こういうことって、よくある。と、兵太夫はおもっている。 何もする気が起きない日。ただ寝転がって、床の冷たさが気持ちいいとか、少し固くて痛いとか、そういう他愛のないことばかりが頭を巡って、躰は何かをするのを拒否している。 そういう日は兵太夫にとって堪らなく辛いものだった。この時期・・・春が近づくと、何故か毎年そんな気分になる。苛立つ。こころが痛くなる。説明のつかない感情だから、級友達に理解してもらおうとは端から思っていない。 だけれど、同室の彼にだけはなんとなくわかってほしくて、そのひとの背中に視線をやりながら、どうやって話を切り出そうか悩んでいるのだった。 部屋の床の上に大の字になる。頭の芯がぼうっとするが、苛立ちは消えない。衝動的になにかを壊したくなったり、誰かに当たりたくなったり、そうなったらきっともう自制が利かない。今日が午前授業でよかったと、心底おもった。 「兵ちゃんさぁ」 口を開く前に、課題をやっていた三治郎が兵太夫に声をかけた。呆れたような口調だった。 「いつまでそうやってるつもり?」 「・・・だって・・・」 振り返って微笑みかける。その笑顔に、頭の奥がカチンと鳴った。 「僕の勝手じゃん」 「そりゃそうだけど・・・そうやってごろ寝してると頭が痛くなるよ」 実際、もう既に痛い。 しかしそれは床のせいだけではなくて。そう言おうとしたが、ざわついたこころが気力を萎えさせた。 「布団敷こうか」 「・・・別にいい」 「ねえ」 三治郎が躰全体をまわして、こちらを見やる。薄暗い部屋に、不貞腐れた表情で寝ている兵太夫は、確かに面妖な感じがした。 「さっきからなに苛々してるのさ」 「別にー」 どうしても憎まれ口を叩いてしまう自分が憎い。本当は、全部吐き出してしまいたいのに。 躰は言う事を聞かず、三治郎の気遣いも苛立たせる材料にしかならなくて、兵太夫はわざとそっぽを向いた。このひとのやさしさにもむかつくのは相当やばいんじゃないか、とおもいながら。 「兵ちゃんってば」 「・・・うるさいなぁ!」 顔を両腕で覆う。視界が暗闇に包まれる。自分の言葉の棘が、三治郎に刺さったこともわかった。 「・・・もー」 気配が近づいた。三治郎が傍に来たのだろう。それでも兵太夫は腕をあげなかった。苛々の原因は誰に有るわけでもない。ただなんとなく、苛立つ。むかつく。 「そうやっていじけてたって、どうしようもないだろ」 「いじけてなんかない」 「じゃあなに?僕になにか言いたいことでもあるの?」 「それは、」 そうだけど。 言葉が続かない。 不満とかそんなんじゃない。そこを誤解されたら悲しい。しかし兵太夫の口はそれ以上言葉を紡ぐことがなかった。否定も肯定もしない兵太夫に、三治郎は呆れたのかまた文机に戻ろうとする。 (待ってよ) 遠ざかる、気配。 三治郎の匂い。 (行くな) 反射的に腕を伸ばし、三治郎の手首を掴んでいた。 無意識下の行動に自分でも驚く。しかし三治郎は苦笑して「なぁに」と言った。 「・・・なんでも、ない」 手を、離した。まだ残っている三治郎の温もりに、少しだけ落ち着いた。 「よし」 不意に、三治郎が明るい声を出した。 「外に行こう、兵ちゃん」 「はぁ?」 兵太夫が聞き返すのも無視して、三治郎は文机の上を片づけ始めた。 「ちょっと待ってよ。なんで急にそんなことになるわけ?」 「なんとなく。行きたいから」 理由になってないよ、と言おうとしたが、面倒でやめた。これはカマかけているだけだとおもった。兵太夫が動かないのを知って、そんなことを言う。 「…僕、行かないから」 呆れてすぐにやめるだろう。…と、そうおもったのも束の間、三治郎は勢いよく部屋の戸を開けた。日暮れて既に数刻が経っている。外は暗闇で、消灯時間まであといくらもないだろう。 「なにやってるの、ほら行こう」 「本気で言ってるの?厭だって言ってるじゃん…」 そんな気分じゃないんだよ。何処にも行きたくない。部屋でじっとしていたい。 しかし三治郎は聞かない。廊下に出て、兵太夫が起きあがるのを待っている。 「兵太夫」 「うー…」 兵ちゃん、ではなく兵太夫と呼ぶときは、三治郎の苛立ちもピークに差し掛かったという合図だ。兵太夫はまだ床でごろごろしていたが、 「行くの、行かないの」 「…行く。」 気圧されて、おずおずと起き上がった。 夜に学園の外に抜け出すのは、これが初めてではない。2年生のときに、先生に見つからないで外に出られるかを遊び感覚でやっていたら、抜けるのは自然なことになっていた。 さすがに3年生にもなると気配を殺して塀を飛び越えるくらいわけない。二人は寝間着のまま、さっさと外に飛び出した。 「…ねえ」 いつまでも燻っている兵太夫は、後ろを気にしながら三治郎に続いた。 思っていた以上に月明かりが眩しい。塀を飛んだところを誰かに目撃されていないか、気になった。 「大丈夫かな」 「兵ちゃんらしくないこと言うね。こんなの、どうってことないよ」 「それ、三ちゃんらしくないよ」 ようやく笑う気力が出てきた。見ると三治郎も笑っている。 「ふつう僕が心配する立場だよね」 「…だね」 いつの間にか、立場が逆転している。 二人は走りながら、腹の底がくすぐったくなる感触を覚えた。 いくらでも走れる気がした。 風は頬を撫でるように、月の光の筋だけを頼りに、とにかく遠くまで。 息が切れるのも心地よくて、兵太夫は少し速度をあげた。 煌々とした光のした、長い影が伸びる。いくらか走ったところで、前方を行っていた三治郎が足を止めた。 「ここらへんでいいかな」 あたりは土手だった。あまりこちらに来たことのない兵太夫は、三治郎の背中に黙ってついていく。土手の急な勾配を下り、そこでようやく腰を下ろした。 「座んなよ」 三治郎の隣を指さされる。言われるままに従った。 んー、と伸びをする。 「たまにはこうやって抜けるのもいいかもねー」 「…うん」 見つかったらアウトだけと、と続けて言って、また笑う。 「まだイライラしてる?」 「いや…、」 風が、髪の毛を嬲るたびに、汗がひんやりと冷えて心地よい。 不完全燃焼だった感情も、ようやく消し止められたと見えて、兵太夫はやわらかな笑みを浮かべた。 「よかった」 ほんとうに安心した様子で、三治郎は言った。 「兵ちゃんが怒ってるのはいつもだけど、今日はちょっと違う感じしたんだよね」 「…わかってたの?」 まぁね。 三治郎は足下にあった草をちぎって、風に乗せた。緑色をしたそれは頼りなく流され、あっという間に視界から消え失せてしまう。 「…寂しいんなら、そう言えばいいのに」 「だって…」 だって、とまた言葉が続かなくなって、口を噤んだ。 三治郎はどこらへんまで、自分の感情を汲んでいるのだろう。どこまでわかって、どこからがわからないのだろう。 「そんなこと言えるわけ無い」 「どうして?」 だって。また、だ。 そういうふうに優しくされると、苦しくなるから。 だけど離れられると、寂しくなるから。 「…難しい」 「うん、僕もよくわかんないや」 「え?」 兵太夫は三治郎を仰ぎ見た。あまり夜目の利かない兵太夫には、三治郎の表情は読みとれない。しかし気配で微笑んでいるというのは、わかった。 「兵ちゃんがどのくらい苦しいのか、どのくらい寂しいのか、よく、わかんないけど」 「…。」 でもね、と続ける。 「言ってくれたら、わかるかもしれないじゃないか」 ざざ、と風が囁いた。草のにおいが、鼻腔を掠める。 それに載って、三治郎のにおいも兵太夫に届いた。淡い、懐かしいにおい。 「言わないんだもん、兵ちゃん」 「だって…っ」 三治郎の顔がこちらを向く。勢いに任せて、口を開いた。 「自分でもわからないから…どうしてイライラするのか…寂しいとか…だから…」 もう、全然わかんないよ。 三治郎は黙って頷いていた。 「三治郎にも呆れられるし、…もう、しんどい」 「しんどいのはお互い様だよ」 兵太夫は膝を抱え、顔をその間に埋めた。 「兵ちゃんが言ってくれないとなにもわかんないし、言ってくれないと、あー僕こんなに近くにいるのに全然頼りにされてないんだなぁっておもって、僕だってしんどいんだよ」 「頼りに…」 頼ってばかりじゃないか。少しでも負担になるのはもうごめんだから。 だから、黙っていたのに。 「頼ってばっかりだね…三ちゃんには…」 「出来ればもっと頼ってほしいんだけど」 ふふ、と笑ったのがわかった。 「わかんないより、わかったほうがいいでしょう?」 「うん…」 「兵ちゃん」 髪の毛に触れられた途端、顔が燃えるように熱くなった。あわてて身を退こうとしたが、時既に遅し。 あっという間に兵太夫の頭は三治郎の腕の中に抱きすくめられていた。 「さ…っ」 「寂しいんだったら、そう言って」 「三ちゃん…」 「僕だって寂しい」 「……。」 三治郎の声が、耳元でする。細い腕が、肩が、躰に触れている。 「寂しい…」 出た声は、さぞや情けないものであったろう。 「寂しいよ…」 「うん」 「でも、」 あたたかい。 このあたたかさが、やさしさが、不意に失ってしまうとおもうから、寂しくなる。苦しくなる。いつか消えるとわかっているものを、傍に置いておくのはあまりにも酷だった。 壊れやすいものほど、大切だから。 「三ちゃん」 頭と頭が当たっている状態で、兵太夫は言った。 「…手、握ってもいい?」 「うん、どうぞ」 触れた三治郎の掌は小さい。小さくて、細い。 「ちっちゃいね、三ちゃんって」 「そんなことないよ。もうすぐ大きくなるんだから」 「そのころには僕も大きくなってるよ」 「どうだろうねー。僕のほうが大きくなってたら、兵ちゃんどうする?」 あはは、と笑い合う。いまは兵太夫のほうが少し背が高いけれど、確かにこの一年で三治郎はぐんと成長した。いつか、背丈を越される日も来るのだろう。 そのとき自分は、抱きしめるだろうか。抱きしめられるのだろうか。 「まだ三ちゃんのほうが小さいんだからねっ」 「わぁっ!」 握った手を離し、三治郎を覆うように抱いた。 「な、なんだよう、さっきまで萎れてたくせに!」 「三ちゃんにはもう少し大きくなってから抱きしめさせてあげる」 「なにそれー」 赤面しつつ、三治郎は笑っていた。屈託のない笑顔だ。 「兵ちゃんももうちょっと笑わないといけないよ」 「わかってるよ」 笑う練習しなきゃね。三治郎はお手本だ。 二人は堪えられなくなって、声を出して、笑った。 [ end ] おだいじに / 椎名林檎 |