互いに想いを伝え合ったのはいつだったっけ。…覚えていない。確か3年の終わりとか、そこらだった気がしてる。だから、三治郎と一緒に居る空間が前とまた違うものになったのは、ほんのつい最近のこと。
 は組で僕と三治郎の関係を知っているのはごくわずかな人間。頭の切れる学級委員長とか、よく気がつく性格のやつとか、直接尋ねてくるわけではないけれどなんとなく察しがつく。だけれどそれでもういい。僕は三治郎と居られればそれで満足だった。
 次第にその感情がどろどろしたものになっていっても、その気持ちだけは変わらずにあったはずだった。
 三治郎もきっと、気付いている。





手にとって 壊れないように





「三治郎ー!」
 一日の授業が終わり、部屋で他愛ない話をしていた僕たちの間に割って入ってきたのは、同じは組の虎若だった。
 不作法にも突然部屋の戸を開け、僕の大切なひとの名前を呼び捨てた。
「虎若?どしたの?」
 せっかく2人っきりの楽しい時間を過ごしていたのに、突然の来訪者に僕は一気にしらけてしまった。だけど三治郎はそんな僕のことなんて気にも留めてないらしく、肩で息をつく虎若に近づいていった。
「突然で悪い!また伊賀崎先輩の毒蜘蛛が大量に逃げちゃってさぁ、いま必死で探してるんだけど、生物委員全員集合だって!」
「えぇ〜?!」
 僕と三治郎の声がはもった。どちらもまたか、という呆れ、そして僕は三治郎が居なくなってしまうことに対する不満爆発。
「ってわけで、とにかく早く来てくれ!あと下級生達にも知らせてくるから!」
「あ、うん。わかった…」
 どたばたとあわたただしく虎若は行ってしまい、あとには居心地の悪そうな三治郎と僕が取り残されていて。
「兵ちゃん…」
 申し訳なさそうにこちらを振り返る三治郎。
 そんな顔しなくなっていいんだけど、僕の性格を熟知しているから、まぁ当然そうなるのかもしれない。
「行ってきなよ。全員集合なんでしょ」
「う、うん」
 ちょっと冷たすぎる言い方だったかな。だけど、思い改める暇もなく三治郎は「じゃあ行ってくるね」と言って、部屋を出て行ってしまった。
 三治郎が居なくなってしまった部屋は急に静かになって、ああひとりなんだなって頭の隅でぼんやりおもった。


「ただいま〜…」
 三治郎がぼろぼろになって帰ってきたのは、就寝時間の直前だった。
 布団を敷いて待っていた僕は、虎若に担がれるようにして帰ってきた三治郎に軽く瞠目してしまう。
「どうしたの?!」
 慌てて傍に寄ると、三治郎は虚ろな目で僕を見上げた。
「いやー、三治郎が…普段ならこんなことあり得ないんだけど、下級生を庇って毒蜘蛛に刺されちゃってさ、医務室で手当は受けたんだけど、すぐに横になってろって」
 代弁するかのように虎若が言う。三治郎は「ごめんね、虎若」と呟いた。
「大丈夫か?」
「うん…もう、大分いい」
 へらりと笑ってみせる。
 それを見て虎若は安心した様子で肩にかけていた三治郎の腕を外す。
 まだふらつくようだったが何とか自分の足では歩けるようだ。
 僕もほっと安心する。
 …だけど、次第に熱い塊がわき上がるのを感じていた。
「ありがとね、こんなとこまでつれてきてもらって」
「気にするなよ、それより早く寝た方がいい。」
「うん…」
 2人が話しているだけで、頭の芯がぼうっとなる。
 三治郎が自分以外の人間を見ている。
 それが僕の思考を混乱させた。
「…ねぇ」
 非道く低い、冷たい声が僕の口から出た。
 きっと虎若も三治郎も驚いたとおもう。僕だって、自分の声にはどきりとするものがあった。
「あとは僕に任せて、虎若もう帰ったら?」
「あ、ああ。そうするよ」
 じゃあな、と虎若が慌てて部屋を出て行ったあと、暫く動けないで居る僕の手を三治郎はそっと握った。
「…ん?」
「兵ちゃん」
 蜘蛛に噛まれたのは指先らしく、包帯が巻かれたそこは布のざらざらした感触と消毒液の匂いがした。
「あの、大丈夫だから、ね?」
「うん…」
 にっこりと笑ってみせる三治郎に、僕は曖昧に笑って答えた。
 とりあえず寝よう。寝てしまえば、さっきの変な感覚は忘れてしまう。
 僕は大丈夫だと言う三治郎を無理矢理布団に押し込んでから、眠りについた。
 尤も気になりすぎて、ちっとも睡魔は襲ってこなかったのだけれど。






 とろけそうなほど温かい午後。このまま本当に溶けて、無くなってしまうんじゃないかって不安になってくるくらいに心地良い日和。それはいまの僕の状況のせいでもある。
「…兵ちゃん」
 三治郎の声がやけに近く聞こえるのも、同時に幸福感で溶けそうになるのも、何もかも僕自身のためだった。
「あの、さぁ…」
 三治郎の膝を枕に借りて、僕はじっと目を閉じていた。
 開け放たれた障子戸からはやわらかな日差しが差し込んで、三治郎の影をつくる。僕はさっきからずっとこのままで、さすがにうんざりした様子の三治郎にも何も言わず、「なぁに」と素っ気ない返事を返す。
「重いんだけど」
 優しそうに見える三治郎は、実はずばりと自分の意見を言うとってもしっかりした人間で。
 そこをいくと僕なんて本当に情けないやつだっておもうのだけれど。
 いまはそんなことどうでもよくて。
「ね、いつんなったらどいてくれるのさ」
「んー…」
 正座した三治郎の膝はやわらかくて気持ち良い。出来ればずっとこのまま…ってそんなわけにはいかないのは知っている。だけど僕だって意地がある。
「僕がどけるまで」
「もー…」
 ふっと三治郎が笑ったのが分かった。
 呆れてるんだろうな、きっと。そうおもうと、心臓の奥が、ちくりと痛んだ。
 呆れられること承知でこんなことしてる。他人にはバカみたいに思われることも、三治郎相手ならなんの躊躇もなくやってしまうから我ながら三治郎って存在の大きさに驚いたりもする。
 大切なんだよ、本当に。
 想いを伝え合って、手を繋いでみて、それでも伝わらないのはこの感情だけ。
 ねぇどれほどの時間をかけたら、伝わるのかな。
 『恋人』なんていう言葉じゃ全然足りない。
 そんな陳腐な言葉は必要ない。
 欲しいのは、大切なんだって気持ちだけで。
「あのさー、三ちゃんはさー…」
 暫くの沈黙のあと、僕は小さく口を開いた。
 うん?と首を傾げる三治郎に、やっぱり分かってないんだなと少し落ち込んだ。
「僕のことどうおもってるわけ?」
「は?」
「だからー」
 目を閉じたままでも光の具合っていうのはわかるようで。
 ちらちらと影が言ったり来たりするのは、三治郎が首を傾げたりしているからなんだろうな。
「…僕と一緒に居てどうなのってこと」
「どうなのって…楽しいよ、すごく」
 三治郎の声色は困っているようで、だけど僕は「それだけ?」って思いっきり不機嫌な声で返してやった。三治郎はひとの感情に敏感だから、僕が怒ってるってこと、すぐにわかったらしい。「兵ちゃん」と、優しい声で宥められた。
「それじゃあ不満なの?」
「だってさ、僕とじゃなくても、三治郎は笑ってるし…」
「そりゃ友達と笑い合ったりはするよ」
「…っでも」
 僕は思い出していた。あの、三治郎が毒蜘蛛に噛まれた夜のことを。
 じわりと心臓を焼いたあの感覚を。
 気持ち悪いとおもった。出来れば一生、思い出したくない感覚だと。
 だけどいまの僕はそれに完全に支配されている。三治郎が何処かに行ってしまう、自分の知らない何処か遠くに行ってしまうことに対する恐怖心が僕の心を占めていた。
 難しい事なんかじゃなくて。ただ。
「三治郎が、僕を置いて行くんじゃないかって…」
 醜い感情。汚い、と僕はおもう。
「兵ちゃんは、」
 要するにさ…
「嫉妬っていう、やつ?」
「…っわかってるんなら…!」
 言うな、と言おうとしたら三治郎と目が合って、思わず口を噤んでしまう。三治郎は笑っていた。いつもと変わらない優しい微笑みを僕に向けていた。

「大丈夫だよ」
「…。」
「僕は何処にも行ったりしないから」

 僕はずっと三治郎の膝の上から頭を動かせなかった。動かせないまま、彼の穏やかな言葉を聞いていた。

「ひとりでどっかに行っちゃったりはしないよ。」
「ほんと?」

 こくん、と頷く。その拍子に垂れた髪の毛を指に絡め、もう一度「ほんとう?」と問うた。
「約束する。」
「…あ、りがと」
 蚊の鳴くような小さな声でそう言うと、兵ちゃんらしいって笑われた。
 僕は三治郎の髪に触れながら、暮れてゆく空と伸びてゆく影を交互に見やって、
 今この瞬間が非道く儚く、愛おしいと感じていた。






[ end ]



[ 2007/06/10 ]