何かが終わってまた何かが始まるという輪廻を再生とよぶのなら、私の心は緩やかな再生の輪廻の中にいたのだろう。
 まだ冷たい床を踏み、私が部屋に入ってきた事に気づいているはずなのに文机に向かったままの文次郎に近づくと、彼はツと書物を捲る指の動きを止める。そして、何も言わずに自分の背中に立った私を抱き寄せる。
「伊作」
 彼が耳元で囁くこの優しい声がたまらなく好きだった。
 低く、深く、甘く、響く。
 私はくす、と笑い、そして、「文次郎」と言う。
 頬にてのひらを添えて見つめ合えば、どちらからという事も無く唇を求め合う。
 文次郎の熱を帯びた厚い指の平が胸を愛撫し始めて、私は笑みを濃くする。
 やがて冷たい床に押し倒され、私は彼に体を開くのだった。



* * *




「…うっ…、あっ、あ…っ」
 暗闇に響く淫靡な喘ぎ声が鼓膜を刺激する。文次郎は引き結んでいた唇から快感の息が漏れるのを止められなかった。
 文次郎のものを秘部に挿入されて大きく足を開いている伊作は、背筋を這いあがってくる快楽の波に全身を震わせて共鳴する。
「ひあ…っ、も、じろ…っ!」
 荒い呼吸を繰り返す文次郎の首に、伊作の腕が絡まる。引き寄せられるままに文次郎は伊作の薄い唇を食んだ。
 ちゅく、ちゅく、と唾液が混ざりどちらのものともわからない糸が互いの顎を伝う。
 求めるままに、ただ貪欲に、互いの体を貪る。
 誘うのは大抵伊作のほうからだった。
 文次郎を欲しがるのも伊作からで、体を繋げるというすべての行為によって彼は自身に欠落した何かを必死で埋めようとしているように、文次郎には思えた。
 だからこそ文次郎はより深く、強く伊作の体に己の熱の棒を貫くのである。
 伊作の存在を証明してやりたい、ただそれだけの想いが彼を突き動かしていた。
 文次郎、と喘ぐ濡れた伊作の声が鼓膜に触れるたびに、文次郎は欲情と快感への渇望が沸き上がるのを自覚していた。
 もっと貫けば、もっと抱きしめ合えば、もうふたりは離れる事が不可能になるくらいひとつになれるのではないかと思っていた。
 彼等はそれほどまでに若く、そして深く愛し合っていた。
「あ、ああっ、もんじィ…っ!」
「…く……、っ!い、さく…っ!」
 文次郎は伊作の中に勢いよく射精し、果てた。
 伊作の上に覆い被さるように倒れ、荒い呼吸を整えようと肩を大きく上下させる。伊作もまた、同じだった。
「……大丈夫、か…?」
 文次郎が耳元で問うと、伊作は両腕を文次郎の首に巻き付けたまま、さらに強く彼の頭を抱いた。
「…伊作…?」
「……。」
 伊作は何も言わず、ただ呼吸をしていた。
 呼吸音が耳に流れ込むと同時に、下にしている伊作の胸が動く。
 呼吸、心音。秘部から洩れた精液と、汗。
 文次郎は自身を引き抜こうとしたが、伊作に固く抱かれているために動けない。
 仕方が無いのでそのまま余韻を味わっていると、伊作は、「文次、」と小さく呟いた。
「うん?」
「ずっと、このままでいたい」
「……。」
「このまま文次郎と一緒になって、ぐちゃぐちゃになって、どっちがどっちだかわからないくらい、めちゃくちゃになって、溶けて、それで、そうしたら、文次郎とずっと一緒にいられるよね…?」
「伊作、」
「思い出したんだ、いろんな事。」
 伊作はようやく腕を解き、文次郎の瞳を見つめた。
「昔の事。ずっと小さい頃…」
 伊作の大きな瞳がゆらゆらと波打つ様を見ていた文次郎は、自身を引き抜いて、そっと伊作の髪の毛に触れた。
「何でだろ?文次郎が私の中にいると、いつも何だか非道く懐かしくなって、胸が苦しくなって、いろんな事、思い出しちゃうんだ…」
 闇に光るものが沸き上がり、伊作の瞼を縁取った。それはすぐに溢れ出て、つつ、と伊作の頬を濡らし、床を濡らした。
「忘れたいよ、忘れてしまいたいよ、何もかも、」
 伊作の過去について、彼から話して聞かされた以外の事は何も知らない。
 戦で家と家族を失い、寺で育てられたと。
 そこに愛した男がひとりいたのだと。
 伊作は両てのひらで目を覆った。それでも、隙間から涙は零れ落ちてくる。
 その様子は、非道く痛々しく、文次郎の胸を激しく打った。
「もういい、もう、いい」
 伊作、と文次郎は心の中で呟いた。
 お前を苦しめているものは、何なんだ。
 お前の中の“穴”を、俺はどれくらい埋めてやれた?
「伊作、」
「…ごめんね、文次郎」
 こんな恋人で、本当にごめん。
 ごめん。ごめん。ごめんなさい。
「謝んな、馬鹿」
「…ごめん…」
 片方の手で伊作の手首を掴み、涙で濡れた瞳を見つめる。
 伊作が何に対して謝っているのか、文次郎には理解ができなかった。
 謝る必要なんて、皆無だ。
 むしろ謝らなければならないのは自分だ、と文次郎は思った。
 こんなに側にいるのに、誰よりも側にいるのに、何もしてやれない。
 きつく抱きしめ合っても、どれほど伊作の中に己を埋めても、決して埋まってはくれない溝を感じていた。
 それはどうしようもないものだった。いっそうひとつの人間になれたらどんなによいか、と何度も思った。何もできない無力さに、少しだけ涙を落とした。
「文次郎、」
「うん」
「私が、小さい頃好きだった子がさあ」
「…ああ」
 その話はもう随分と聞かされていた。
 同じ寺で一緒に生活していた男に恋をした、という話だ。
 その男はやがて消えてしまって、その後の消息は掴めていないと言っていた。
「死んだんだって。」
「…えっ」
 伊作があまりにも淡泊な口調で話すので、一瞬聞き間違いかと思った。しかし伊作はもう一度、「死んだんだって」と言った。
「和尚から文が着てね。それで知った」
「…そうか」
 伊作を育てた寺の主は、風の噂で伊作が忍術学園に入学した事を知り、文を書いたのだという。
 文には、伊作がかつて愛した男が死んだという事が淡々と綴られていた。
 その男は10歳の時に里子に出された。最初の数年はそれなりに暮らしていたらしいが、やがて里親が職を失った。男は働きに出るようになった。しかし生活はいつまで経っても安定しなかった。里親は老い病に伏せ、17歳になった男だけの稼ぎで一家が暮らしていくのはかなり苦しかった。苦しんだ末、一家は心中した。
「…そうか」
 事の顛末を聞いて、文次郎が言えたのはその一言だった。
 その一言さえも、発する時喉が震えた。
「ごめん、こんな事言って」
「…忘れたいのか」
 文次郎は、そう言った。
 「そいつの事を、全部」と。
「どうかなあ」
 伊作はふ、と笑って、涙を拭った。
 そして、よくわからないと首を振る。
 文次郎の唇を指でなぞって、口づけた。
 涙の味がした。



* * *




 梅の香りが鼻孔を掠めて、ああ、春がくるんだな、とぼんやり思う。
 最近はめっきり風も暖かくなった。太陽は眩しく地面を照らし、いたるところで蕾が目立つようになった。
 卒業試験を終えてしまった私達に与えられた僅かな休暇を、こんな事で潰すのはまったくくだらない、とひとりで笑う。
 文次郎に見つからないようにと注意して学園を出てきたが、彼はどうやら学園長に捕まっておつかいをことづけられてしまったらしい(同室の仙蔵が言っていた)。
 正午を少し過ぎていた。
 この学園にいられるのも、あともう少しだけなのかと思うと感傷で胸がいっぱいになる。
 道を歩きながら、今までの事を思った。
 文次郎と出会ってからは、何もかもが本当に早かった気がする。
 何度彼と肌を重ねただろう。
 暴力的に、しかし常に思いやりを感じさせる優しさでもって、彼は私を抱いた。
 文次郎の熱が好きだった。
 文次郎が、好きだった。
 これから向かう場所の存在を知ったら、彼は、どんな顔をするだろう。
 もう顔も名前も憶えていないあの男に会いにいく。
 もちろん既に埋葬されて、跡形もないだろうけれど、私はこれから、彼に会いにいく。
 それを知ったら彼は、文次郎は、何と言うだろう。
 途中で川の近くで開かれていた市に寄って、花を買った。
 赤く、小さな花だ。
 携えると、甘い香りが鼻先をくすぐった。
 市をあとにし、再び歩を進める。
 真正面にある檸檬色をした太陽の光に目を細める。ゆるゆると流れていく空気の暖かさに、不意に涙腺が緩んだ気がした。
 最近は、涙がよく出る。
 花粉症のようなものでは無く、胸が痛いほど締め付けられた末に、悲しくも無いのに涙が溢れる。
 それを文次郎に見られた当初、彼は戸惑って困惑していた。
 自分が何かしてしまったと思ったのだろう、しきりに頭を撫で、抱きしめてくれていた。
 とても優しいひと、だから。
 私は泣きながら笑って、何でも無いよ、を繰り返していた。
 何でも無いけれど、非道く世界が綺麗に見えた。
 今まで歪んで、それが現実だと認識していた世界が、不意に鮮やかな色を帯び、眩しく私の瞳に映りだしたのだった。
 私の心は、確実に再生の輪廻の中にいる。
 私は、そう思った。
 そして、その原因が文次郎にある事も、わかっていた。
 私はしかし文次郎に何も言わなかった。
 本当は、ありがとう、と言うべきなのだろう。
 それでも私は、何でも無いよ、を唇に乗せ続けた。
 人通りの少ない道を逸れ、けもの道に入ろうとした私は、ハッとして立ち止まった。
「文次郎…?」
 私の数歩先に、私服姿の文次郎が立っていた。
 彼も私に気づいたのか、右手を挙げて立ち止まっている私に近寄ってきた。
「伊作、何してんだ、こんなところで」
「それはこっちの科白だよ。…何してるの?」
 私は若干困惑して、言葉を紡ぐ。
「俺は学園長に言われてこの先にある屋敷に手紙を届けてきたところだ。お前は?」
「…私は、」
 開きかけた口を、再び閉じる。文次郎は訝しそうな顔を作る。
 その視線は、胸に抱えている花に向けられていた。
「…墓参り」
 ぼそっと、正直に告白した。
「墓参り?」
「うん」
 私は頷いて、「この前話した、男の」と言った。
「この先の共同墓地に埋葬されたんだって。文に書いてあった」
「…そうか」
「一緒に来る?」
 気がつけばそう声をかけていた。
 文次郎は逡巡の素振りを見せたが、やがて「ああ」と小さく頷いた。



 墓地は山の入口近くにあり、非道く小さく、廃れていた。
 雑草を踏み分けて入っていくと、一番端にちんまりとした石が立っている。
「和尚が、埋葬してあげたんだって」
 花を供え、その場に座り込んで、私は言った。
 文次郎は横に立って、小さく「そうか」と言う。
 しばらくふたりで石を見つめていた。
 長方形をしているが、表面には何も書かれていなかった。
 墓石、というにはあまりにもくたびれたものだった。
「此処に埋まってるんだね、家族と一緒に」
「そうだな」
「何か、凄く寂しいね」
「…そう、だな」
 ああ、また、だ。
 胸が痛い。音を立てて、激しく軋む。
 気がついたら私は、声もあげずに涙を流していた。
 ぽろぽろと零れ落ちるそれを拭う事無く、ただ流れるままに任せた。
「伊作」
「…何?」
 答えると、文次郎の大きなてのひらが頭の上に乗った。
 心地よい重みが嬉しかった。
 私は嗚咽を漏らして泣いた。
 自分の腕で体を抱くようにして、泣いた。
「…っ忘れているのに…っ」
 嗚咽の隙間から、何とか声を出した。
「もう、忘れちゃった…っ」
 文次郎は黙って頭を撫で続けてくれていた。
「名前も顔も…何も憶えてない…っ …それなのに、何でだろうね…っ、こんなに、悲しいのは…」
「それは、」
 文次郎の声が、心のいちばん深いところにある、湖のような場所に落ちてくる。
 その言葉は、ぽちゃん、と音を立てて、沈んでゆく。
「お前が、優しいからだろ」
「……っ」
 そんな事、と口を開きかけて、やめた。ふり仰いだ文次郎の顔が、あまりにも真っ直ぐにこちらを射抜いていたから。
 私はぼろぼろ泣いて、気がついたら、文次郎の腕の中にいた。
「卒業したら、一緒に暮らそう」
 文次郎が耳元で囁く。私の大好きな声。大好きな体温。
「ふたりで、暮らそう」
「…どうして?」
 そこで私の放った一言は、彼を吹き出させるのに至った。
「俺がお前と一緒にいたいから」
 文次郎はくっくっと笑って、私を抱く力を少し緩めた。
 涙でぐちゃぐちゃになった私の顔を両手で挟んで、「お前はどうだ?」と言う。
「…私も、文次郎と一緒にいたい。ずっと、一緒に」
 一緒に生きていきたい。
「もう過去に捕らわれるな。これからを真っ直ぐに見据えて生きろ」
「…うん」
「“穴”は、俺がちゃんと塞いでいてやるから」
「うん」
 鼻を啜り、破顔する。
 挟まれている頬が熱い。きっと、顔は真っ赤になっている。
 文次郎は顔を近づけて、唇を塞いだ。
 かさついた文次郎の唇に、自分のそれが重なる。
 足元で供えた赤い花が、柔らかい風にゆらゆらと揺れていた。










遠ざかる その背中 淋しさに負けそうでも
また会えると そう信じてくれている 貴方を守りたい
守りたいから




風立ちぬ






風立ちぬ / 中村中
[ 2009/03/16 ]