「その先に、綾部先輩の掘った落とし穴があるよ」
 頭上から降ってきた声に金吾は足を止め、顔を持ち上げた。
 すっかりと色の落ちた葉を付けた太い枝に、見知った意地の悪い笑みをみつけて、ため息が出そうになる。素直に息を吐けば彼は露骨にムッとした様子で、座っていた枝からひらりと地面に降り立った。
 地面に敷かれた葉が渇いた音を鳴らす。
「シカトかよ」
「別にシカトしてないだろ」
 生返事をし足を進めようとした金吾の袖が兵太夫によって掴まれた。なに、と振り返ると、兵太夫は顰めっ面を崩さずじっと金吾を上目遣いでみつめた。
「なに」
 金吾はため息を吐いた。言いたい事があるならはっきり言えばいいと、こいつのこの表情を見るたび思う。だから、髪と同じ焦げ茶の瞳を見据えて放った。
「そっちに落とし穴があるって言っただろ」
「だから、なに」
 現作法委員長である綾部喜八郎の顔を思い出す。数日前に彼を含めた六年生が、学園長の思い付きで夏休みを減らされた事も。
 そういえば、それにキレた綾部先輩が学園じゅうに穴を掘りまくっていたな、と冴えた頭で考えた。
「違う場所、教えてやる」
 兵太夫は相変わらずのぶすくれた顔でそう言った。

 兵太夫に袖を掴まれたまま木立の生い茂る獣道を進んでいく。木洩れ日が二人の輪郭を濡らす。小枝と落ち葉に覆われた地面を踏めば、乾燥した音が空気にゆっくりと昇る。
「あ、」
 鼻腔を擽った馨しい芳香に視線を斜めにすると、撓んだ枝に爛熟した柘榴の実があった。熟れた中身が今にも落ちてしまいそうなその実に手を伸ばす。歩きながらであるから、指先が少し触れただけだった。
「喰いたいの」
 唐突に、前を往く兵太夫がぶっきらぼうに放った。
「いや……、甘そうだな、って思って」
「ふぅん」
 兵太夫は少し、笑ったようだった。
 薄い背中を隠す髪の毛が目の前で揺れる様は、いつか見た時よりもずっと大人びている。口喧嘩しかできなかった頃から二年も経ち、今では相手を殺し殺されるくらいの力と知識を互いに得た。一年の頃より伸びた髪の毛は豊かにすぐ目の先で揺れている。風を縫って流れるふわりとした絹の髪に、何故だかきゅうに触れたくなった。
「……なに」
 伸ばした指が髪の先を掠めた一瞬に、兵太夫の機嫌の悪そうな声が聞こえた。
「髪の毛が伸びたな、って」
 はっ。渇いた笑いが鼓膜を叩く。互いの足が止まり、兵太夫がこちらへ身体を向けた。
「なにもしなくても伸びるから鬱陶しいんだよ」
 兵太夫は口を斜めにした。一年の頃から変わっていない、彼の癖だ。
「生きようと頑張らなくても」
 うん、と金吾は気の抜けた返事をして、前髪にそっと触れた。柘榴の汁が微かに残った指先を払われ、手を掴まれる。
「……べとべとして、気持ち悪い」
「ごめん」
 なんの躊躇もなく、兵太夫はその指先を舐めた。舌そのものが生き物のように指を這う。
 風が囁いて木立を鳴らした。
「美味い?」
 やがて離れた兵太夫の口もとをみつめて漫然と問えば、兵太夫はまた、はっ、と笑って、
「しょっぱい」
 と言った。




そ れ は、 つ む じ 風





(2010/10/04)