初めて舳丸に抱かれたのは、水軍館にほど近い砂浜でだった。 その宵は勝ち戦の酒宴が開かれていて、お頭を筆頭に幹部の兄さん達がへべれけになった頃おれはいい加減飽きてひとり外に出ていた。酒を呑むのが嫌いなわけでは決してなかったが、気分的になんとなく外の空気を吸いたいとおもったのだ。 ふいに背後に気配を感じて、振り返りもせずに「あんたもか」と声をかけた。舳丸は黙っておれを背中から覆うように抱きしめてきた。なんだこのひとも酔っちまったのかとおもったが舳丸からする酒の匂いはそれほど強くなくて、それに舳丸が酔ってひとに絡むことなんていままで見たことがないからこれが酔った拍子の行動だと判断するのは適当じゃないとおもった。 「舳…、」 耳元に舳丸の息がかかって、それがとても熱くて、おれも此処が外で、しかも目の前に海があって、何処からひとに見られているかしれないという危惧も持たず、ただ舳丸の躰にもたれかかった。力を抜くと抱き留めてくれるこのひとの体温がすきだった。 背中で擦れる砂と、舳丸の固い掌の感触。 「好きだ」 唇をついばみながら、舳丸は何度も譫言のようにそう言った。 「間切、好きだ」 おれは終始目を閉じていたが、舳丸が笑っているのははっきりとわかっていた。 このひとは、いつもこうだ。あるはずの羞恥心も自尊心も、何もかもどうでもよくなって、おれは縋るように舳丸の露わになった肩胛骨に指を滑らせていた。 * * * 「あんたはいつも余裕そうだよな」 事が終わったあと。 おれは仰向けのままで呟いた。 「どういう意味だ」 「笑っていただろ、やりながら」 舳丸は海に汚れた躰を洗いに行って、戻ってきたところだった。上半身は裸で、月に照らされた躰はしなやかでとてもきれいだとおもった。 このきれいなひとが、いまのいままで自分なんかを愛してくれていたのか。 おれは舳丸が、情事のさなか洩らした言葉を頭で反芻させながら、舳丸の答えを待った。 「おまえが相手だからな」 「あんだそりゃ」 上体を起こすと、俄に腰に鈍痛が走る。躰を重ねるというのは、こういうことなのか、と、そんな莫迦みたいな感想を言ったら餓鬼だっておもわれだろうから言わないけれど、おもった。 「意味わかんねぇし、いつも」 おれは膝を抱える形で座っている。上目遣いで見ると、舳丸は穏やかに笑っていた。 ほら、その顔だよ。 「おれが相手じゃなかったら、笑わねぇの」 「そうかもな。おまえ以外のやつと寝たのなんざ昔過ぎて、覚えてない」 そう言うと、舳丸はおれの真正面に座って唇を吸ってきた。 一度目は軽く触れるくらい、二度目は噛むように。 三度目からは舌を使って口内を犯してくる。おれは息も漏らさず舳丸の口づけが終わるのを待った。頭がくらくらした。このまま全身が溶けて無くなってしまうんじゃないかっておもって、それが怖くて、でも望んでいたのはそれなんじゃないかとも思い直して、ようやく唇が離されても、おれは息を吸わなかった。 「おい」 そっと頬に触れられる。海水に浸ったせいで冷たくなった掌は、熱を帯びたおれの頬をほどよく冷ましてくれる。 「息、しろよ、莫迦」 その声に我に返った。と同時に、猛烈に胸が苦しくなって、おれは咳き込んだ。 「…莫迦野郎。息を止めてるやつが何処に居る」 しばらく二の句を繋げないでいるおれを呆れたように舳丸は見る。 誰のせいだ、と言おうとしたが、面倒になってやめた。 「躰、洗わなくていいのか」 おれは黙って頷く。 波打ち際で事に及んだせいで全身がべとべとと気持ち悪かったが、舳丸の残り香を消してしまうのも惜しいとおもった。 潮風が冷たくて気持ちいい。おれの火照った躰を撫でるように過ぎていく。 そう言えば舳丸と初めて逢ったのも砂浜でだった。海賊なのだから当然だ。もう何年も昔のことなのに、一度思い出すと記憶は断片的にだが芋蔓形式に流れ出てくる。まだ幼かったおれは、舳丸に引かれる腕を必死で引きはがそうともがいていた。暴れるたびに舳丸の腕をひっかいて、疵を作ったということもしばらくしてから笑い話として聞かされた。だけどいま思えばそれは笑って聞けるようなもんでもなくて、おれは無性に虚しくなって、しかし今更謝るのもおかしな気がしたから、その件についてはなにも言っていない。舳丸ももうどうでもいいとかおもっているだろうから、何も言ってこない。それでいいとおもった。 「うー…」 突然頭を抱えておれは唸る。 舳丸の視線がこちらに向く。 「どした」 「う…ん…。なんか、」 空っぽで、心がかさかさに乾いている気がした。 おれは学がないからそういう奇妙で抽象的な感情を表現する術を知らない。 だから唸るか暴れるかのどちらかしか、自分の想いみたいなのを伝える方法が無くて。 「なんか、おかしい…」 なにが、と当然の返答が返ってきた。それに答えられたら苦労はしない。 隣に足を伸ばして座る舳丸の髪の毛が、風に弄ばれてさらさらと流れる。 ああ、やっぱり、きれいだな、とおもった。 「変だ…おれ…」 耳に残っているのは、舳丸が言った言葉。 好きだ、と。その口は確かに言っていた。 あのときは夢中で、その言葉の意味を考えるいとまがなくて、だけどいま反芻してみれば、非道くおれに不釣り合いな言葉だとおもった。 だから、か。 この、胸の、息苦しさは。 「なんか、知んねぇけど…あんたが、変なこと言うからさ…」 「変なこと?」 顔を覗き込まれた。 また餓鬼扱い。此の期に及んで。むかつく。 「おれのこと、好き、とか…」 言ったあとで、おれは何を言っているのかと自分で腹が立った。舳丸の乾いた笑い声が聞こえた。 「別に変じゃないだろ、正直に言っただけだ」 「…っでも」 おれは覆っていた手を外し、舳丸を仰ぎ見る。笑顔は矢張り余裕の表情で、おればかりが動揺しているようで莫迦みたいだとおもった。 だけどおれは真剣で。 「……言われたこと、ねぇし……」 ああ、それでか。 舳丸がおれの髪に触れる。やさしい手だ。甘えたくなる、手だ。 「おれが間切のこと好きで、迷惑か?」 「っそ…んなんじゃねぇ!」 そういうわけじゃなくて。 ただ純粋に、…嬉しかった。 「アリガト…」 言った直後、凄い力で、抱きしめられた。 深い水の底に泳いでいく、力強い腕で。 全身がびくりとはぜた。だけど、動くことはできなかった。 甘えの許されぬ水軍という場所で、おれはなにをしているのか。 不意に駆られる焦燥に、頼ってしまうのは矢張りこの腕で。 「舳…」 痛みに似た、熱。 注ぎ込まれた温度。 「一緒に、」 生きて、欲しい。 いつか、この躰が無くなるその日までは。 おれなんか死ねばいいとおもっていた。 だけど心の何処かでは、誰かと一緒に生きたいと強く願っていた。 「一緒に、生きて――」 舳丸は静かに頷いてくれた。 月に輝く赤い髪が、燃えるように輝いているのが見えて。 ただもう、泣きたかった。 [ 2007/??/?? ] |