もう何も望んでいないことに気がついた瞬間に、自分がほろほろと崩壊していく奇妙な感覚に陥り、そして、いつもよりずっと深く息をすることが叶った。 ひゅうひゅう、と頼りない呼吸を繰り返す己の生。文次郎の肩に爪を立てる。血が滲む。たいして伸びていない爪の間に彼の肉片が這入りこむ。誰もそんなこと望んじゃいないのに、何のためでもなく彼等は求めて求めて、側にいることを選んだ。ただそれだけのこと。 雨が降っていた。秋雨はもう冷たく、伊作は体がどんどん、冷えていくのを感じた。 指先を、そっ、と、擦り合わせる。 「ほせぇ、指」 文次郎が頭を掻きながら近寄ってくる。ぎし、と床板が軋み、これ以上少しでも力を加えれば、きっともうこの床は、落ちてしまうだろう。 伊作は笑った。 「私は、忍びでないもの」 「ふぅん……」 彼は伊作の隣に腰を下ろした。着流しの裾が捲れて、文次郎の逞しい足が見える。それに、見蕩れる。 「ねえ、文次郎、」 「うん?」 伊作は彼の足から目を離さない。雨の音。長屋の一室に響く微かな、伊作の声。 「私は、お前と違うもの」 だって指はこんなに細くて白い。だって身体はこんなにも薄い。学生時代についた筋肉はほとんどが落ちて、体重はきっと、以前の何分の一かだ。 枯れていくような、目の前の美しい男を文次郎は見つめて、は、と、息を吐き出す。 「私は、医者だもの」 指は、メスを持つため。患者の繊細な身体を的確に探るため。手のひらは、患者の心臓の音を聞くため。瞳は、患者に不安を与えないため。 祈りを捧げる形で合わせていた指先を、文次郎の両手が包む。 伊作は、知っていた。彼がほんとうは、忍びなどに向いていないことを。だって、手のひらはこんなにも温かく、黒い瞳はたやすく私の心を開かせる。ほんとうは、君が何も望んでいないことを、わたしは知っているんだ。どんだけ一緒にいると思っているんだ。ばかにするな、ばか野郎。 「私は、医者だもの。細いよ、そりゃあ」 だって私は、誰かを殺したくなんかないんだ。 仕事を理由にでも誰かを殺したくないんだ。 ほんの数日でも、ほんの数秒でも、生かしてやりたいと考えるのは、生きている者だけが考える傲慢だろうか。 それは残酷な願いだろうか。 「あのひと、最期まで家族に会えなかったんだ」 今朝、ずいぶんと長い間病に苦しんでいた男が、死んだ。 「いくさで恋人を殺されて、家族も殺されて、家も村も焼かれてさ。自分も病気になって、死を待つだけの体になって、それでも、恋人をね、殺された恋人の名前をね、呼びながら死んだ」 鼻先を掠めたのは消毒液の匂いだった。雨が地面に染みこむように、伊作の身体に滲みこんで消えない匂いだ。 「生かしてやりたいと思うのは、いけないことかい?」 こちらを向いた伊作は、何かが溢れるのを堪えているようだった。 仕事から帰ってきた文次郎がみつけたのは、縁側に座る伊作の薄い背中だった。 死んだ男は名前も判然としないまま、寺で火葬されることになったという。そんなことは、もう、この町では、ごく日常のことになっていた。 太陽が隠れているためか、いつもより時間の流れが遅い気がする。 伊作、と名前を呼んで、唇を重ねた。 冷たくて薄い唇だった。 伊作の目に涙が滲んで、溢れる。血だってそうだ、流れるものは溢れる。留まることはできない。流れて、巡って、何処かで出さなければ、生を全うできない。 唇に歯を立てると、小さな呻き声といっしょに伊作はほろほろ泣いた。 まるで無力だ、無意味だ、そう言って泣いた。 「俺だって同じだ」 そう、きっと今に、意味なんてない。 「でも、お前が側にいる」 伊作の細い髪の毛を掬って、頬を手のひらで包む。小さな顔を歪めて泣く伊作は、どうしようもないくらい頼りなかった。 「お前が側にいるから。意味も理屈もわかんねえよ、俺だって」 でもお前が側にいる。お前の隣に俺はいる。 「なあ、結局生かすも殺すも同じなんだろ。意味なんてねえよ。ひとは、いるかいないかしかないんだ。だから、」 もう何も望まなくていい、と、文次郎は笑った。 「そいつは幸せだったよ、お前に看取られて、全然、知らねえ医者だけど、お前に優しくされて、最期まで幸せだったろ」 この町はもうおしまいなのだと、文次郎がいつか言ったのを、伊作は思い出していた。 感染病が蔓延し、此処を治めている城の主も、それに雇われているしのびも、この町を見限ろうとしている。 口下手で不器用な男が、必死で慰めの言葉を探している。なんだか可愛いなあ、と他人ごとみたいに思えたら、笑えてきた。 「……なんだよ、」 くす、と笑う伊作を、彼は恥ずかしそうに見た。 「なんでも、ない。」 啄ばむように文次郎の唇に口づけた。熱い息が零れて、溢れた涙を乾かした。 雨は降りつづく。 [ 2009/11/11 ] |