水色と灰色が、溶け合うように寄り添っている。きれいな空。ユキは小さなため息を吐く。その空を背中に背負う枝には、いくつもの桜色の蕾が、本格的な春の到来を焦らされて、しかし静謐に留まっている。 卒業式というにはいささか賑やかすぎる式場から抜けたのは、あの空間にい続ければきっと、感情が溢れて止まらなくなってしまうから、なのだろう。ユキは級友達が笑い、泣き合っている様子を遠目に眺めながら、その場から離脱した。 まだ咲き始めの桜の樹は、ユキが忍術学園に入学した頃からあったものだ。きっと、何人もの新入生と卒業生を、やわらかく、見護ってきただろう太い幹や、清潔な冷たさすら感じる蕾の桜色は、ユキの心をほんのりと和らげた。遠くで、祝宴の歓声と、泣き声が聞こえる。 ユキは桜の樹を見上げ、誰かが近づく気配を感じた。それが誰のものであるか、振り返らずともわかっていた。 「ユキちゃん」 肩を軽く叩かれて、ユキはようやく樹から目を離した。そして見つける、濃い青の忍び装束をまとった眼鏡の男。 「……何よ」 「宴会には参加しないでいいの」 「乱太郎には関係ないでしょ」 こんな時でも意地の悪い言葉しか吐けない自分が、心底憎らしいと思った。乱太郎はこんな時のユキの態度には疾うに慣れていて、眼鏡の奥の目を細め、 「桜、もうじき咲くね」 と、言った。 それはひとり言のようにやわらかく、まろく、ユキの鼓膜を叩いた。 そうね。 ユキは、隣に並び、同じように桜の樹を見上げる乱太郎の、昔よりずっと広く、逞しくなった肩を見つめた。 途端に押し殺していたあらゆる感情が迸りそうになり、慌てて目を逸らす。 薄青い風が吹いて、ユキの高く結わえられた髪の毛が流れる。 「ユキちゃん、」 何、と言うよりも早く、ユキは乱太郎の胸の中に包まれていた。筋肉のついた腕の感触に、不覚にも心臓が跳ね上がった。 「何すんのよ!」 「ユキちゃんの髪の毛、好きだよ」 乱太郎はそう言って、ユキの栗色の髪の毛に鼻を埋める。吐息が耳朶を滑り、ユキは全身から力が抜けてゆくのを感じる。 拒絶など、できるはずはなかった。 抵抗など、敵うわけがなかった。 ただ、今は、成長してしまった彼の腕のぬくもりや、呼吸の潔さや、心臓の音を聞くだけで精いっぱいだった。 「それから、大きな目も、」 頬を両てのひらで包まれる。真っ直ぐに見つめられて、動けなくなる。乱太郎の目は、丸くて、優しい。まだ小さなこどもだった頃の、年下だった頃の、あの頃のままなのは、その瞳が語る誠実さだ。 優しすぎる男。 ユキは心の中で呟いた。 「長い睫毛も、小さい鼻も、」 「……小さくて悪かったわね」 「褒めてるんだよ?」 そして、乱太郎は、ちょこんと突き出た鼻先に、浅く口づけた。 「怒る時に、すっごく大きくなる口も」 「あのねえ……」 視界に溢れた真珠のような光が散らばって、あっという間に頬を流れる涙になった。乱太郎の指先を濡らしてゆくその涙が、何処から溢れてくるものなのか、ユキは、わかっていた。 「私を呼んでくれる声も、」 ぎゅ、と目蓋を閉じる。目蓋の上に、乱太郎のぽってりした唇が落ちる。 「笑った顔も、」 ばか、とユキは声にならない声で、放った。 そんな言葉がもう彼に通用しない事なんてとっくに知っている。でも、今、言わなければいけない気がした。ばか。その一言であんなに顔を赤くして、怒ってたあんたに、何故、あたしは、 「泣いた顔も、」 今、こんなにも泣かされているのだろう。 「私はどんなユキちゃんも好きなんだよ」 ねえ、だから、心配なんかしなくても、いいんだよ。 まるでおさなごをあやすような甘やかな口調で、言った。きっと目を開けたら、いつもみたいに笑っているに決まってる。悔しいけど、あたしはもうあんたに追い越された。 「心配なんかしてない、」 「うん」 「あんたに心配されたくなんかない、」 「うん、そうだね」 「何なのよ、あんたは」 そうしてようやく、ユキは目を開いた。目の前にはやはり、穏やかに、ゆったり微笑んでいる乱太郎の顔があった。 「ねえ、何が正しくて、何が間違ってるかなんて、きっと、ずっとわかんないよ」 「あたしだって、知らない」 「ねえ、だから」 ふ、と乱太郎は手を頬から離し、真っ直ぐにユキを見つめた。 「だから、ねえ、安心して、いいんだよ」 ユキは手の甲で乱暴に涙を拭う。呼吸をすると、鼻がぐずっと情けない音を鳴らした。 「……背が、伸びたね、乱太郎」 改めて乱太郎を見ると、彼はユキの頭一つ分、抜いていた。 「そうだね」 乱太郎は浅い呼吸をしながら、笑った。そして、 「卒業おめでとう」 言葉と一緒にユキを引き寄せて、ぎゅ、と、ユキの着古した忍び装束の裾を握った。 (もう戻れない、あの時の背中)
この話は、2007年3月17日にweb掲載されたものを大幅に加筆修正したものです。 |