喜八郎の目の前で、ちりん、と軽い音を鳴らす鈴が揺れた。朱色の紐に繋がっているそれはタカ丸の指に摘ままれていて、傾き始めた日が銀の表面を照り返す。 「なんですか」 喜八郎は、至極真っ当な質問を投げた。茜に薄墨を含ませたような部屋のなかには彼とタカ丸しかおらず、鈴の音は、そのふたりきりという状況において、非道く淋しげに、ちりちり、と鳴き声を上げていた。 「お土産だよ」 タカ丸はそう言って、喜八郎に、ちょっと後ろ向いて、と言った。素直に従うと、タカ丸はしゅるりと喜八郎の結い紐を解き、部屋へ入ってきた時に携えていた髪結い道具一式から櫛を取り出すと、緩慢な動きで髪の毛を梳き始めた。 「出掛けていたんですか」 「うん、ちょっと父に呼ばれてね」 昨日の夜に、明日は一緒にはいられないと言われていたから、せっかくの休日を蛸壺掘りと昼寝――正確には、不貞寝だ――に費やされた喜八郎は少しばかり憮然とした態度で私服のタカ丸を見やった。 「また穴を掘ってたの」 「穴じゃないです蛸壺です」 タカ丸は喜八郎の髪に付いた細かい土を払って苦笑した。 彼がこうして喜八郎の髪に触れるのは最近では日常の事で、寝起きの癖を直してやったり、例によって蛸壺掘りに夢中になっている喜八郎の折を見て整えてやったり、風呂上がりにほかの級友――滝夜叉丸や三木ヱ門だ――も交えて梳き合ったりもしていた。 最初こそその慣れた手つきに驚いたものだったが、よくよく考えてみれば彼は髪結いの息子で、幼い頃から指南を受けていればそれは当然のものだと喜八郎は合点した。そして今ではすっかり安心しきった様子で、タカ丸が髪に触れる手を楽しんでいる。 「タカ丸さんの手、」 「ん?」 指先がうなじに触れ、その冷たさに安心をする。けして口にはしないけれど、生きていると信じてもよい気がするのだ。自分にも体温がある事を、このひとは信じさせてくれる。 「好きです」 ふ、と香った甘い花の匂いに眩暈を起こしそうになりながら、喜八郎は言葉を紡いだ。背中で、きっと苦笑しているだろうタカ丸の顔を想像すると、先程までの彼への憤慨は何処かへ行ってしまった。 「俺も喜八郎の髪、好きだよ」 だからこうして、毎日触りたくなるんだよ。吐息が耳朶を掠めた。タカ丸さん、と振り返りかけた喜八郎のまるく小さな頭を抑えて、「もうちょっと待ってね」、と非道く柔らかい声で言った。 「僕は赤子じゃないですよ」 子供扱いしないでください、と文句をつけると、ふふ、と軽く笑って、「そうだね、ごめんね」、と言う。その声音もまた幼な子を諭すようで、それからはタカ丸がよしと言うまで黙っている事にした。 「はい、できた」 日が完全に落ちた頃、ようやくタカ丸は喜八郎を解放した。膝を使ってタカ丸と向き合えば、彼は薄闇のぼんやりとした空気のなかで微笑んでいるようだった。 片手を挙げて高く結われた場所を探ってみると、指先に、冷たい感触があった。ちりん、と鈴の音が部屋に響く。 それは淡い残響となって喜八郎の鼓膜に張り付くようだった。 「可愛いよ、喜八郎」 髪が揺れるたび、鈴が鳴る。 「……忍びには向きませんね」 「うん、だから、俺といる時だけ付けてて」 そうしたら見失わないから。タカ丸はそう言い、喜八郎の首に腕を廻した。りん、と鈴が鳴り、音とともに喜八郎はタカ丸の胸のなかにおさまった。 「これを付けていたら、自分が忍びだという事を忘れてしまうかもしれない」 タカ丸の瞳を見上げ、唇をきゅっと結ぶ。 「それでいいよ」 明かりのない部屋のなかで、鈴の音がひとつ、小さく鳴いた。 [ 2010/09/25 ] |