ずっと死にたかったのに、いつの間にか、死にたくないなんて、まるで柄にもない、そんな贅沢な事を考えるようになっていた。彼の胸に抱かれ微睡む夜明け前、彼とともに迎える朝の光。やわらかく、温かく、そしてとても優しい。こんなに優しい世界を彼は私に見せてくれた。惜しみなく狂おしくひたすらに優しい世界を愛した。そして私もまた彼の愛した世界を愛した。純粋さが過ぎるその青さでもって彼を、彼と私とを繋ぎとめてくれるこの優しい世界を私という小さく醜い生き物を。彼は途方もなく優しくて、その温かさに触れるたびに私はどうにかなってしまいそうだった。狂って狂って狂って狂った果てに、彼、に、つまり文次郎に、彼のてのひらでもって自分の首を絞めさせる。鶏を屠殺するごとく、そのしなやかに動く節ばった指にうんと力を込めさせて、されどいくら力を入れようとしても文次郎が私を殺す事は終に無かった。君が私を殺さない理由なんて何処にあるのと訊くと彼は苦笑してただ頬を緩め、また私を抱き寄せるのだ。


 文句を言っている間にたちまち終わってしまった果敢ない夏を思い返し、文次郎の背中に額を押し付けると汗と一緒に淡い花の匂いがした。
「何の匂い?」
 文次郎はせっせと動かしていた指を止め、菊だろ、と言った。
「そうかあ」
 本当は、そんな事は、疾うにわかっていた。道端に咲いた鮮やかな菊をひとつひとつ手折り、学園に帰る道でずっと抱えていたのは私だった。そして私のすぐ側には文次郎がいた。
 学園の門が近づいたところで、私は菊の花をすべて棄てた。ばらっと勢いよく地面に散らばった菊の、赤、黄色、白がとても美しかった。それから私は私の挙動を眺めていた文次郎に抱きつき、唇を吸った。彼は何も言わなかったし、抵抗もしなかった。
 ほのかに漂う香りが自分の移り香である事にいささかの興奮を憶える。指を文次郎の首筋に這わせると、彼は作業を再開した手を再び止め、「おい」と言う。
「んー、」
「何だよ」
「……何、が?」
 私は、ずるい。狡猾である。彼の困った顔を拝みたいがために、こんな事をしている。もう体の奥がじっとりと熱い。まったく、実に都合のいい身体である。
「課題が終わらない」
「いいじゃないそんなん終わらなくて、」
「よくない」
「ねえ」
 ゆるゆると流れる空気で部屋が満ちる。酔ってしまいそうなほど濃密なそれに頭の中が融ける。視線を文次郎の手元に落とすと、報告書をまとめる彼の指が蚯蚓のような文字を作っていた。
「お前、課題はどうした」
 雰囲気をぶち壊す言葉を平気で放たれ、私はとても残酷な気持ちになる。
「やってない」
「やれよ」
「いやだ」
「やれ」
「……や、だ」
 首筋を舐めあげ噛みつく。文次郎は声も息も漏らさない。その様子に、無性に腹が立った。
 するっと文次郎の体を解放し、そのまま倒れるように床に寝転がる。文次郎はこちらを見もしない。胸に満ちた不幸な気持ちで私は発狂しそうだった。
 こっちをみろよ、と口を動かす。こっちをみろばかやろうはやくこっちをこっちをみろこっちをだってなんでだってだって課題なんてなにそれそんなんどうでもいいじゃん何なんだよお前ははやくこっちをみろはやくしないと狂い死にしそうだ!
「ばかやろう」
 私の無遠慮なその言葉にとうとうため息をついて、文次郎は立ちあがる。そして子供のように拗ねている私の側に座り、そうっと髪の毛を梳く。ああ、本当に馬鹿だな君は。そう、心の中ではいくらでも罵れる。しかし、実際言葉にできる想いというのは限られていて、その限られた言葉しか私は君には伝えられない。それが、時にとてもとてももどかしい。
「いつまでも拗ねてんな、馬鹿」
「……馬鹿じゃない」
 顔を背けてもそれを追いかける文次郎の指から逃げられない。いきなり近づいた彼の顔に見惚れている間に唇を吸われて、深く口づけられる。あまりにも優しい接吻だったため、私に抵抗などできるわけがなかった。私が拒絶する理由なんて何処にもない。そう感じたゆえに私は彼の熱い舌を受け入れたのだった。
「もんじろ、」
 生理的な涙で瞳が濡れる。青暗くなった部屋に浮かぶ文次郎の輪郭が、ふにゃふにゃとぶれてしまう。
 次第に重さを増してくる胸板に指を滑らせた。鎖骨をなぞり、気が済むまで肌を撫でる。何度も、何度も、何度も。
 肌を寄せ合い熱を求め、絡み合うたびに胸の奥が鈍い音を立てて疼く。それは不思議な感覚で、一種の恍惚すら感じさせるものであった。
 床が二人分の重さで軋み、戸から漏れた淡い月光は肌を優しく滑る。
「もんじろう、」
 やがて薄闇に浮き上がる私の肌は、文次郎の舌を受けとめてちりちりと燻り始める。血液より濃い、鮮やかな紅が闇に舞う。新緑より深い緑、深海を思わせる暗い青。色は私の下腹から背面の骨盤にかけて散らばっている。そこを指先でなぞりながら、文次郎は徐々に腿まで熱を這わせる。
「……綺麗だな」
 目を閉じた瞬間、そんな言葉を投げられて、私はまた暗闇に目を凝らす。彼は月の光を顔に受けて、ぼんやりと私を見つめていた。私、と、私の体に散らばる、色、を。
「綺麗だな、これ」
 文次郎の声は低く甘く、深く私の胸を抉る。切なくて居た堪れなくて、瞬きをすると光の粒がたちまち弾けた。
 頬を伝うそれを指の平で掬い、涙の痕に唇を押し付ける。
「……そんなに、」
 髪の毛を梳いてくれる大きな手がとても好きだと思う。
「そんなに、優しくしてくれなくて、いい、のに」
 文次郎は何も言わなかった。湿った瞳でもって慈しむように私の肌を撫でるだけで、その切実さに涙が止まらなくなった。
 私もそうであるように、彼もまた必死なのであった。私は、それにようやっと気がついた。
 過ぎた切実さと幼さと純粋が愛おしい。どうしようもなく、私は彼に溺れている。
 薄く開いた戸から、微かな秋の気配と月光がにじり寄っていた。





花 葬 送




[ 2009/09/23 ]