは駄目だ、雨で時化ってしまったから」 「……おう」 腰にぶら提げていた革の袋から、言われたとおり火薬と火種を取り出して手渡すと、三治郎は無慈悲なほどの勢いでもって蝮を腕から引き離し、赤黒い牙痕に火薬を載せ、躊躇もなく火種を近づけた。 パンッ、と音が響き、驚いたのだろう、雨で翼を休めていた鳥達が樹々からいっせいに飛び立った。 「痺れねえか」 「ん、平気」 患部に首に掛けていた頭巾をきつく巻き付けながら三治郎は放った。夏の夕空を思わせる赤紫の布が、じわりと三治郎の血で滲む。三治郎はしかし、まるで何事もなかったかのように立ち上がると、「早く学園に戻ろう」、と笑った。 虎若は、自分がどれだけの疵を負っても涼しい顔を作る三治郎に対して、尊敬と同時に恐怖を感じていた。恐怖は畏怖にほど近く、まるで死ぬつもりはないのに、本人の知らないところであっさりと死んでしまうような、否、死ぬというよりも、此岸から彼岸へひょいと渡っていってしまいそうな、危うい脆さを感じてもいた。 自分よりよっぽど薄い背中をすっと伸ばして、三治郎は虎若の斜め前を歩く。 山裾に引っ掛かっていた茜色の太陽がとうとう姿を消し、青い光が世界に満ちた。空を見上げると、千切れそうな三日月がくらげのように漂っている。 不意に、前を歩いていた三治郎の足もとが揺らいで、虎若は慌てて傾いた彼の身体を抱きとめた。 「三治郎!」 「、ッ」 眉根を寄せ、三治郎は、ごめん、と言った。額に浮かぶ汗が球状になって三治郎の滑らかな頬を伝う。 「ごめん、ごめんね、虎」 「馬鹿、しゃべんな!」 くずおれるようにその場に立ち膝を着き、虎若は冷や汗を滲ませる三治郎の額を頭巾で拭ってやる。次第に荒くなる呼吸が、紺青に染まった夜を震わせる。 「解毒剤……、は、使っちまったか」 「ん……、喜三太のおかげでね」 今回は伊助と組んだ喜三太が虫獣遁の使い手である事は、は組全員の知るところだ。 「じゃあ、学園まで走るしかねえか」 「えっ?」 三治郎が抵抗するいとまも与えず、虎若が軽々と三治郎の身体を持ち上げ、横抱きにした。 「わーぉ……」 その手際のよさに、思わず嘆息が洩れる。 「首に手ぇ、廻せるか?」 「うん」 「じゃ、いくぞ」 夏の始まりを感じる風が、虎若の走る足音といっしょに頬を殴る。ぐんぐんと上がる速度に、三治郎はぎゅ、と虎若の忍び装束を握りしめた。 「三治、お前軽すぎ! ちゃんと食ってンのかよ!」 「虎ちゃんが筋肉付きすぎたんじゃないのー?」 背中におぶさるよりずっと負荷の掛かる状態であるのに、疲れを忘れたかのように虎若は走った。 やがて学園の裏口が見えてくる頃、点呼を始めようとしている山田と土井、そして同級生の姿が、松明の明かりにぼんやりと浮かび上がった。 [ 2010/07/18 ] |