淡い、空があった。 (大分、遠くまで来たんだな) 遥か頭上に広がる空を見上げて、三治郎はひとりごちた。なんだか随分長い間、こうしている気がする。 変わらない空ばかりが三治郎の目には映る。虚しさや寂しさ、と言った感情が当てはまるのだろうか。他人のそういうことには機微だった神経も、自分のこととなるとこのところすっかり麻痺してしまっている。それを自覚したのは、彼と別れてから暫く経ってからのことだった。 三治郎は地面に仰向けになり、じっと空を眺めている。 そして何年も前のあの日のことを思い返していた。 背中に面している土の匂いが鼻腔をかすめ、非道く懐かしいおもいにさせているのかもしれない。そういう作用が自然にはあるのだと、三治郎はかたくなに信じていた。 (あいつは、忘れたかな) やたら鮮明な記憶。さよならと言った日の、そして最後に笑いあった日の。 何故か意識もはっきりしていて、先刻まで敵方と切り結んでいたことが嘘のようであった。 そ、と疵を受けた箇所に手を置いてみる。鳩尾の一部にズルリと手が入っていった。生暖かい内部から、赤黒い血が留まることなく流れ続けている。 しかし不思議と、痛みはなかった。 (死ぬときはこういうことが普通に起きるんだよね、先生) 学生時代――忍術学園にいた頃、よく担任の土井が言っていたことだ。 『死の直前は、あらゆる感覚が麻痺してしまう』のだと。 それはある意味では幸福であり、ある意味では恐怖であった。痛みを感じないことは、生きていることとは結びつかない。幼い頃からそうおもい続けていた三治郎にとって、『痛み』とは生そのものであり、生きている証なのだった。 (兵太夫) 愛しいひとの名を呼んでみる。声にはならなかった。 別れてしまったことを後悔しているのか。いや、そんなことではないと三治郎は自答した。 (忘れたかな・・・) 忘れてほしかった。こんなことになるのなら。 (約束だって、言った) そう、約束。 誰とも交わしたことのない、最後の約束。 (・・・忘れてよ) 次第に空はその色を失っていく。いくら待ってくれと願っても、夜は容赦なく世界を覆い隠す。紫色の空は遠く、雲が滲んできれいだとおもう。こんな感慨にふけっている自分は、本当におかしいのだろうと改めておもい、自嘲した。 (おかしくなる前に、わたしも忘れなきゃなぁ・・・) 相手にばかり求めて、自分が実行しないのは卑怯だ。彼がそこにいるなら、きっとそう言って非難するだろう。もしくは・・・互いに忘れるなんて馬鹿げたこと、絶対にするかと言うだろう。 (兵太らしいや) いるはずもないそのひとの顔が思い出される。手を伸ばせば届きそうなところで、笑っている。もう動かなくなった腕を何度も何度も伸ばしては、掴もうとした。しかし幻は幻らしく空虚で、力なく落ちる腕のために触れることすらできなかった。 (いまなにしてる?兵太) 聞きたいこと、言いたいこと、たくさんあった。出来れば逢って、話をしたかった。 きっと二度と出来ないそんな甘い幻想に、三治郎は己の愚かさを叱責した。 忘れろ、と言ったのは自分なのだ。それなのに、忘れようとしない自分がいる。 (バカじゃないのか) ああ、本当に。 ものすごくバカだってことは、自覚してるよ。 空はどんどん暗くなっていく。三治郎に時間の経過を教えてくれる。忍として働き始めてから、それが唯一の『時を知る術』だった。 このままずっと此処で寝ているつもりなのか。それもいいだろう。 だけどあいつは、忘れただろうか。 (それだけが心配だよ・・・) もう長くない息を細く吐き出しながら、カラスの群れが飛んでゆくのをじっと見つめる。親子だろうか、何羽かが軌道を描いて、彼方の空に吸い込まれていく。 (兵太夫) ごめん、と。 こころのうちで、出来うる限りの声で、言う。 (偉そうなこと言って、ごめんね) 無理だとおもった。 忘れる事なんて結局、できやしなかった。 無謀な仕事を引き受け、忙しさに埋没していても、仕事が済めば頭に浮かんでしまう。忌々しいともおもったし、何度も拭い去ろうとした。 (兵太のこと、忘れたくないよ) このまま死ぬんだろうか。 あと何刻かしたら、この躰は抜け殻になるのかもしれない。 (もし死んでも、わたしはきっと) 死にたくないとこころが叫んでいる。死ぬことで忘れることが辛い。生まれて初めて、そうおもった。 (・・・きっと、思い出すからね) 何度も繰り返し見た夢。 すっかり成長した彼と再会する、途方もなく遠く儚い夢。 胸が苦しい。 行き場を失った感情は、涙となって三治郎の頬を伝っていった。 (思い出すから) だから、いつかまた逢いたい。 流れていく雲に眼を凝らし、三治郎は静かに眼を閉じた。 幼い頃の彼が、瞼の裏で微笑んだ気が、した。 [ end ] [ 2007/03/15 ] |