疲れたと、とっくに死んだこころが泣いていた。おれはそんな事に気づかずただ毎日を生きて、息をして、心臓を動かして、浸透してゆく誰かの優しさを浪費していたんだ、って、気がついたら自然と涙が出た。ぱらぱらと零れる雫が頬を伝い、冷たい海面に落ちては消える。何だか随分と長い間、眠り続けていた気がする。じん、と痺れるのは痛みと、きっと疲労。疲れ果ててこのまま海に溶けてしまえばいっそう楽かもしれなかった。睡眠よりもっと深い何かが欲しかった。何かを求めていた。ずっと、きっとずっと。夕陽が水平線に消えかけている。藍色の空には星々が涙みたいに瞬いていた。ちゃぷ、と水音がして、波打ち際に誰かが立った。淡い闇に紛れてしまいそうな曖昧な輪郭。彼が立ってこちらを見ている。目元に薄っすらと笑みを浮かべて、でも眉は少しだけ困っているように歪んでいた。 「重」 彼が名前を呼んだ。凛とした声でおれを呼んだ。おれはそれをとても嬉しく思った。 「重、おいで」 舳丸は長く逞しい腕をこちらに差し出す。綺麗な指先におれはきっと縋りたかったのだと思う。腰まで浸った海水を掻きわけて、砂浜に向かって歩き出す。足の裏に砂粒が刺さる。そのちくちくいう痛みすら今は心地よくて、冬の海の冷たさもまた同じだった。 みよ、と名前を呟く。倒れるようにみよの胸に身体を預けた。驚くほど冷たい。 「馬鹿だな、風邪をひくぞ」 「うん」 みよもね、と言うと彼は少し笑った。微動。揺れる。気持ちがいい。 夜に片足を突っ込んだ世界はどんどんと、冷えてゆく。海の中でも海の外でも、長い間此処にはいられない。おれ達は人間だから。春に流れるのを待つ人間なのだから。 「みよの腕がすき」 おれの指が身体を抱いてくれている腕に触れる。冷たいのに芯には人間の温かさがあった。じわじわと熱くなる目頭がゆき場を失くした途端涙はまた落ちてみよの着物に染みを作る。 海はすべてを洗い流してしまう気がしていた。もうずっと子供の頃から、そんな気がしていた。 なにものも浄化し、なにものも消してしまう。だから海が好きだった。すべてを失くしたら海に溶けたいと思った。 みよの唇が鼻先に口づけをくれる。ちぅと吸って、おれの唇と重なる。血の通った温度に溶ける。みよも海も、同じなのかもしれない。 「みよの口がすきだよ」 瞳も、眉も、鼻も、髪の毛も、腕も、指先も、掌も、背中も、みよを創っているすべてを愛しいと思う。欲しいと思う。 「ねえもっとちょうだい」 みよの、全部をおれにちょうだい。 甘えているな、怒られる、と思っていたのに、みよは小さく笑って舌先でおれの唇を舐めてくれた。そして、「海の味がする」と言った。 沈殿する思考の上澄みだけでみよを感じたい、叶うのなら、消えてしまうその瞬間まで、感じていたい。 星と月が浮かんだ空はまるで海と同じで、もしこのまま溶けるのならみよの指先を一緒に持ってゆきたいと思った。 [ 2010/01/13 ] |