寂しいひと、だとだと思った。
 薄い瞼に奥にある綺麗な瞳は、いつも、遠く遠くを見ている。
 何を見ているの?誰を見ているの?
 訊ねることは、たぶんに無意味。彼との会話が上手く成立することは滅多にない。
 おれとの会話のほとんどは口喧嘩で終わってしまうし、質問を投げかけて答えてくれたためしがない。
 それは彼が秘密主義者のようなところがあるからなのか、単に答えるのが面倒なのか。
「どっち?」
 口をついて出た言葉に間切は眉を顰め、顔を傾けておれを見た。おれも自分でびっくりした。ぼうっとしていたせいで、考えていたことが勝手に声に乗って飛び出してきた。
「何が」
「…ううん、何でも」
 間切は「あっそ」と言って捻った首を戻し、一瞬止まってしまった甲板掃除を再開する。
 ほらね、とおれはこっそり思う。
 ほらね、こうして会話は成立しない。
 投げた言葉を間切が受け取ってくれることはない。
 言葉は、間切には届かないのだ。ただ空気に四散して、そして地面に落ち、音を立てて弾ける。いっそう清々しいくらいに粉々。言葉が形を持つのなら、それはきっと硝子みたいにきらきらしているのだろう。
 ガシガシと音を立ててブラシを動かし、間切はもうこちらを見ようとしない。
 金髪が揺れるその横顔を見つめておれは、寂しいな、と思った。
 孤独な男だな、と。
 誰にも心を開かず、淡々と日々を重ねてゆくだけ。
 ただ、生きているだけ。
 それだけ。
(…おれも、変わんないか)
 おれだって似たようなものだ。
 膨大な“これから”に押し潰されて摩耗してゆかぬように、未来に殺されないように、一日を生ききる。それだけ。
 生きている理由なんて、本当に、それだけ、なんだから。



 ◇



 夕食の後片付けを済まして、部屋で夜風に当たりながら風呂が空くのを待った。
 最年少のおれに与えられたのは、水夫四人が寝起きすることになる小さな部屋だった。上下関係の厳しい水軍という場所では当然の処置だった。以前いたところでは海に浮かぶ船の床下が寝床だったから、随分と扱いがよい。
 兵庫水軍は貨物船の上乗りが主な仕事で、他に要人の護衛をしたり懇意にしている忍術学園と交流を持ったり、正直何がしたいのかよくわからない。殺し合いをしないと思っていたら、気を抜いた途端に突然密入国船と海上戦を始めたりする。掴み所が無い。お頭がそういう人種だからなのか。いかにもひとのよさそうなお頭はいつも笑っていて、おれをいろいろ気にかけてくれる。
 潮風に混ざって仄かな夏の気配を肌に感じ、おれは急に心細くなった。
 航と東南風は明日が非番だからと街に遊びに行ったし、間切は、いない。
 姿が見えない。それが、おれを非道く不安定にさせた。
「まぎり、」
 喉から出た声はどうしようもなく震えて掠れていて、どうしてこんなに寂しいんだろうと思った。
 昼間に見た間切の横顔が、断片的な記憶として甦ってくる。
 細切れに映し出されるその顔に胸が締め付けられ、おれは胸の前でぎゅっと両手を握りしめた。
 寂しいひとだと思った。何故そんなに寂しそうな目をするの。
 部屋を出て、波打ち際まで駆けた。裸足で飛び出したせいで足の裏がちくちくと痛い。それも厭わず濡れた砂に爪先を埋め、波を蹴り飛ばした。青黒い海はうねり、もう、水平線は見えない。空は星が散らばっていて、藍色から深い紺色へと姿を変えようとしていた。
 脛まで海に浸かったところで、ようやく足を止めた。
 呼吸が速い。心臓も、激しく鼓動している。
 おれは泣いていた。鼻を鳴らし、ぼとぼとと涙を落としていた。
 何が悲しいのか、何が寂しいのか、もう、訳が解らない。
「まぎり、」
 彼の名を呼ぶ。震える声で、決して届かぬだろう声で。
「まぎり、」
 波打ち際を宛ても無く歩いた。何処までも続く海岸線を歩き、歩き、歩きながら、名前を呼ぶ。
 時々嗚咽が混じって、言葉にならない言葉が出る。それでも、おれは歩いた。
 俯いたまま涙を落しながら歩いて、ひときわ大きく鼻を啜った時、見つけた。
 彼は、同じように波打ち際に足を浸して、こちらをじっと見つめていた。まるで異常者を見るような怪訝な目つきだった。それはそうだ、おれは泣きながら、もう顔をぐしゃぐしゃにしながら、まぎりまぎりと歩いていたのだから。
「まぎ、り、」
 やっと、いた、安堵のため息。同時に、涙がぶわっと溢れ出た。
 月明かりに輝く金色の髪の毛を、素直に、美しい、と思った。
「何だよ」
「…何処にいたの」
 探してた。ずっとずっと。あんたをずっと探してたよ。
「此処にいた、ずっと」
 此処に?おれは首を傾げる。
「どうして?」
「…さあな」
「理由も無いのに、此処にいたの?」
「さあ」
 ほら、会話が成り立っていない。
 間切はもうおれから視線を外して、消えてしまった水平線を見つめている。
 遠い視線の先に、いったい、何があるの。
 その背中を、うしろから抱きしめた。
 どうしてか、どうしようもないくらいこの男を愛おしく感じた。
「…網問」
 振り解かれる、と思っていたのに、予想に反して間切は両手のひらで胸の前にしがみついているおれの手を、撫でた。
 骨ばって固い手。冷たい、手。
 押しつけた額から間切の体温が伝わってくる。鼓動も、一緒に。
「夏が、くるよ」
 半ば無意識に言葉を発していた。
 間切は黙っている。
「夏が、きて。おれは、切なくなるんだ。誰かの側にいないとだめとかじゃなくて、そうじゃなかって、間切、が」
「……。」
 あんたじゃないと駄目なんだ、って、解ってくれる?
「夏は、寂しい。あんたも…寂しいから」
 おれは、あんたを。
「愛したい、と思うんだ。」
 強く強く胸を締め付けるのは、きっと、愛おしさ。
 滲み出るのは、果敢なさ。
 魅かれてしまうのは、美しさ。
 ふう、と息を吐く。
 言葉は、間切に届いたのだろうか。粉々になってしまっていないだろうか。
「…好きにしろよ」
「え?」
 間切はじっと遠くを見ている。
 おれは少しだけ視線をあげて、その横顔を見た。
 左頬の疵。細めている、目。
「好きにすればいいだろ」
「…どういうこと?」
 意味が解らず質問をした。答えてくれることを信じて。
「勝手にしろと同じ」
 目を伏せて、間切は言った。
「間切も、寂しい?」
 それには、答えてくれなかった。
 ただ、おれの腕を解いて、ひたひたと足音を響かせて水軍館に戻っていってしまう。
「待って、」
 おれは慌ててその背中を追いかけた。
 あたりはすっかり暗くなっていて、月に照らされた金色の髪の毛だけが、きらきらと、美しく輝いていた。





Oasis of Love




[ 2009/06/07 ]