幼い頃は、将来自分が何になるかなんて、考えた事もなかった。
 1日1日を乗り越える事で精いっぱいで、朝目が覚めると神様から与えられた今日という1日をどうやってさばくか、そればかりを考えていた。
 今日が終わったらまた明日、同じようにしてじっと時間が過ぎるのを待てば良い。
 それができない子供達は、寺から出ていくしかないのだ。そして行く末は、死。
 寺で暮らしていた頃、同じ戦孤児の男の子がいた。私は彼に恋をしていた。恋、という言葉が適当かどうかはわからない。しかし、今思えばあれは恋以外の何物でもなく、私は彼を深く深く愛していた。
 彼は戦孤児で私よりひとつかふたつ年上だった。いつも寺の蔵書を読んでいて、群れるという事を嫌っているようだった。私は、そんな彼が好きだった。周りの子供達は常に群れて、あぶれちゃいけないといった空気を纏っていたからかもしれない。私も群れる事は大きらいだったし、彼の存在感の無さに同族意識をもっていた。
 彼の傍に寄りたいと何度も思ったが、結局それは叶わなかった。彼が放っている力が、私に一定距離以上を近づけさせなかった。
 初めて彼を見た時も、彼は蔵書から目をあげず、部屋の隅で丸くなっていた。
 ある日、彼は突然姿を消した。
 和尚に訊いても何も教えてくれなかった。それならそれで、良いと思った。幼い私は、諦める事の意味を疾うに知っていたし、諦める事が何よりの救いだと思っていたのだ。
 思い出しちゃいけない。懐かしがってはいけない。そう自分に言い聞かせた。
 彼と過ごしたのはほんの数日だけであった。彼が消えても、私の生活が変わる事はまったくなかった。それくらい、彼は私に何の影響も与えなかったし、そして静かに存在を記憶の底に埋没させてしまったのである。






 銀色の糸が落ちて雑草を濡らしていた。
 昼下がり、穏やかな時間。
 文次郎が縁側に腰をおろして、書物を読んでいるのが見えたが、私は何故か廊下の先で立ち往生をしていた。いつもならすぐに駆け寄って、その首にしがみついたりするものなのに、自分は何を戸惑っているのだろうと思った。朝目が覚めた時に、幼い頃の彼を思い出したからだろうか。息をするのが苦しかった。何故だろう。
 彼と文次郎はまったくと言って良いほど似ていない。顔の形や性格なんてもう忘れてしまったが、何となく、文次郎と彼の持っている雰囲気はまったく異質な感じがしたのだ。彼の事は学園に入ってからすっかり忘れていたし、名前も、思い出せない。いや、名前すら教えてもらっていなかったかもしれない。
 は組の長屋に行くには、この廊下を通らなければならない。私は仕方なく、足音を忍ばせて歩いた。文次郎の気配が、においが、近づく。ギシ、と古い床板が軋む。
 文次郎の背中を通り過ぎた時、私ははっとして足を止めた。
「…何だよ」
 文次郎はこちらを振り返りもせずに口を開く。先刻から私の気配を感じていたのだろう、いったい何なんだよお前は、という非難の声だ。当然だ。理由もわからず廊下の先で立ち往生して、忍者に相応しくない歩き方で歩いてくる恋人がいたら、誰だってそういう反応はする。
 私は困ってしまい、半笑いの表情で、
「…何だろうね」
 と言った。
「……」
 文次郎が小さくため息をついた。
 私も、わからない。ただ、文次郎の無言の背中を見下ろして、ああ、広い背中だなあと漠然と思った。
 良く鍛えられた筋肉、肩幅はがっしりとしていて逞しい。
 幼い頃の彼と文次郎を比べた事は今まで一度もなかったし、比べるつもりなんて毛頭なかった。何故なら、彼と文次郎は別の人間だから。
 ただ、私は文次郎の背中を見た瞬間、かなしい、と思った。
 何が、どう、かなしいのかわからない。
 ただ、もう、泣きたいくらい、かなしかった。
「文次郎」
「あ?」
「私ね…」
 腰を屈めて、そっと文次郎の背中に手を置いた。
 文次郎は動かない。書物から目も離さない。
 言ったほうが良いだろうか。いや、何も言わないほうが良いだろう。たとえ文次郎に例の彼の話をしても、文次郎が嫉妬するとか、焼餅を焼くなんて事はおそらくないだろう。私は口を噤んで、背中に頬を寄せた。
 文次郎の広い背中は無口で、私はそれがとても好きだったから、このままずっとこうしていたいと思った。せめて、雨が止む頃までは。
 文次郎を彼の代わりにしたいわけじゃない。昔の彼を愛おしく思う事も、きっとこれから先、ないだろう。
 無言の背中に頬を寄せて、胸にせりあがってくる理由のわからないかなしさを噛みしめ、私は文次郎を抱きしめた。
 空は、銀色の糸を静かに垂らしている。いつまで続くのだろう、この雨は。
 盛夏の雨のにおいと文次郎のにおいを両方吸い込むと、鼻の奥がすん、とした。
 きっと私は、どうしようもなくかなしかったのだ、と、そう思った。
 そう自分を納得させるしか、感情が溢れてしまうのを抑える術がなかったのである。













きっと私は、どうしようもなくかなしかったのだ。









[ 2008/08/17 ]