苛立つのは気のせいなんかじゃなかった。
 その笑顔を見るたびに、全身の毛が逆立つような感覚に陥る。それを愚痴ると、航なんかは「大袈裟だ」と笑っていたが、その笑顔にも苛立った。
 俺達は今水夫4人揃って網を縫っている。集中して作業しなければならないのに、傍でぺちゃくちゃと喋る輩がいて俺は苛々した。太陽も丁度空の真ん中にあって、気温は今日最高だと思われた。瀬戸の内海はこの季節でも十分に暑い。俺は肌を光に晒しながら、黙々と網を縫っていたのだが、「ねー航ー」と言う網問の言葉に手の動きを止めた。
「何?網問」
「航はさー、俺の事好き?」
「何、いきなり」
 航は少し狼狽していたが、顔は笑っていた。
「いいじゃんいいじゃん。ねぇ俺の事好き?」
「好きだよ」
 そう返すのかよ、と俺は肩を落とす。網問を注意して欲しくて俺はちらりと東南風のほうを見たが、東南風はひとりで黙って作業を続けていた。網問のおしゃべりは今に始まった事じゃない。仕事中も、休憩時間も、関係なく、誰彼構わず話しかける。まるで話していないと死ぬ様子で、口が閉じると言った事は無い。しかし、いい加減、うざい。
「わー航にも言われちゃった!これね、昨日重にも言ったんだよ!」
「へぇ良かったなぁ」
「えへへ」
 網問は嬉しそうに肩を揺らして笑っている。…むかつく。
「網問」
 俺は作業をやめて網問を睨んだ。
「ん?何、マギ」
「さっきからうるせぇよ。黙って作業しろ」
 網問はえー、とあからさまに厭そうな顔をした。そんな顔をしたくなるのはこっちのほうだっつのに。
「ねぇマギって冷たいよね。ちょっと話してただけなのにね」
 と、航に助けを求めている網問に、苛立ちはピークに達した。
「…その面が気にいらねぇ」
「え?」
 驚いた網問の視線がこちらを向く。
「いっつもへらへらへらへらしやがって。てめー自分の仕事わかってんのか?」
 どくん、と厭に心臓が高鳴っている。視線は網問を絡め取ったまま、動かさない。網問の顔に浮かんでいた微笑が強張った。
「何、マギ、何怒ってんの」
「そーゆーとこが気にくわねぇっつってんだよ」
 何でも冗談に持っていこうとするところとか。
 年齢の上下を問わずタメ口なところとか。
 何より、その、屈託の無い、笑顔。
「何だよー、仕事しながらしゃべってんだから良いだろ?!」
「関係ねぇよ!」
「はあ?!意味わかんない!間切のバーカ!」
「あんだとコラ!」
「コラ!やめろ間切!」
 網問に飛び掛りそうになった俺を航が止めた。東南風も黙ってはいるが、そっと網問と俺の間に入っていった。目が、もうやめろ、と言っている。
「どーしたー、また喧嘩かー?」
 にわかにざわめきだした砂浜に、海中から戻った重がやってきた。その後ろに赤毛の男もついている。
「ちょっと重聞いて!間切のヤツほんともー厭!」
「何何?まーた間切と網問の喧嘩?」
 重はにやにや笑っていたが、網問が重に走りよって胸に飛び込むと、ぽんぽんと背中を撫でていた。
 ちっと舌打ちをすると、航が、「どっちもどっちだろ」と言ったので網問がえー、と厭そうな声を出した。
「何だよ悪いのマギじゃん!俺知らないもん!」
「わかったわかった。網問は悪くない」
 ちょっと待て。何で俺が全部悪いみたいになってんだ。
 そう思ったが、言えば言っただけ分が悪くなるのは目に見えているので、何も言わずに舌打ちだけした。
 その時、
「…網問にも非があるんじゃないか」
 重の後ろにいた舳が口を開いた。この寡黙な赤毛の男だけが、今の俺の唯一の味方らしい。舳は水に濡れた髪の毛を拭きながら、「間切ばかりを責めてはいけない」と言った。
「ぶー!みよ兄にはわかんないよ!」
「でも網問がしゃべってたのを間切が注意しただけなんだろ?」
「俺仕事もしてたもん」
 航が言って、網問は反論する。そう言う事じゃねぇ、と俺は思った。そう言う事じゃねぇし、それだけじゃねぇ。俺が苛立つのは、もっと、違うところ。
「はいはい、もーこの件については喧嘩両成敗って事で終わり!早く仕事に戻れ!」
「何、重まで…」
「俺関係無いもん」
 行こう、みよ、と言って重は舳の背中を押し、水軍館に戻っていった。あとに残された網問はひとり膨れっ面をしていたがやがて作業に戻り、東南風も航もそれぞれの持ち場に戻った。俺は小さく舌打ちをして、縫いかけの網を乱暴に掴んだ。




「間切、良いか」
 夕食が終わった頃だった。誰もいないと思っていた波打ち際に舳がやってきて、そう言った。
「…なんっすか」
 あんたまで説教か、と思うと、苛立ちに拍車がかかるばかりだ。しかし舳はふっと笑って俺の隣に並んだ。俺より頭ひとつ大きい舳は、さらさらの髪の毛を頭の低いところで結っている。潮風が運んでくる香りに、舳の匂いが混ざっていた。
「さっき、何があった」
「さっき、って?」
「網問と喧嘩していただろう、昼間」
 やはり、この事か。
 俺は舌打ちをして、「あんたもしつこいっすね」と言った。
「別にしつこくはないさ。ただ訊ねているだけだ」
「…網問は、」
 上手く開いてはくれない唇を動かし、俺は口を開く。
「笑うから、きらいだ」
「どうして」
「…笑っているのを見ると、苛々する」
 舳にどれくらい俺の言葉が通じるのか分からなかったが、言葉は簡単に出てきた。
「あいつは、何も知らねぇ。人間の汚さも、醜さも…だからあんなに笑えるんだろ?」
 網問の過去を知っているわけじゃない。とんでもない苦労をしてきたのだと言う事だけを人づてに聞いただけだ。だけれど、あんなに今笑えていられるのは、きっと過去にいい思い出をたくさん持っているからなのだと俺は思う。
「俺に無いもんばっか持ってやがる…」
 目を伏せて、視線を波に転じた、時。
 不意にあたたかいものに引き寄せられ、何事かと思う間もなく、俺は舳に抱きしめられていた。
「な…みよっ…」
「お前は笑わないんだな」
「……。」
「笑わないし、泣かない」
 舳の声が耳元でする。恥ずかしさでかぁっと顔が熱くなった。
「俺、は…」
「笑うのにも、泣くのにも、理由なんていらない。そうは思わないか」
「でも、」
「笑いたい時に笑え。泣きたい時は泣け。理由なんて聞かないから」
 とくん、とくん、と脈打つ舳の心臓の鼓動に、速まっていた俺の心臓の音が重なる。
 心地良い…誰かと一緒にいてそんな事を思うのは初めてだった。
 俺はずっと舳の胸に顔を埋めていた。舳がどんな顔をしているかなんて考えている余裕はなかった。ただ舳の体温が、匂いが、すべてが心地良いと思ってしまい、俺は黙って目を閉じていた。




その正しさの価値を教えて









titled by hazy
[ 2008/06/12 ]