この男日照り。黙れ男にしか相手されないくせに。ひとの成績見てからもの言えよじゃじゃ馬。あほのは組。語彙が足んねーよばか女。お前も同じだろーがばか男。 女郎蜘蛛。 鬼畜野郎。……。 今考えてみれば、何という稚拙な言葉の応酬だったのだろう。お互いに言葉足らずのふたりはまだ幼すぎて、その幼さを振り翳してはぐるぐると同じ場所を廻っていたのだ。 しかし、同じ場所をただぐるぐると廻っていたとばかり思っていたのに円周は確実に拡がっていて、いつの間にか、深い森の奥にある湖くらいの直径になっていた。それに気づいたのは私が六年、彼が五年の秋の頃で、そして気づいた時にはすべてが遅すぎた。 一日の授業が終わり、実技で疲れた身体を大きな樹に預けてぼんやりと空を見ていた。雲の流れは速く、時間もまた同じ速さで流れていく気がして、私は眉根に皺を寄せた。 「みかー」 長屋へと帰る級友が遠くに見える。淡い茜色に染まった空気に彼女達は美しく滲み、不意に、今、泣いてしまえばいい、と思った。 「先に行ってるわよー」 私は、しかし泣かなかった。あやかの声に右手を軽く挙げて応え、それから、再び力なく樹の幹に凭れかかった。 たとえば今、私が泣いたとしたら、誰かが近寄ってくれるだろうか。六年間も寝食を共にした仲間達の事だから、どうしたの、くらいは言ってくれるかもしれない。それで、しかし自分の穴が埋まるとは到底思えなかった。 (くそ……、) 級友を批難している気分になって私は触れていた、湿った土を指の先で抉った。爪の間に這入りこむ黒い土からは、自然の匂いがした。不純物も何もない、水分を少しだけ含んだ土の匂いだった。 ばかっぽい。 心の中で呟き、暮れていく空をみつめた。 「兵太夫」 食堂へと続く廊下を歩くすらっとした背中に向かって私は声をかけた。振り返った彼は、心底厭そうな――眉間に深く皺が刻まれている――顔をして、なに、とぶっきらぼうに放った。 ぞろぞろと生徒達がすぐ側を通り過ぎていく。そのなかには兵太夫と一緒に歩いていた三治郎や伊助といったもと一年は組の生徒達もいて、彼らは兵太夫と私を見やると、「先行ってるよ」と肩を叩いてさっさと食堂に入っていってしまう。 「なに、ハブられてんの、あんた」 「ばーか」 私が唇の端を持ち上げてみせると兵太夫はすぐに悪態で返した。こんな事を、昔からずっと繰り返してきたのだ。しかし私達の罵詈しかない会話は年を重ねるにつれ少なくなっていった。それは自然な事に思えた。成長などといったものではなく、単純に、時間がすべてを引き離していったのだ。 「で、なに? なんか用?」 兵太夫は目を眇めて言葉を促した。 特に用があったわけではなかった。ただ目の前に厭というほど――それこそ飽きるくらいに――見知った背中があり、その背中に対して何かを言わなければならない気がしただけだった。 「別に」 だから、素直にそう言った。 兵太夫は、はぁーっと深く長いため息を吐き出すと、「用がないなら声かけんなよ」、と吐き棄てた。 踵を返した兵太夫の、癖のある髪の毛が目の前で揺れた、その瞬間、私の中の何かが音を立てて決壊した。 気づいた時には私は彼の腕を両手で掴み、 「ちょっと待ってよ!」 と、叫んでいた。廊下に私の甲高い声が響き渡り、その場にいた生徒の視線が私達に集中する。 まるで引きとめるようになってしまった今の状態を私は憎らしいと感じた。しかしこのままどうする事もできず、今さら手を離す事もしたくなかった。そんな事をすれば、“負けてしまう”。 「なんなんだよ……」 彼の呆れた声が感情を激しく揺さぶった。そういう言葉を欲しいわけじゃない。こんな気持ちを抱きたいわけじゃない。 「なんでそうなのよ!」 はあ? と兵太夫は困ったように顔を歪めた。 違うだろ、あんたはもっと、あたしを罵ってただろ? なんでまるで大人になっちゃったみたいな顔してんのよ。もっとこどもみたいに、ただのばかだった頃の言葉であたしをばかにしてよ。 元々高かった背丈がさらに伸び、握った腕は細いなりにも筋肉が付いていて、私は、混乱する頭でどうにか言葉を紡げないものか、考えた。溢れるのは、しかし感情ばかりで、言葉によってすべてを伝える事などできないと思った。 「おい」 俯いた私の頭を軽く叩かれ、おそるおそる視線を持ち上げると、兵太夫の顔が見えた。 「ガキじゃないだから、なにか言いたかったら言えば?」 落ち着きはらった表情で言われ、私は腕を掴んでいた手により力を込めた。そして言った。 「ガキじゃないって、わかってるよそんなの。でもヤなの。それだけはヤなの……」 「なんで」 だって、と開きかけた口を一度、閉じ、再び開いて呼吸をした。 「だって、忘れちゃうじゃない」 「なにを」 「なにもかも」 腕を離す。止血を終えた後に似た、血の通う気配が、すぅっと指先から肩までを温めた。 「兵太夫のばか」 そして、私は踵を返し、廊下を長屋に向かって走り出す。振り返る自信はなかった。 振り返った先にある彼の顔を、真正面から見据える自信なんて、疾うに失っていた。 夕闇が落ちた庭先に金木犀の樹がある。咲く頃にはまた、私はひとつ、生を重ねる。それまで死なない予感がした。そして金木犀の花が香りやがて落ち、冬の到来を此処で待つだろう事も。 縁側に腰を下ろした私は膝を抱え、結局食べられなかった夕食と、兵太夫に放った言葉を思い出していた。 明日になっても私はきっと生きていて、成長を止める術もわからずに漫然と大人になっていく。 ただのばかでいたかった。それだけの願いだった。 「兵太夫のばか」 遠くの何処かで、みかちゃんのばか、と声のする事を、満ちた月に祈った。 [ 2010/09/20 ] |