つねに真っすぐに真摯であれ、と君は言った。
 純粋すぎて、笑ってしまった。




 初秋の風が光を落とした部屋にまで侵入してくる。その匂いはすっかり秋のもので、伊作はひとり、すん、と鼻を鳴らした。
 もう夏は終わったのだ。
 あれほど心待ちにしていた秋がやってくるというのに、その事実を受け入れようとすると心の何処かがちくりと痛む。季節の変わり目はいつもこうだった。昔から――幼い頃から、春の始まりや夏の終わりは胸がぎゅっと掴まれたように痛くなる。そんな時はひたすら布団に潜り込み、身を丸めて何とかやり過ごした。
 この夏も、伊作は学園に残った。
 もとより帰る場所などないと、学園に入学した当初から思っていたため、これまでの5年間はずっと、夏期休暇は学園で過ごした。そして今年も、同級生達が実家に帰れると浮足立っている中、ひとり教室の隅で本を読んでいた。夏がきらいな理由のひとつは、意識はしていなかったが、おそらくその事も関係しているのだろう。
 一月以上もの休みの間、伊作はほとんど本を読んで過ごした。毎日のように図書室に行っては、気になった書物を片っ端から読んでいった。そうしているうちに1日が終わり、気がつけば季節すら変わろうとしていた。
 部屋は青暗く、湿った空気で満ちていた。部屋の片隅に膝を抱えて座り、暗くなっていく部屋をぼんやりと眺める。同室の留三郎は実家に帰った。仙蔵も、小平太も帰った。夏期休暇を学園で過ごしたのは、伊作のほかに、図書の整理をしたいからという長次と、実家から「勉学に励め」と文が届いた文次郎だった。
 「文次郎」。伊作は小さく呟いてみる。
 夏期休暇に入った初日、暑さに汗を流しながら体を交え、その後も何度か逢瀬を重ねた。日中の伊作は夏の暑さに負けて寝込んでいるのがほとんどなので、大概は覚醒した夜に、夜這いのような形で文次郎の部屋に行く。無言で唇を食むと文次郎は伊作の首を掴んで、抱き寄せてくる。互いの寝巻きを剥がしながら、噴き出る汗も乱れる息も構わず、ただひたすらに求めあった。事が終ったあと、何故自分はこんな事をしているのか不思議に思ったが、そんな事どうでも良かった。隣で眠る文次郎の横顔の線を指でなぞり、汗を舐めると、理由など必要ないと思えてくるのである。
 「文次郎」。決して広くない部屋に伊作の声だけがぽつり、と残る。
 孤独に蝕まれて、死にそうだった。だのに、体が動かない。顔を膝の間に埋め、「文次郎、文次郎」と名前を呼び続ける。愛しい、彼の名を。
「何だよ」
 突然頭上に声が落ちてきて、驚いた。
 はっとして顔をあげると、文次郎が呆れた顔でこちらを見下ろしていた。
「文次郎…」
 安堵のため息と同時に、会いたかった、会いたかった、と言葉が洩れる。
「毎晩会ってるじゃねえか」
 違う、と伊作は言う。
 首を振って否定を必死で表現する。そうじゃない、違う、全然違う、と。
「なんて顔してやがる」
 ふっと息を零して、文次郎は破顔した。薄明かりにその笑顔が寂しく映った。
 右手が伸びて伊作の頬を撫でる。伊作はその手に縋りつくと、文次郎の顔を抱き寄せて、唇を食んだ。
 無抵抗なのを良い事に、文次郎の口内を貪る。
 歯列を舐め、熱い舌と舌を絡めた。
 はーっと大きく息を吐き出して、口を離すと、文次郎を掻き抱いた。背中に廻したてのひらに彼の汗を感じた。今まで鍛錬をしていたのは知っていた。この休みの間、1日も欠かす事無く文次郎は鍛錬と勉学に励んだ。卒業を意識しているのだろうという事は、さしもの伊作にも予想はできた。卒業するには、卒業試験に通らなければならない。
「…伊作」
「……」
 無言の伊作の頭を、静かに撫でて文次郎は、「今日で終わりだな」と言った。
「何が?」
「休み」
「ああ…」
 そこでようやっと文次郎を抱く手の力を緩めた。体が自由になった文次郎は伊作の隣に腰を落として、髪の毛を掻き揚げた。
「少しは勉強したか」
「全然」
 ははっと笑う伊作に、笑ってる場合じゃねえだろ、と文次郎は厳しい口調で言った。
「だって、毎晩君を夜這うから」
「…あのなあ」
 伊作は本ばかり読んで宿題すらまともに終わらせていない。
「言っとくが、手伝わねえからな」
「うん、良いよ」
 諦めのような、卑屈さでいっぱいの言葉をさらりと吐く。その潔さを勉学に向ければ良いものを、といつも思うのだが、文次郎は何も言わない。
「それに、もう間に合わないし」
 6年生の宿題となると、実習さながらのものも当たり前のように出される。文次郎もつい先日、最後の宿題を終わらせたばかりだ。実際の戦に出向き、味方とする軍の援助をする、というものだった。結果如何によって、味方の大将から判断が下される。つまり、優か良か可か不可か、である。
「疵は痛む?」
 伊作は文次郎の顔を覗き込んだ。
「いや」
「そう」
 文次郎はその実習によって背中に毒矢を受けた。報告を終えるまで我慢していたのだが、数日後学園に戻ってきてから倒れた。過度の疲労と毒矢による疵が原因だった。伊作は真青になって文次郎を医務室に運び、手当をした。さいわい大事には至らなかったものの、あの時の事を思い出すと伊作は今でも肝が冷える。
「…良かったよ、君が死ななくて」
 忍者らしからぬ言葉は、文次郎のきらいとするものだったが、構わずに口にした。文次郎も真意を知っているのか、「そうだな」とだけ言った。
「文次郎が死んだら、どうしようかな」
「……」
 顔をあげて、少し微笑みすら浮かべているが、その言葉は重く文次郎に圧し掛かった。
「…一緒に死のうか」
「やめとけよ」
「あははっ」
 冗談のようで冗談ではない。伊作はそういう男なのだ。
 今の精神状態で、文次郎が消えたら、伊作はきっと何も考えずに死を選ぶだろう。それが最大で最善の答えであるとでもいうように。そしてその衝動は、おそらく誰にも止められない。
 文次郎は伊作の肩を抱き寄せ、髪に口づけた。
「――死なねえから」
 伊作は膝を抱きかかえ、文次郎の胸に頬を寄せた。
 震えている。
「死なねえから」
 伊作の頬に涙が伝った。やがて嗚咽が漏れ、涙が寝巻きに沁みて文次郎の肌を濡らした。
「泣くな」
 流れる涙を親指で掬う。それでも泣きやまない伊作を、強い力で抱きしめた。
「泣くな、伊作」
「違う、違うよ、文次郎」
 首を振り、鼻を啜って、伊作は言った。
「悲しいんじゃない、悲しいんじゃないよ」
 すっかり暗くなってしまった部屋では、伊作の顔を見る事は叶わない。しかし、声から、微笑が湛えられている事はわかった。
「悲しくなんかないんだ――」
 ただね、と伊作は言う。
「文次郎が、やさしいからさ」
「……」
 しばらく伊作の嗚咽だけが聞こえる。文次郎は何も言えなかった。
 伊作の髪の毛は伸び放題で、今日も昼間から眠っていたのだろう、あちらこちらに乱れていた。
「伊作」
 落ち着いた頃、ようやく文次郎は口を開いた。
「今度、町にでも行くか」
 髪の毛を切ってもらい、散策をして、1日中一緒にいようと思った。
 伊作のうしろに横たわる甘美な死の誘惑を打ち消せる自信はないが、少なくとも、一緒にいてやる事くらいはできる。
 伊作は顔をあげ、文次郎を見ると、涙に濡れた顔を綻ばせて、嬉しそうに頷いた。
「お団子…」
「奢ってやる」







きっと僕にも魔法はかかる





[ 2008/09/01 ]