名前の知らない花が、伊作の体には彫られている。 それに気がついたのは初めて伊作の裸体を見た時で、白い肌に散らばる鮮やかな紅にしばらく見惚れてしまった。 下腹部から背面の骨盤にかけて、名も知らぬ花は伊作の体で“生きて”いた。 そこに指を滑らせると花の形を触覚できる。それはすなわち伊作自身の存在証明に等しいのだと、いつか文次郎は思った。 秋の風が髪の毛を攫った。 人気のない縁側に腰を落ち着かせ、安物の煙草を燻らせていると無性に胸が騒いだ。 持論に過ぎないが、生きるためには絶望が必要だと伊作はかなり本気で考えている。そんな事をいうと恋人は、「お前、馬鹿だな」と眉根に皺を寄せるのだけれど。 彼は、しばしば「馬鹿」という言葉を遣う。それは彼の癖のようなものだった。煙を吸うことにたいして、朝に起きられない事にたいして、夜にいつまでも起きている事にたいして、食事をきちんと摂らない事にたいして、手首に煙草を押しつける事にたいして。彼は伊作の、すれば死にたくなるが生きるためにしているすべての行為を、「馬鹿」の一言で片づけてしまう。伊作はそれが妙に愉快だった。愛されている、と思うと同時に、軽くていい、と、思う。たとえば下手に生きる事を強制されていたら、伊作は迷わず飛び降りていただろう。「生」という苦痛だけの空間から。 細く吐き出した煙は、緩やかな螺旋を描いて色を失った空へ。曇っているせいか、いつもより夜の闇が濃い気がする。 「伊作」 名前を呼ばれ、視線を動かすといつのまにかすぐ側に文次郎が立っていた。髪の毛は解かれていて、大きく肌蹴た胸板が薄明かりに見えた。風呂上がり。 「やあ」 伊作はにっこりと微笑んだ。 「早かったね、今日は」 「試験前だから当たり前だろう」 「そうかあ」 逢瀬を切り出したのは伊作からで、気が向いたらおいでよ、と、拒絶も容認するつもりで誘った。 「お前、実習抜けただろ」 「ん、」 文次郎は「馬鹿」と言った。 「朝は行ったよ」 でも、すぐに抜けた。 合同訓練で伊作の姿が見えなかったのはそのせいだったのだ。 「もっと真面目に生きろよ」 ちっとも説教臭くない声音で、そう言う。 「うーん」 伊作は、ふ、と、笑う。 そんな事を言うのならさっさと抱いてくれよ。思いのままに。お前の気の済むまで。 とはとても言えず、「行こうか」と立ち上がった。 もとより行く宛などなかったが、このまま学園の中にいるというのも興を削ぐ気がしたため(興だって? そんなもの、何処にある?)、適当に選んだ言葉が「行こうか」だった。文次郎は何も言わず伊作の隣について歩く。学園の庭、生徒や教師や事務員の死角になる場所から外へ、そして道なりに。 道すがら、とりとめのない会話をした。 口を開くのは主に伊作で、文次郎はもっぱら聞き役に回っている。 「昼間読んだ本がとても面白かった」 それは医学書のようなもので、人は何故絶望するのか、という大きな提示を投げかける壮大な記述だった。 「そうか」 「ねえ」 うん? と文次郎は顔を傾けて伊作を見る。 「茶屋にでも行きたい?」 抑揚のない声で呟いた。 「……別に、」 「別に」 小さく、反芻。 「どうでも」 文次郎は困ったように顔を顰めた。 「何処に行きたい?」 「何処でも、」 何処でも。心の中で、反芻。 それから、互いに黙った。何も言わず、足も止めて、風だけが囁く、ふたりしかいない冷たい冷たい世界の片隅で。 伊作の指が彼の手を滑り、握るように捉えた。自分よりずっと高いその温度に、泣きたくなった。温かさと、血液の流れを触覚する。ふ、と、目を閉じて、冷たい空気を肺に送り込む。喉の奥がじん、と、痛んだ。 自分の疵ばかりやけに目立つ。泣きたいのはきっと、そのせいだ。あらわになった疵口と擦りきれそうな心に煙を吹き掛けたい気持ちになる。あまりにも痛くて、もう、いい、と、心底思う。 頬に温かさを感じ目を開けると、文次郎の人差し指と中指が頬に触れていた。 「……なあに」 零れた声はしっとりと濡れる。 「冷たい、な」 「うん」 だから、どうしよう。どうしたい、どうしたらいい? 乱暴に唇を重ねて、舌を絡めた。文次郎の逞しい手が頭を掴み、何度も角度を変えられ、噛むような鋭い口づけだった。 「もん、じろう」 視線が交錯した一瞬、ふたりは側のくさむらに倒れこんだ。 何となくだが、人が人を故意に殺してしまう理由については、伊作は薄々気づいていた。ただ、見て見ない真似(フリ)をしていただけで、本当は、そんな事はわかっていたのだ。 文次郎に触れられた部分から熱が滲んで、小さく声が漏れた。彼は必ず、伊作の刺青に触れてから手を動かす。既に猛った男根からは先走りが滴り、文次郎はそれを指の平で絡め取って舐めた。あまりにもいやらしい動作だったため、伊作は思わず、「珍しい」と呟く。 「何が」 「……なんでもない」 そして笑う。文次郎自身を両手で握り、そ、と、口を近づける。唾液で濡らしていくと次第に質量を増すそれを完全に口の中に入れる事はできなかった。舌先で詰り、甘く噛む。 「伊作」 何。言葉にする前に顎を持ち上げられ、唇を奪われた。 湿った土の匂いが風に運ばれてくる。布越しに冷たさが伝わって、しかし、体の奥は痛いほど熱い。 何故こんな事になったのだろうと考えるも、舌を動かす事しかできないと知った瞬間に愚問だと切り捨てた。求めたい理屈なんて、自分達には要らない。 どうしようもなく、餓えている。全然、足りない。だから、潤おしてほしいだけだ。欲しいだけだ。絡め合いたいだけだ。互いの熱を。すべてを。 文次郎の体重によって倒された体が、折れた枝や落ち葉に触れてちくちくした。 鎖骨をぬめった舌が這う。徐々に荒くなる呼吸を抑える必要はなかった。月も星も今は雲の裏で夢飛行、暗く澱んだ黒だけがあたりを包み、しつこくしつこく肌に纏わりつく。 「……っふ、」 下腹に滑ったてのひらが素早く下半身に移動し、伊作を掴んで扱いた。 唇の隙間からは僅かな空気しか入らず、呼吸が苦しい。されど、抵抗するつもりは毛頭無かった。 滅茶苦茶にしてしまえ、と、心の中で願う。 ぶち壊してくれ。 このまま、お前になら殺されてもいい。 授業で与えられた忍務によって、人を殺す羽目になった時に伊作は特に何の感慨も持たなかった。 教師に呼び出され標的を告げられても、闇に体を任せていても、相手を刀でもって刺し貫いても、もう動かなくなった肉の塊を見下ろして、ただ、そうしていた。そうしていた。ただ、そうしていたのだった。 「ぁ、」 奥に文次郎の指が入ったのを触覚する。的確に伊作の快感のツボを探り当て、上下左右に動かした。彼の指は、節が太い不細工のくせに、とてもしなやかに動く。 「……いいか」 息を吐き出しながら紡がれた言葉は、甘くふくよかな響きを孕んでいた。 伊作は目を詰(きつ)く閉じて、頷いた。 腿が持ち上がり、そこに指の代わりの熱い塊が這入ってくる。内臓をすべて引きずり出されるような不思議な感覚、そして擦れるたびに走る痛み。 「ぁ、……っ」 勝手に腕が伸びて文次郎の頭を掻き抱く。縋れるものはそれしかなかった。文次郎は立ち膝をついて浮かせた腰を小刻みに揺らす。そのたびに伊作の中で激しい熱が飛散した。 「っ、……っ伊作、」 乱れた呼吸を整える事もなく、貪るように唇を食む。舌を差し出し、唾液を混ぜて絡めた。伊作の顎に銀色の糸が伝い、音もなく土に沁みこんでいく。 文次郎は少しずつ隙間ができる伊作と地面との間に腕を滑りこませ、体を強く抱いた。伊作を空虚に陥れる見えない穴を埋めるために、強く、きつく。 ひときわ激しい律動とともに、文次郎は精を吐き出した。水音、風が運ぶ精液の匂い。 果てても伊作の中に自身を入れたまま、じっと目を閉じる。 「もんじろう」 虫の鳴くような濡れた声で、伊作は愛しい男の名を呼んだ。もんじろう、と。 「壊れてしまいたい」 文次郎の胸が鈍く疼く。闇に慣れた目(もともと、夜目が利くのだ)に伊作の顔ははっきりと形をもって映った。 伊作は笑っていた。哀しいほどに綺麗な笑顔を作っていた。 「壊れてしまいたい」 体の下に敷いていた衣服は既に役目を果たしていない。乱れた末に枝に引っかかり、破れている。そして伊作の色素の淡い肌には、薄っすらと赤い筋が這っていた。 頬に作られた赤に指を滑らせて、「伊作」と、囁く。 「伊作」 「なあに」 それから、言葉は続かなかった。 伊作が気づいてしまったように、文次郎もまた、すべてを悟ったのだった。 俺にはこいつを殺す事ができる。 今まで生きてきたすべての意味が、皮肉にもその事実に繋がる。 「ごめん、な」 淡い囁きは夜に滲んだ。 所詮は、人間の行為のひとつは、点に過ぎないのかもしれない。それは、しかし、繋がれば線になる。 ならばその線は生きるそのものなのじゃないか、と、文次郎は伊作の頬を撫でながら思った。 「ごめんな」 伊作が今まで築いたすべての点を、名前も顔も知らない誰かが塗り潰そうとしている。絶望的に悲しくなって、文次郎はまた伊作に口づけた。 そして確信する。 俺にはこいつを殺す事ができない。 全身で伊作の柔らかさを感じる。てのひらから指先、内蔵まで、伊作で満たされていく。季節は秋に流れていこうとしているため、いつまでも夜風に晒しておくのは体に悪い。ふたりはそれを知っていた。ふたりは、しかし、互いに腕を絡ませてその場を動こうとはしなかった。 仰向けに寝転がり、空を見ていた。 雲が千切れて細い月が現れる。同時に光が肌を滑り文次郎は改めて、横抱きにしている伊作の裸体を見つめた。 薄い胸としなやかな腕、白い腹、そして下腹部から骨盤にかけて散らばる、鮮やかな花々。 美しい、と、思う。伊作は、とても美しい。 そ、と、指先で刺青を撫でてみる。そこには確かに花が彫られていて、存在を否定する事など到底敵わないとわかる。 言葉とは、なんて曖昧なものなのだろう、と、文次郎は考えた。 結局何も伝えられないし、たとえ伝わったとしても、咀嚼をするのは伊作自身の問題だ。 拒絶すれば昇華されないまま何処かに消えていく、それが言葉というものの、残酷な果敢なさ。 そしてきっと、それゆえに何よりも美しいと思えるのだろう。 「何を考えているの」 思考の途中に話しかけられ、文次郎は逡巡した。 それから、「何も」と言って、伊作を抱き寄せる。 汗はほとんど乾いていて、肌と肌の密着部分には僅かな熱が溜まるだけだった。 文次郎はもう月を見ていなかった。伊作の体も、その体に彫られている名も知らぬ花も。 伊作の鎖骨に顔を埋めて大きく呼吸をする。土と汗の間から、淡すぎる伊作の匂いがして、ごとり、と、胸が軋んだ。 [ 2009/09/29 ] |