時間という概念について私は良く考えを巡らせる。 時間。時間って、何だ? 太陽が昇って、沈んで、また昇る。その繰り返しを、時間、と呼ぶ。 その間に私達は寝たり起きたり、ごはんを食べたり笑ったり泣いたりする。何もしないかもしれない。それでも、時間は淡々と流れ続ける。ちょうど水が湧き出るように、絶え間なく流れていく。 それが、時間の運命。 逃れる事のできない絶対の形。 夕陽が沈んでいくのを見ていると寂しくなるのは、どうやら私だけではないようで、文次郎もそうだと言っていた。彼と初めて寝た時、ぼそぼそと良く聞き取れない声量で話したのを覚えている。 1日が終わってしまった事に対する一抹の寂しさ、しかし、それは本当にごく僅かなもので、夜は容赦なく世界を包んでくるし、朝はいつも何食わぬ顔でやってくる。やあおはよう太陽。さようなら、月。こうして続けていく日々を、私は寂しいとか愛おしいとか考えながら、何とかやり過ごしている。 学園を出たのはもう陽が暮れかけている時刻だった。外出届けは出していない。長屋の隅からこっそりと抜け出してきたのだ。隣には文次郎がいて、私達は手を繋いで歩いている。 行く宛があったわけではなかった。ただなんとなく、外に行きたいと思ったのだ。夕食はとっくに終わっていて、あとは風呂に入って眠るだけだったから、文次郎も特に文句も言わずついてきてくれた。私は、何よりそれが嬉しかった。こうして文次郎と手を繋いで沈みかけた夕暮れの道を歩く。それがどうしてこんなにしあわせな気持ちになるのか、私は知っていた。口には決して出さないけれど。 「何処に行こうか」 そう言うと、文次郎は首を傾げて、「何処でも」と言った。 「何処に行きたい?」 「行きたいところなんてねえ」 「じゃあ、歩こう」 行く宛がない、なんて事は大した問題じゃないのだ。私達には学園という帰る場所があって、たぶん、それで十分なのだった。行く宛は歩いているうちに自然と見つかるものである。私はふ、と、まだ子供だった頃の事を思い出した。 「あのね」 「何だ」 「あのね、文次郎…」 視線の先には山が連なっていて、頭上は既に青紫色をしていた。太陽の断末魔は、大きな山に沈んでいこうとしていた。 「子供の頃ね、寺にいた頃の事だけれど、私良くいじめられてたんだ」 そうか、と文次郎はそっけない返事をするが、それが彼のやさしさなのだという事はわかっていた。私は話を続ける。 「寺には私以外にも戦孤児がたくさんいて、中には精神崩壊を起こしている子もいた。私も似たようなものだったのかな、しばらくは言葉がしゃべれなくて、頭も悪くて、それでたくさんいじめられていた。子供達も自分の中の苛々を私にぶつける事で解消していたのだと思う。今、考えるとね」 「うん」 「それで、ひとりで過ごす事が多かったんだ。和尚さんも良い人だったのだけれど、何せたくさん人がいたからね、私ひとりの面倒なんてとても看られなかった」 私はいじめられると決まって寺を抜け出し、近所の小高い丘に登って時間が過ぎていくのをじっと待っていた。 丁度今くらいの時間になって腹が減ってくるとようやく重い腰をあげて、寺に戻ったのだった。 「それで、丘の上で見ていた夕焼けが凄くきれいだったのを覚えている。あの頃の記憶は断片的にしか思い出せないけれど、毎日のように見ていた夕焼けは目に焼き付いて離れなかったんだ」 ぎゅっと強く手に力を入れる。文次郎もそれに答えるかのように、指を握った。 「今のあの太陽みたいだった」 じわり、じわりと世界は夜に包まれていく。時間は確実に流れていく。それが当時の唯一の救いだった。 もう少し大きくなったら、寺を出よう。そう決めたのもあの丘でだった。 いつものように夕焼けを眺めながら、そう決意した。 何処へでも良い。行く宛なんて歩いているうちに見つかる。そして、忍術学園に入った。 「成り行きだったんだな」 「そうだね」 正直忍者になりたいと思った事は一度もなかった。ただ、寺を出たい、その一心で学園に入学した。そのうちに友達ができた。文次郎や仙蔵、小平太、長次、留三郎。寺ではありえなかった事だが、彼らは私を受け入れてくれた。決して奇異な目で見なかった。それが素直に嬉しかった。 てのひらから伝わってくる、文次郎の体温が非道く心地よかった。どうして彼は、こんなに体温が高いのだろう、と思う。彼について、私は何も知らない。出身地や、家族構成なんか、話にも上がらなかった。ただお互いにいろんな事を体験して、共鳴するところがあったのだと思う。ただ感じる事は、彼は、私よりは随分良い家庭で育ったという事。この体温の高さや、忍術の勉強に励む姿から、それは容易に想像ができた。 「私はね、文次郎」 呟くように、言う。 「君が、羨ましかった」 「…何故」 「真っすぐで、迷いがなくて、真面目で真摯で、君みたいになりたいと思った」 「忍者が迷いがあってどうする」 私はあはは、と笑って、 「そうだね。でも、私は君にはなれないと、いつしか知ってしまった。それが凄く寂しかったんだ」 そう、人は決して、誰かになる事などできない。どんなに想っても、どんなに憧れても、決して叶わない。 文次郎と出会い、好きになって、体を重ねていくうちに、わかってきてしまった。ああ、私は彼にはなれない、という事を。 当たり前の事であるのにそれを容認するたびに胸が軋んだ。自分がバラバラになったようだった。あれは確か、5年生に進級してすぐの事だった。文次郎の乾いた唇が私のそれに触れて、その時、はっとした。私は彼に憧れていた。しかし、それは憧れでしかなくて、彼そのものになろうとしても、決してなれないのだ、と。 「こういう寂しさもあるんだね」 初めての感情だった。今までも寂しいと思った事はあったが、あの時ほど寂莫とした思いに駆られた事はなかった。 私は動揺し、涙を落した。 文次郎が驚いて目を見開いたのを覚えている。 はらはらと涙を落して、部屋の床を濡らしている自分が非道く惨めな気がした。 あの時も、確か、夏だった。 「…夏は寂しいからあんまり好きじゃない」 周りがあまりに華やかで、自分が霞んでしまうから。 ただでさえはっきりしない輪郭が、さらに歪んでしまうから。 私は夏がきらいだった。 「お前はすぐにバテるからな」 「まあね」 「忍者としてどうかと」 「おっしゃる通りで」 軽く笑った。本当は笑い事ではないのだけれど、笑った。 気がつけばだいぶ山が近付いていた。私は立ち止まる。文次郎もそれにつられて足を止めた。 「星が」 「星?」 空を見上げて、指をさす。私の人差し指の先に、ほんのりと淡い光を放つ小さな星があった。 「星だな」 「星だね」 「月が出てないのにな」 「星も、あれしか出てないよ」 道の端の叢で虫の鳴き声がした。 夏は、私の14年間一度も忘れた事なくやってきて、そのたびに私は動揺するのだけれど、そんな私さえも無視して、太陽を照らし出し、草木を鮮やかな色に染め上げて、そして、静かに息を引き取っていく。そして、何度となくそれを繰り返した。 すべては時間というものによって支配されている。 私が戦にあった事も、寺で育った事も、学園に入学した事も、文次郎と出会った事も、すべては時間が過ぎていったおかげだった。 しかし、いつかは時間すらも止まる。 見上げる星が輝きを失うように、私の時間も静かに、本当に静かに、終わっていくのだろう。 それは、悲しい事だろうか。それとも「死」という絶対的な解放に、私は喜ぶのだろうか。 実際に終わってみなければ、きっとわからないだろう。 「終わるって、悲しいかな」 私は文次郎に尋ねてみた。もう、彼の顔は闇に包まれていて良く見えなかった。私は視力に自信がない。 「どうだかな。考えた事もねえ」 「だろうねえ」 繋いだてのひらから感じる彼の熱と、見上げた星が放つ熱は、きっと同じなのではないか、と不意に思った。 私は、文次郎にはなれない。 それを知ってしまった時、私はまた疵を負った。しかし、今もこうして生きている。 時間は流れていく。私にも、文次郎にも、平等に。終わる瞬間は、それは人それぞれなのだろうけれど、終わってしまえば、おそらくは同じなのだろう。 時間が流れて、疵はやがて瘡蓋になり、消えていく。 そういうものなのだ、きっと。 そして、そうである事が必然であり、そうでなければ、おそらくいけない。 そんな暗黙の規則がこの世界には存在していると私は思う。 この、くだらなく、バカバカしい世界。 その世界とやらに、私と文次郎はふたりで手を繋ぎ合って突っ立っている。なんて滑稽な事だろう。 「文次郎」 「うん?」 私は少し背伸びをして、文次郎の唇に自分のそれを重ねた。彼の唇はやはりかさついていて、しかし、それが彼なのだと思った。 「…何だ、突然」 「ううん、何でもない」 いつの間にかあたりはすっかり夜になってしまっていた。 私は、あの小高い丘に膝を抱えて座り、時間が過ぎていく事だけを考えていたころの事を思い出していた。 あの時から何年も経って、私はこうして傍にいてくれる人を見つけた。もし子供の頃の泣き虫伊作がいたら、言ってやりたい。 「大丈夫。時間が、解決してくれるから」と。 蛍 / 鬼束ちひろ |