完全なるものを望むつもりは毛頭無かった。 作っては波に呑まれ崩れてしまう砂の城のように、願いは所詮儚い夢で終わる。 いまさら望みはしない。 期待は裏切られるものだと、幼いころに厭と言うほど思い知らされていたのだから。 寄せては返す波打ち際。間切は何をするわけでもなく、足首まで波に浸からせて、黄昏時の潮の匂いを躰に浴びていた。 あたりはしんと静まりかえっている。 つい先日まで目の回るほどに忙しい毎日が続いていた。兵庫水軍が縄張りとするこの瀬戸の内海に、密漁船が立て続けに現れたのである。船上での交渉は当然のように決裂し、最早慣れっこになってしまった戦闘へと場面は移り変わる。その後は町への連絡と、海に浮いた屍の片づけに大童だったのだ。 こうして何もせずぼんやりと海を眺めるというのも、実に久しぶりのことだった。間切はよくひとりで海を眺めに来る。足を少しだけ波に濡らして、遠い水平線を見るともなしに見つめ続ける。仲間内にはそんな間切の様子に気付く者は居なかった。間切自身、己の放浪癖のようなそれを他人に晒す気は更々無かったし、何より嫌った。いつもうしろにひっついてくる網問や、やかましく詮索してくる重の追跡をかいくぐり、此処までやって来るのには結構な労力が必要だ。がしかし間切がそれを止めないのは、生来ひとり好きで、物思いに耽る気質があるせいだろう。 また、波が足下を掬っていく。 頭上を飛び交う鴎の声が、非道く遠くに感じられた。 水平線には夕陽が沈みかけていて、間もなく夕餉だと網問が呼びにやって来るだろう。そうおもうと自然にため息が零れてきてしまう。 別に網問が嫌いというわけではない。寧ろ、初めて出来た弟分だ。実際喧嘩はしょっちゅうだけれど、大切にしたいとおもっているし、大切にしているはずだ。おそらくは。 ただ、と間切は思う。 ただ、己の気持ちを知らない、と思う。 網問や重などのいわゆる天真爛漫に生きているような連中は、きっと間切が何を考えているのか、何をおもってこの水軍という場所に籍を置いているのか、考えもしないのだろう。いまを楽しく生きることに一生懸命で、素直に笑い、素直に泣く。勧めれば酒もよく呑むし、酔って兄役に絡んでいくこともしばしばだ。 見ていてはらはらするようなことを平気でする。それが自分の弟分たちだった。 「間切」 そろそろ館に戻ろうと、間切が踵を返しかけたそのときだった。 ふっとかかった声に振り返ると、見慣れた赤い髪の男がひとり、夕陽に照らされて突っ立っていた。 「――舳」 「遅いから、迎えに来た」 舳丸は何事もなかったようにそう言う。が、間切のほうは狼狽していた。 何故、自分の居るところがわかってしまったのだろう。仕事場とは反対の、人気のない場所を敢えて選んで来たのに。 「なんで、わかったんだ。おれが此処にいるって」 ぼーっとしていたのも見られていたのかとおもうと、恥ずかしさで顔が赤くなる。間切は照れた癖で鼻の頭を掻きながら問うた。 「おまえはなにかあると毎度此処に来るからな」 「…知ってたんか」 「ん。まぁ、な」 曖昧な返事に、間切は少し眉根に皺を寄せる。この男はいつもそうだ。大切なところをぼやかして言葉を発する。 「何してた」 「別に…」 間切が目を伏せて答えると、舳丸は静かに歩み寄ってきた。あっと思う間もなく、舳丸の着物の裾が波に舐められてしまう。驚いて少しだけ高い場所にある顔を見上げると、舳丸は夕陽に目を細めていた。 端正な顔のラインが、間切の目に映る。 (きれーな、顔…) 街で女達が騒ぐのも無理はないかもしれない。男から見ても、舳丸はきれいだ。彼自身は嫌っているらしい赤い髪の毛も、太陽に照らされて輝く様はとても美しく、間切はいつも見とれてしまう。 この感情は決して自分だけのものではないと、そうはおもってはいるけれど。 「良い夕焼けだな」 「そっ…だな」 「間切」 はたと、目が合った。 きれいな瞳に、己の金色の髪が映っていた。 「なにを、考えてた」 「は?」 突然の質問の意味が解らず、間切は問い返す。 「ぼけっと海を眺めてたからさ」 「別になにも…考えてはねぇよ」 「そうか」 「ああ」 本音、のつもりだった。 海を眺めることに、特に意味なんてない。 空の色に従順に染まる海を見ていると、不思議と心が安らいだ。 未だに疼く胸の痛みは、理由は分からないけれども自分でもどうしようもない感情で、それを癒してくれるのは海だけだとおもった。 「あ…」 思い返して、間切は口を開く。 そう言えば、網問と重については考えてた、そう言うと舳丸は乾いた笑い声を洩らした。 舳丸の髪がきらりと輝いた。 「網問と重が、どうかしたって?」 「えーと、なんかあいつらって、何も考えてなさそうでいいなっ…て」 「ほう」 「網問も重もうざいけどいいやつだし、でも、」 でも、おれのことは何もわかっていない。 間切は足下に視線を落とした。砂は夕陽を反射してきらきらと輝く。眩しいくらいのそれに、目は自然と細くなってしまう。 「おまえのことって?」 「それは…」 問われると、口を噤んでしまう。 次に出る言葉が見つからないのだ。 おれはなにを知って欲しくて、何を望んでいるのか。 そんなこと誰にもわからないし、おれ自身もきっと、わからない。 「わかんね」 「そうか」 しばらくふたりは並んで海を眺めていた。 この男と居ると何故か沈黙が気まずくなかった。もともと舳丸がそれほど口数の多い人間ではないからなのか、何となく似たようなものがあるからなのか。 そういうところも、解らない。 ただ解っているのは、舳丸のこと、嫌いでは無いということだけ。 「網問と重な、おまえが思うほど単純でもガキでもないぞ」 長い沈黙を破り、舳丸がそう呟いた。間切が首を傾げて舳丸の顔を見上げると、舳丸はそっと視線を間切に合わせた。 「そーかな…」 「ん。少なくとも明日の晩飯何かくらいは考えてる。」 「はは、そりゃそーだ。」 「あとな、おまえのことも少しは考えてるだろうな」 「おれのこと?」 間切は目を見開いた。舳丸は頷きながら「少しはな」と付け足す。 「…わかってねーよ」 「理解はしてないかもしれないが」 「そーいうあんたはどうなんだ」 今度は舳丸の目が丸くなった。問い返されるとはおもっていなかったのだろう。舳丸はしばらく黙っていたが、そっと手を伸ばすと突然間切の髪の毛をわしゃわしゃと撫でた。 「…みよ…っ?!なにすんだ!」 躰がかぁっと熱くなった。 ガキ扱いされてる、そう、おもった。 「おれは、」 「ん…?」 大きな掌が頭に乗っている感触は、なんだかとても懐かしく。 遠い昔に引き戻された気がして、間切の胸を締めた。 この感情が、間切はいっとう嫌いだった。 鼻先を掠める潮風にも、舳丸からする匂いも、夕陽の色も、何もかもが懐かしく、切なく。 「みよ…」 「間切のなにを知ってるんだろうな」 「……。」 割とある身長差のせいで、間切は抑えられたまま上目遣いで舳丸を見なければならなかった。舳丸は口元にゆったりとした笑みを浮かべて、「知らないんだ、間切のことは」と呟く。 「間切がなにも言わんからな」 「おれ、は」 「それでいいんじゃねぇのか」 間切が言うより早く、舳丸は手を離した。 一気に軽くなる頭にわずかなぬくもりが、非道く虚しいとおもった。 「みよ…」 夕焼けは悲しい色だ。幼い頃、何処へ逃げてもやってくる夜という存在に怯えていた、そんなころを思い出させるから。 切なく、淋しく、しかし説明のつかないこの感情を。 誰が解ってくれると言うのだろう。 俯いた間切の頭上から、舳丸の柔らかい声が落ちてくる。 「…これからおれが解ってやる」 はっとして顔をあげると、舳丸は相変わらず穏やかな笑みを浮かべていた。 「戻るか。網問が来るぞ」 「うん、」 揺れる赤い髪は夕陽に照らされ、悲しい色に染まっていた。 踵を返した舳丸を追って、間切の足は動く。自分より広い背中は、誰よりも恋しいとおもった、誰かにとてもよく似ていた。 [ end ] titled by hazy |