文次郎知ってた?と、伊作はくぐもった声で楽しそうに話す。何が、と言うと、あのねえ、と笑い、体をこちらに向けた。 晴れた夏の夕方。帳簿の見直しをしていた文次郎の部屋に伊作は突然やってきた。もう慣れてしまった自分に少しだけ戦慄して、振り返らずに「何か用か」と問うた。 「特に用事はないよ」 飄々としていて掴み所がない様子が彼の特徴で、それは同時に短所になりえた。ああそうかいと言って文次郎は帳簿を繰り続けた。 何をするわけでもなく――それこそ文次郎にちょっかいを出すわけでもなく――伊作はごろん、と床に寝転がってぼんやり暮れていく庭を眺めていた。静まり返った部屋に文次郎の弾く算盤の音だけが響く。 茹だるような暑さも和らいだ盛夏の夕暮れ。夕食まであと少しという時、ふ、と、思い出したように伊作が口を開いたのだ。「ねえ文次郎知ってた?」と。 「死ぬ瞬間って、もの凄く気持ち良いらしいよ」 「……誰が言ってた」 「さあ。覚えてない。随分昔に誰かが言ってたのを聞いた」 伊作は幼い頃から寺で育てられたという。そこには伊作と同じ戦孤児がたくさんいて、その中のひとりが伊作にだけこっそり教えたのだという。 「でね、その子はだから死ぬのは全然怖くないんだって。安心して死んでいいんだってさ」 文次郎は返す言葉を探しあぐねて、算盤を弾く指を止めた。ゆっくりと伊作を振り返る。薄暗い部屋の中で、彼の顔が奇妙に歪んで見えた。 「本当かなあ。もしかしたら君に抱かれるより気持ちいいかもね」 ははは、と乾いた笑いを洩らすから、堪らなくなって文次郎は立ち上がって伊作の側に寄った。腰を落として伊作の顔に自分の顔を近づけると、そっと額にかかった髪の毛を撫でた。汗で少しだけ湿っていた。 「本当かな」 「さあな」 何故今彼はそんな事を言うのだろう。死ぬ事を恐怖としていたのは疾うに昔の事で、15にもなって死ぬのが怖いというのは、臆病者だ。伊作は決してそんな事は言わなかったし、もし言っていたら文次郎は叱咤していたはずだ。 「お前」 「ん?」 「死にたいのか」 伊作の瞳が見開かれる。それが弓型になって、笑顔になるまで、文次郎は彼から目を離さなかった。 「どうかなあ」 「はっきりしろよ、バカタレ」 ああ、もう、ちぐはぐだ。 本当は、こんな事を言いたいんじゃない。 訳がわからなくなって文次郎は伊作の唇を食んだ。戸が開け放たれているのも気にしなかった。伊作の舌が積極的に文次郎のそれに絡んできて、次第に熱を帯びていく。 伊作が腕を伸ばし、文次郎の首を掻き抱いた。 唾液が糸を引き、唇が離れると、伊作はふふ、と笑って、 「死にたい、というのと、死んでもいい、って思うのとは、随分違うんだね」 と言った。 文次郎には伊作の言葉の意味はわからなかったが、ただ一言、「そうだな」と言った。 夏の夕方が切なさを助長するのは何故だろう。あらゆる季節の中で切なさが際立つのは夏だと思っている。夏と伊作というのはあまりにも不釣り合いで面白かった。毎年夏になると夏バテでぐったりしてほとんど医務室から出てこない伊作。それでも忍者か、と叱咤するのが、文次郎は好きだった。うんざりするほど伊作は脆弱で、それでいて愛おしかった。 いつからか、伊作の中にある「穴」を見つけた時、文次郎ははっとしたものだった。 人並み外れて運がない事は天性だが、「穴」は伊作が産まれてから今までに少しずつ形成されていったものだった。 それはあまりにも無残で、暗く深い穴だった。 「穴」を埋めてやりたいと思った。しかしそのやり方がわからず、ただ伊作にせがまれるままに彼と体を重ねる自分がいる。それだけであった。 「伊作」 「何」 お前の中に、まだ「穴」は存在するのだろうか。 俺はどのくらい、「穴」を埋めてやれた? 「何?」 首を傾げてこちらを見上げる伊作が愛おしくて、文次郎は言葉を紡ぐより再び唇を重ねた。 夕陽が太い筋になって部屋の中に入ってきた。本格的に世界が夜に包まれていく。 伊作と文次郎が絡まっているところにも夕陽は容赦なく差し込んできて、その眩しさに文次郎は目を細めた。 すると伊作が、「怒ってるの?」と問うので、 「夕陽が眩しいだけだ」 と答えた。 「夕陽が?」 「ああ、夕陽が」 「眩しいね」 「ああ」 ああ、ああ、そうだな。 首を曲げて戸の外を見つめている伊作は、今まさに調理されようとしている魚のように無力だった。 冷たい床に横たわり、時間ばかりが確実に流れていくのをただ眺めている。 「何か、切ないよね」 「そうだな」 暮れていく夏の夕方は胸を掻き毟るほどに切なくて、やわらかくて、あたたかかった。 今夜も熱帯夜になるだろう、と、文次郎は伊作の髪の毛に触れながら思った。 [ 2008/08/05 ] |