ぽかん、と空いてしまった空虚な冷たさに慣れるまで、幾らかの時間を要した。自分はそんな感傷に乱されるほど脆くはないと自負していただけに、持て余すばかりの空白は文次郎を苛立たせた。忍たまとはいえ仮にも忍びであるのに、ばかばかしい。文次郎は舌を打って、どんよりと暗い空を見上げる。
 月もなく、星ひとつ瞬かない淋しい初秋の夜だった。
 遠くの山で梟が、ひとつ、甲高く鳴いた。
 いなくなった。
 同級生の留三郎が朝の井戸端で突然放った。
 誰が。
 文次郎は好敵手として認めている男を一瞥してから、ぼそっと問うた。
「伊作が、いなくなった」
 掴んでいた釣る瓶桶が、がたん、と音を立てて足許に落ちた。何? と改めて留三郎に向き直る。
 起き抜けのふたりの周りには同じく起きたばかりの同級生や学園の生徒が集まっていて、不思議そうな顔を作り横目で彼らを見ている。
「朝、起きたら布団が畳まれて置いてあった。伊作が消えた。何処に行ったか、お前なら知っていると思ったんだが……」
 昨夜は自主練に専念するつもりで伊作に逢瀬を切り出さなかった。伊作もまた、それを諒解したらしく、夜食を作って渡してくれた。
「やっぱり、わからんか」
 留三郎のため息交じりの言葉は無意識のうちだったのだろうが、文次郎は激しく反応した。気がついた時には留三郎の寝間着の胸倉に掴みかかっていた。
「何すんだっ?!」
「てめえがあいつの何を知ってるってんだ?!」
「何やってるんだ、お前ら」
 勢い余って振りかぶった文次郎の右手首を、冷たい手が強く掴んだ。仙蔵だった。
「喧嘩なら他所でやれ。朝から五月蠅くてかなわん」
 相変わらずの冷静な物言いに、文次郎も留三郎も途端に闘志が萎えて、互いに身体を離した。
「あいつの事だ、突然ふらっといなくなってもおかしくない」
「何を根拠に……、」
「別に、今までの経験上さ」
 仙蔵は眠そうに欠伸をする。
「食満、とりあえず担任には休みだって言っておけばよいだろう」
「言われなくてもそうするつもりだ」
 留三郎は軽く舌打ちをして、文次郎から離れた場所へと移動した。その背中に罵詈を吐きつけたい気持ちになったが、深いため息でもって押し止めた。
「お前も大変だな」
 仙蔵が唇の端を持ち上げた。その憎らしいまでに美しい顔を睨みつけて、文次郎は乱暴に顔を洗った。

 あの朝から、伊作はめっきり姿を見せなくなった。
 無論授業にも出ていないらしく、留三郎は廊下ですれ違うたび首を左右に振る。それが無言の合図となっていった。
 伊作は消えようとしているのかもしれない、と考え始めたのは、いなくなってから5日が経った昼下がりの事だった。文次郎は、心臓が冷水を浴びせられたかのように凍りついたのを覚えた。しかし、有り得ないと笑い飛ばす事はできない。あいつは、そんなやつだから。
 伊作の顔が見られなくなってからというもの、鍛錬に身が入らない。そのたび無理やり身体を動かしては邪念を振り払った。自分の身体をいくら痛めつけても、疵を作っても、拭っても拭っても消えない、伊作が夜ごと付けていた背中の爪痕や、絡みついた指の熱さ、何度も触れた薄い唇の感触が、気を抜くと鮮やかに甦る。
 ばかばかしい。女々しい。
 夜目に苦無の突き刺さった藁人形が見える。
 人形の周りには数十本の苦無が、人型を刳り貫く形で刺さっている。
 文次郎は渾身の力を込めて苦無を放った。
 人形の心臓部分が、真っ直ぐに伸びていった苦無によって、鈍い音と一緒に貫かれた。


 大きく息を吸うと、夜の冷えた空気が肺に満ちた。秋の近いこの頃は、夜になると急激に気温が下がる。
 伊作は本堂から離れた部屋の畳の上に横になり、弱い呼吸を繰り返していた。
 伊作が戦で家と家族を失くしてから世話になっていたこの寺は、今は楽隠居の住職がひとり、いるだけで、深く静まり返っている。
 かつて自分が此処にいた時の事を思い出そうとした。しかし、記憶は湖の底に沈み込んで混濁している。考えても考えても、自分が此処にいたのだという確かな感触が、ない。
 伊作はその恐怖にどんどんと、墜ちていくのを感じていた。
 ひとりきりで夜を過ごすのは久しぶりだった。
 いつもは文次郎や、同室の留三郎、同級生の親友と一緒であったから、ひとりきりという感覚すら忘れかけていた。
 忽然と姿を現した“ひとりきり”という曖昧な、しかし美しい孤独に、伊作は身を委ねようとしていた。
 すべてを忘れてしまったら、それで終わりだ。
 そんな恐怖とも予感ともわからない何かが胸の中で渦巻き、更に伊作を混沌とした思考に突き落とす。
「文次郎、」
 こんなところまで逃げてきても、払拭できない存在が心の底で自分を呼んでいる気がした。それはもしかしたら幻想かもしれなかった。わたしは、彼に救いを乞うている? そんなばかな。そう考えて、しかし、ほんとうは、今すぐにでもこの腕を彼に掴んでほしかった、と、淋しさに浸食された心臓が叫んだ。
「伊作」
 声がして、首を廻すと、ぼんやりとした灯りに縁取られた、住職の姿が在った。
 長年の苦労が刻まれた柔和な顔は、今は、見えない。しかし、住職が微笑んでいるのは気配でわかった。
「もう帰ったほうがいいんじゃないか」
「うん……、」
 暗い部屋に響く声は、いつか、聞いた声と同じ筈なのに、その記憶が一致する事はない。
「スミは、どうなったかな」
 そう言って住職は数歩、伊作に歩み寄った。伊作は身体を起こす。
「大丈夫、なんともない」
 住職は、そうか、と言って、開け放たれた戸から空を見た。誰もいない空だった。
「空気が悪いな」
「……」
「待っている誰かがいるのじゃないか」
「……、どうだろう」
 ふっ、と息だけで笑った。
 待ってる誰かなんて、自分には、いない。
 伊作はおもむろに上衣の帯を解き、素肌を夜風に晒した。光の差さないこの場所で、彼に刻まれた刺青は黒々と深い影を帯びていた。
 寺を出る前に、住職に頼んで彫ってもらった刺青だ。
 本来ならば囚人などに彫られるものである刺青を、伊作は敢えて刻んでもらった。
 成長とともに刺青が炎症を起こし始め、伊作はそのたび水に浸した手拭いを宛がってやり過ごした。それが、自分では手に負えなくなったのはつい最近だった。成長期に差しかかり伸び出した骨格に刺青が堪え切れず、寺を訪れたのは5日ほど前。明け方に激しい痛みに襲われ、半ば無意識に此処を目指した。
「きれいですか」
 伊作は住職に背中を向け、刺青の施された箇所を見せた。灯りが近づいて、ちり、と走った熱に一瞬だけ身体が強張った。ふん、と住職が鼻息を漏らした。
「ああ、大丈夫だ」
「そう……、よかった」
 そして着物を着直すと、伊作はやおら立ち上がった。
「行くのかね」
「はい、……誰も、待ってませんけど」
 それだけ言って、伊作は縁側から飛び下りた。ふわり、と風に乗って訪れた初秋の香りが鼻先を擽って、非道く懐かしい気持ちを持った。
 同時に、取り返しのつかない何かを、自分は確実に手にしてしまったのだという罪悪感が湧き上がり、呼吸が苦しくなる。
 夜道をてろてろと歩きながら、胸もとを押さえ、伊作は唱え続けた。
「文次郎」
 助けてくれ、救けてくれ、たすけて、逢いたいんだ、わたしは、君に、今すぐ、逢いたいんだ!
 生理的なものなのか、それともきちんとした感情が膨れ上がったのか、涙が零れた。
 ぱたぱた、と落ちる涙は何にも照らされる事なく、ただ地面を濡らした。


 重たい目蓋を持ち上げ、不意に差しこまれた光が眩しくて、思わず目を閉じた。
 眩しい、光、……朝?
 おそるおそる目を開くと、染みの付いた天井が視界に映った。それから、自分を包んでいる温かいものが布団である事にも、気がついた。
「起きたのか」
 ゆるゆると鼓膜を震わす声が誰のものなのか、考える間もなく伊作はその主を見つける。
 医務室の壁に背中を預けて、胡坐を掻いている男は、紛れもなく、
「文次郎」
 愛しいあの男だった。
 掠れた声で、何度も、同じ名を繰り返す。咽の奥が震えて中々音にならなかったが、文次郎は緩慢な動作で伊作の寝ている場所に身体を近づけた。
「学園の門の前でぶっ倒れてたのを、小松田さんが見つけたんだよ」
「そう、なんだ……」
 彼の手が伸び、額に触れる。温かい。途端、それまで抑えていたすべての感情が迸った。好き、好き、好き、文次郎、好きだ、好きだ、好きなんだ、好きだ、好きだ、愛してる、好き、愛してる。
 緩く微笑むと、文次郎は黙って口づけをくれた。乾燥した唇に、安堵する。嗚呼、わたしの知っている彼だ。彼は、いつまでもわたしの知っている彼なんだ。
「何処行ってた――なんて、聞きたくねえから、聞かねえぞ」
 文次郎は照れたように頭を掻いて、目を泳がせた。その仕草が相変わらず可愛くて、小さく笑うと額を軽く叩かれた。
「どのくらい、寝てた?」
「昨日の夕方からだから、丸一日か」
「ずっといたの? 此処に」
「……うるせえよ」
 そして再び額を叩いて、文次郎は明後日の方角を向いた。
「……ありがとう」
「うるせえ」
 嗚呼、ほんとうに、わたしはお前が好きだよ。無骨な優しさも、温かさも、潔さも、時々不安にさせる過ぎた真っすぐさも、好きなんだよ。いっそうないてしまいたい、でも、我慢する。泣くのは、もう少し後でいい。
「今までフケてた分、みっちり補習してやっからな」
 ぎゅう、と細めた瞳の中で、薄っすら朱に染まった頬が、緩やかな音を立ててほどけた。



花 彼 岸



[ 2010/04/15 ]