愚かなことだと言われるかもしれないけれど、死んでしまいたいと思うことは何度もあった。
 もういい、もう十分だって自分で解ってしまって、ああ、今ならきっと死ねると、あの日から持たされていた小刀を一日中見つめている日もあった。
 そうでなくても、水軍という場所での生活は常に死と背中合わせだった。
 気を抜いたら死ぬ。だからいつかきっと、勝手に死ねるだろうとおれは思っていて、それは、実はかなり甘い考えだった。
 誰にでも殺すことができたのに、
 誰にも生きることを強制されなかったのに、
 おれは死ななかった。
 16歳の今まで、生きた。
 それは偶然だったのか、必然だったのか、
 わからない。
 殺す価値も無い子供だと思われたのかもしれない。
 何も識らなくても生きていけることを、
 おれは此処で識った。
 学んだことなんて、きっと、その程度。


 淡い蒼に雲が滲んで、遠くに影を作っているのはおそらく鴎の類で、それは翼を大きく広げてくるくると旋回している。眩しい空だ、といつも思う。此処は、やたら光に溢れている。そんな価値も無いくせに。
 水軍の隠れ家なんてもっとどろどろしていて、命のやり取りを日常的に行っているような、そんなイメージがあった。
 瀬戸内の港を拠点としている兵庫水軍の乗組員は、あちらこちらで網を編んだり柔術の鍛錬をしていたり、光を真っ向から受け止めて忙しなく動いている。ほぼ全員が綺麗に日焼けしている。そしてほぼ全員が楽しそうに笑っていた。
 少なくとも、おれの一族を殺した連中とは、違う雰囲気がした。(それは、評価に値する?)。
 おれは誰かが作ったのだろうやっつけ感満載の小さな海の家――細い4本の木の枝で茣蓙を支えて、陽を遮っている小屋のこと。――で、そんな彼等を見つめていた。膝を抱える形で座るおれの視線は、砂浜と海と空を行ったり来たりして、一点に落ち着くことが無い。特に面白いわけでもないのに、どうしてか此処を動けなかった。水軍館に戻って眠ってしまうこともできたが、それをおれはしないでただじっと連中を見ていた。
 季節は鬱陶しい梅雨から初夏に向けて流れていこうとしていた。
 憎んだり悲しんだりしている間に、いつの間にか季節はおれを置いて過ぎる。それは仕方のないことだった。
 じっとりと湿った潮風が前髪を遊ばせて、するすると何処かに流れてゆく。それも、きっと、仕方のないこと。
 諦めてしまえば楽になることなんてたくさんあって、おれは、ただ、諦めきれないから何もかもを持て余すのだと思う。
 馬鹿々々しいとは思っている。諦められずに擦り切れてゆく精神も、ちゃんと存在すること。そしてそんな上等な考え方を持っているということは、実は、おれ自身も誰も知らない。
 生きにくい。生きることに向いていないとつくづく感じる。
 終わりにしてしまいたかった。
 いつ、終われるのだろう。
 いつ、おれは終わらせることができる?
 まだ赦されないんだ。自分一人だけが生き残ってしまったこと。
 夜眠れないのは“彼等”が、瞳ばかりをぎらぎらさせておれを睨むから。
 そして声にならない声で叫ぶ。――網問!
 誰かに呼ばれた気がしたと当時に影がおれを覆って、おれはすっと視線を上に向けた。
 いつしかおれの目は何も見ていなかった。(それに、今気づいた)。
「…おい、」
 逆光に輝くのは金色の髪の毛で、おれは、無言で彼から目を逸らした。
「おいって」
 そのひとは大きな手を伸ばしておれの額をてのひらで押し上げた。
 ごつごつして、痛いその手は、とてもつめたい。
「網問、」
 うるさいなあ、と心底思った。
 もう、放っといてくれていいのに。
「こんなとこにいやがって。このヒキコモリ」
「…なんか用」
「別に。」
 意味が解らない。おれは盛大に顔を顰めてみせる。
 彼――そう、名前は確か、間切と言った。――は、おれの前髪を払って、何の許可も得ずおれの斜め前に腰を下ろした。
「…此処に、いたいの?」
「阿呆。」
「じゃあおれ、館に戻る」
「待てよ」
 立ち上がろうとしたおれの手首を掴み、間切はこちらを見た。
 猫のようにつり上がった目がおれを射抜く。そこには光を湛えていた。
「なんで逃げんだよ、お前」
「…別に、逃げてない」
「逃げてんだろ、此処にきてから、ずっと」
 おれは、何も言えなくなった。ただ唇を咬み、間切を睨んだ。
「まだ仕事を覚える必要はねーけど、少しはもっと可愛くしたらどーだよ」
「意味、解んない」
 間切の言葉が胸に刺さる。走るのは、痛み。流れているのは、きっと、悲しみ。
「そう言えって、誰かに言われたの」
「俺の個人的な意見」
「聞かない」
 掴まれた手首が、つめたい。
 おれは今きっと、非道く苛立っている。
 どうしてこのひとのてのひらは、こんなにも冷たいのだろう。
「ほんっと可愛くねー奴」
 間切は舌打ちをして、手を離した。
 ようやく自由になった右手はしばらく居場所を失くして、中途半端な位置に浮かんでいた。
 喉の奥がひきつったように、非道く熱かった。
 胸だって、いろんな感情がぐるぐると渦巻いて、吐き気がした。
 おれの何もかもを奪ったのはこいつ等なのに。
 殺してやりたいという感情は不思議と抱かなかった。
 むしろ、考えるのは、いつも。
「…ねえ、まぎり」
「ああ?」
 おれの声は掠れて、まるで今にも泣き出しそうな、そんな音を奏でた。
「お願いしたら、殺してくれる?おれのこと」
 間切は黙っておれを見据えていた。次第に細くなる目はほんとうに猫みたいだ。
「ねえ、終わらせてくれる?」
 もうすべてが終わってしまっても構わなかった。
 そもそも、生きている意味が解らなかった。
 すべてを失ってもなお生き続ける意味は何なんだろう。
「それは、お前の願望?」
「純粋なお願い」
「今俺が此処でお前を殺す利益は何」
「可愛くない弟分がひとり消える」
 間切は鼻息を漏らして笑った。笑ったところを見たのは初めてだった。
「馬鹿なことだと思う?」
「さあな」
「間切は、死にたいって思ったことある?」
 また少しだけ笑って、間切は、「腐るほど」と言った。
「でも、此処にいたらいつか勝手に死ねる。誰かが殺してくれる。それを待ってる」
「待つのって、つらくない?」
「別に」
「…そう。」
 空にいた鴎は旋回を続けている。いつまであそこにいるつもりなのだろう。
 おれも、いつまで此処にいればいいのだろう。
「…解らない」
 そう呟くと、間切はふっと笑い、立ち上がった。立ち上がりざまにおれの前髪に触れた、その指は、やはり冷たかった。




終 わ っ て し ま う、 と 知 っ て い た か ら 冷 た い ま ま で





titled by 星が水没
[ 2009/06/03 ]