ふたつはひとつになれない。 どんなに想っても。 好きなのかもしれない、と思ったのは二年生も終わりに近づいた頃だった。その時にはもう、三治郎のくるくると良く廻る瞳に絡め取られては、身動きをとれなくなっている自分がいた。その細い指、髪の毛に触りたい。三治郎とひとつになりたい。そう思っては伸ばしかけた手は虚空を掴み、振り返る三治郎の顔にはいつもの笑顔が張り付いていて、僕は情けないほど惨めで。 「どうかした?兵ちゃん」 僕の顔を覗き込んで三治郎は心配そうに眉を顰める。 「なんでもないよ」 目を伏せて、僕は答える。駄目だ、そんなこと思っちゃいけない。だって三治郎は大切な僕の親友で、僕の味方で。他の誰も代わりになれない、そんな、存在。 ───大きすぎる。 たとえ抱き締めても溢れてしまうほどの彼という存在。微かな痛みが僕の胸に走った。 夕暮れが迫っている。 自室にふたり、三治郎と向かい合って座る。 「それでね、その時土井先生なんて言ったと思う?」 目を細め実に楽しそうに喋る三治郎。僕はその、唇をじっと見ていた。土井先生、なんて、言ったと、思う?文節毎に小さな唇が形を変える。こんなに小さいのに、ちゃんと神経とか血管とかが通っていて、生きてるんだ、と思ったら、無性に愛しくなって、僕は視線を三治郎から外した。 「兵ちゃん?」 ああ、また。三治郎の瞳に捉えられて動けなくなる。 「大丈夫?最近兵ちゃん変だよ」 「そう、かな」 変だよー、と三治郎は冗談めかして笑った。そして閃いたように手を叩き、「そうだ!」と言った。 「食堂のおばちゃんから金平糖もらったんだー、一緒に食べよう?」 三治郎は押し入れから可愛い花柄の小袋を取り出して僕の前に差し出した。てのひらの上で花が開くように小袋が口を開け、中には色とりどりの金平糖が入っていた。 「美味しいよ?」 砂糖の粒をひとつ口に含むと、三治郎はそう言って笑った。開いた袋の口から金平糖を取り出して、同じように口に入れる。唾液と混ざってじわりと溶けるその砂糖の塊は、非道く甘くて、何となく切ない気持ちにさせた。 「…美味しい」 「ね?」 にこーっと効果音まで付きそうなほどの笑顔。僕はこの笑顔に心底弱い。どうしてこんなに可愛らしく笑うのだろう。抱きしめたくなるじゃないか…。 僕は金平糖を舐めながら、じっと床の木目を目でなぞっていた。三治郎とは一年生の時に初めて出来た友達で、以来同室ということもありとても仲良くしていた。それが次第に愛しさに変わり、自分でもどうしようもないくらい膨らんで、今に至る。好きなのかも知れない…という懸念は、恐らく、間違ってはいないだろう。 どうしよう。どうしたらいい?…わからない。ただ、堪らなく、愛おしい。掻き抱いて、唇を重ねたい。こんな気持ちになったのは、生まれて初めてだった。だけど、駄目だ。三治郎とは、ずっと良い親友でいなくちゃ、いけないのだから。 「それでねー、土井先生がねー」 金平糖を食べながら三治郎は話を続ける。正直話の内容などどうでも良かった。目の前に三治郎がいる。ただそれだけの事実が重要だった。だから、土井先生がどうとかいうことにも興味は無かったし、それは他のは組のみんなに対しても同じだった。 「土井先生、神経性胃炎の再発近いかもねー」 三治郎は笑って、僕はそうだねと返して、金平糖を食べた。甘い味を舌に乗せれば、三治郎はきっとこんな味なのだろうとひとり思った。 三治郎は可愛い。野に咲く花のように、可憐という言葉が良く似合う。以前金吾に、ふたりで並んでいると華があるよな、と言われたことがあったが、それは間違っている。僕には華なんて無い。 三治郎は優しい。僕に限らず、は組の誰かが怪我をしたとなると、大変に驚いて急いで医務室に連れて行こうとする。疵口を看てやることもある。その優しさに、虎若なんかは三治郎って何か良いよなぁとか言っているのを僕は知っていた。 「ねえ兵太夫、三治郎は?」 教室でひとり本を読んでいると、虎若がそう訊ねてきた。 「土井先生に頼まれて教材の整理してる。」 「ふぅん」 虎若は気のない生返事をした。 「僕も手伝うって言ったんだけれど、ひとりで大丈夫だから、って」 「三治郎らしいや」 と虎若は笑った。その笑顔に、僕は一瞬眉を顰めた。三治郎らしい、って、何だ?お前に三治郎の何を知っていると言うんだ。そう思ってしまうと、もう口に出ていた。 「なんだよそれ」 「え」 虎若はきょとんと目を丸くする。 「お前三治郎の何知ってるわけ?」 「は?」 「言っとくけどね、三治郎の『親友』は僕なんだからね。勝手に入って来るな」 「な、何だよその言い方!」 バン、と机を叩いて虎若は憤慨した。此処一年で急速に成長をした彼の手は、無骨で骨ばっていて、とても逞しい。しかしそれに動じる僕じゃない。本を閉じると、 「何怒ってんの?ばっかじゃねえの」 「お前なあ…!」 何だ何だと周りからは組の連中が集まってきた。やめろよふたりとも、と学級委員長の庄左ヱ門が声をかけたが、僕は無視した。 「お前だって三治郎のこと何も知らないくせに何言ってんだ!」 「少なくともお前よりは知っているつもりだけど。何お前この僕に喧嘩売ってんの?」 「何だと!」 胸ぐらを捕まれた。引き寄せられて無理やり立たせられる。教室中がざわめいた。 「やめろ虎若!」 「兵太夫も!」 金吾と団蔵が慌てて止めに入る。その時だった。 「何してんのふたりとも!」 ガラリと戸が開いて、両手に教材用であろうプリントを持った三治郎が教室に入ってきた。 「兵ちゃんやめなよ!」 三治郎に宥められてはどうしようもない。僕は虎若の手を思いっきり払いのけると、もといた席に戻った。 「虎若までどうしたって言うの、ねえ」 「実は…」 「何でもないよ!」 説明しようとする虎若を遮って僕は叫んだ。 「何でもないの!三ちゃんにはぜんっぜん関係ないんだから!」 「そうなの?」 「いや…」 「虎若は黙ってろ!」 「何だとこの野郎!」 「いい加減にしろー!」 庄左ヱ門が一際大きな声で叫んで、教室は瞬時に静まりかえった。 「はいはいこの問題はもう和解したということで終わりでいいね。ね、兵太夫に虎若」 「う、うん…」 「……」 僕はつんとそっぽを向いて聞こえないふりをした。三治郎の視線がこちらを向くのが分かる。 「みんなもう座って!授業、始まっちゃうよ」 それぞれ己の席に戻りながら、まったく兵太夫の癇癪にはいい加減にしてほしいよとか言うのが聞こえた。 僕がそしらぬ風を装って忍たまの友を開くと、隣りに三治郎が座った。 「びっくりしたー。いきなり虎ちゃんと兵ちゃんが喧嘩してるんだもん。原因は分かんないけど、これで良いんだよね?」 「…三ちゃんには関係ないよ」 本当は、大ありなんだけれど。そんなこと、言わない。言えない。三治郎とは、ずっとずっと親友でいたいから。だけれど、誰かに渡すのは、本当に困る。だから虎若の、いかにも自分は三治郎のすべてを知っていると言った発言に、こうも反応してしまったのだろう。 「今日ね、図書室の前を通っていたらね…」 にこにこと話を始める三治郎に、自然こちらも笑顔になる。そうだ。僕はこの笑顔が大好きなんだ。ただ傍にいるだけで安心できる、そんな存在。失いたくない、それは、愛しさに似ているのだろうか。 太陽が燦々と地面を焦がす、如月にしては随分と暖かい日だった。今日の実技は校外マラソンということで、クラスの雰囲気は二部されていた。走るのが得意な乱太郎や三治郎、真面目な庄左ヱ門と伊助、体力自慢の金吾と虎若などは鬱屈した教室での授業を抜け出せると笑っている。反対に面倒くさがりのきり丸や喜三太や僕なんかは、いつまでもぐずぐずと教室に残っていた。 「兵ちゃーん、そろそろ行こう?」 「わ!」 始業の鐘が鳴る直前、僕の顔を覗き込んで三治郎は言った。突然視界に入ってきた三治郎に一瞬びくりと体が震えた。 「ん?どーしたの?」 「別に…」 きょとんと首をかしげる三治郎に察せられないように顔を伏せて、しぶしぶ立ち上がった。 三治郎が好き。三治郎が、好き?最後には疑問符が残る。それは普通の感覚での「好き」なのだろうか。それとも、もっと深い、どろどろした、「好き」なのだろうか。恐らく後者であることは、誰よりも自分が知っている。ステップを踏みながら先を歩く三治郎の薄い背中を抱きしめてやりたい。そうしたら、三治郎はどんな顔をするだろう。良く、ふざけてじゃれ合ったりするけれど、そんなものじゃあない。三治郎の、もっと、奥深いところを、知りたいのだ。 マラソンなんて気が進まない。僕の頭の中は三治郎でいっぱいだった。朝目が覚めるともう既に起きていて、おはよう、と声をかけてくれる、彼の顔はいつも優しい。人嫌いで仲間と上手くやれていなかった僕を、唯一受け入れてくれたひと。――愛しいの?……きっとそうだ。何故今なのだろう。もっとあとでも、もっと成長してからでも、十分じゃないか、と思う。どんなに好きになっても、僕たちはまだ幼すぎて、それでも、誰かを「愛する」ということは良く知っていた。いずれ僕が妻を迎えるときは来るのだろうか。その時、三治郎はどんな想いで僕を見るのだろう……。 「兵ちゃん危ない!」 「えっ」 突然鼓膜を突いた三治郎の声。 「わあっ!」 一瞬世界が回転した。…いや、自分の視界が回ったのだ。僕は無様にも、マラソンの行列の中盛大に転んでしまったらしい。 「大丈夫?」 隣りで一緒に走ってくれていた三治郎が足を止めて僕に手を差し伸べた。 「う、うん…」 格好悪いな、僕。 周りの同級生達も立ち止まって僕達の様子を見ていた。気がつくと、僕と三治郎は長い11人の列の最後尾にいた。三治郎の事を考えているだけでこんなになってしまうなんて、本当にばかみたいだな。 「どうした?おい兵太夫、大丈夫か?」 山田先生が駆け足で近寄ってきてくれた。 「ちょっと足を挫いたみたいですが、大丈夫、です」 「いかん、いかん。念のため学園に戻って、新野先生に診て貰いなさい」 三治郎、と山田先生は言った。 「一緒についていってあげなさい」 「はい」 「えっ」 「?どうした?」 「いいえ、何でも…」 三治郎は尻餅をついたままの僕の右腕を取ると、自分の肩に回して僕を担ぎ上げた。三治郎の体温が征服伝いに伝わってくる。あたたかい。 僕はドキドキする心臓を察せられないように気を遣わなければならなかった。 万が一知られてしまったら、死ぬほど恥ずかしい。 「じゃあ頼むよ、三治郎」 「分かりました。兵ちゃん、大丈夫?」 「うん…」 「他の皆はマラソンを続行!」 山田先生が前列に戻り、は組の皆はちらちらと僕らを見ていたが、やがてその踵を返すと、小走りで山田先生についていった。 「さて、僕達も行こうか」 「う、うん」 三治郎がにっこり笑って、僕の歩調に合わせてゆっくり歩き出してくれる。 …どうしてこんなに優しいのだろう。 そう言えば、友達になりたての頃も、上手くは組に馴染めなかった僕を、三治郎はひとりだけ気にかけてくれた。一緒に歩いてくれた。同じ歩幅で。 同じ歩幅では足りなくなったのは、いったいいつの事だったか、今ではもう思い出せない。 ただ三治郎の事を抱きしめたいほど愛おしく想うようになったのは確実で、今までふざけてじゃれ合っていた事が今では出来なくなって、そうして僕はどんどん三治郎に惹かれていった。駄目だ。そんなの駄目なんだ、と言い聞かせても、頭は言う事なんてちっとも聞かない。 不思議な感覚だった。 「軽い捻挫ですね。すぐに治りますよ」 新野先生が僕の足を診ながらそう言うのを聞いて、三治郎は「良かったぁ」と笑顔を作った。 「暫く実技は見学するよう私から山田先生にお伝えしておきますからね、あとは無理をしない事」 「はい」 「良かった。ね、兵ちゃん困った事があったら何でも僕に言ってね。何でもしてあげるからね」 三治郎がにこにこして言うものだから僕は少し困った顔をして、「ありがとう」と言った。 僕らを見てにっこり笑った新野先生は、「では今の時間は少し休んでいくように。私はちょっと職員室に用があって抜けますが、留守番お願いしますね」 「はいっ」 三治郎の元気の良い返事に僕はドキッとした。え、新野先生いなくなるの?僕と三治郎のふたりきり?…やだ、そんなの…。 「ねー兵ちゃん喉渇かない」 新野先生が出て行ってすぐに三治郎は問うた。僕が動けないでいるのを気にしたのだろう。僕は無駄にドキドキする心臓を抑えて、「うん」と頷いた。 「白湯、いれてあげる。あ、飴湯が良いかな?ね、どっちが良い?」 いつもならおせっかい三治郎とか言って、それに三治郎がぷぅと膨れて何だよ兵ちゃんとか言って…そうして、ふたりで笑い合えただろうに。気がついたら、僕の口からとんでもない言葉が飛び出ていた。 「…三ちゃん」 「え?」 「三ちゃんが良い」 僕の口が勝手にそう言わせた。三治郎はぽかんとした表情を作る。 「へ…いちゃん…?」 僕ははっとして、両手を広げた。 「ちっ違う違う!何でもないの気にしないで!あ、飴湯が飲みたいな僕!」 「…飴湯だね、分かった」 三治郎が湯気を立てている水差しから湯のみにお湯を注ぎ、制服の懐から金平糖の包みを取り出すと、何個か金平糖を取り出して、その湯のみに入れた。 『三ちゃんが良い』 …ばかか、僕は。 僕は心の中で罵倒した。 そんな事言われても、三治郎が困るのは目に見えている。だけれど、分かっていても、口が、この口が勝手に言った。それは僕の本心だからだろうか。だとしたら、すごく困る。 「はい、即席飴湯」 「…ありがと」 湯のみを手渡された時、そっと三治郎の手に触れた。 その手はあたたかく、再び心臓がドキリと鳴った。 ――やっぱり僕は、君が好き。 飴湯を飲みながら、三治郎がひとりで話し始めるのを僕は黙って聞いていた。 外は夜が世界を飲み込もうとしていて、青紫色の雲が、ゆっくりと風に吹かれているのが見えた。 [ end ] 青紫 / 天野月子 |