これはきっと、神様がくれた痛み。 まだ濡れた眼をそのままに、兵太夫は強く三治郎の手を握り締めていた。 医務室の床に寝転がったまま、二人は何をすることもなく、ただぼうっと天井を仰いでいる。 先刻まで兵太夫が使っていた布団はきれいに整えられていて。 もう用は無いよと言われたように、隅の方へ追いやられていた。 「陽、暮れてきちゃったね」 「うん」 兵太夫は含み笑いをしながら、呟く。 他愛の無い会話。ごはんを食べなきゃ、とは思いながらも、ゆっくりと流れる時間に身を任せること。それが兵太夫にとって非道く心地良かったのだ。 「兵ちゃん」 「ん?」 隣で横になる三治郎は、眼を閉じてから静かに口を開いた。 「もうあんなこと、思っちゃだめだからね」 「・・・うん」 思い出して、兵太夫は眼を伏せてしまう。 自分は必要とされていないんだと、泣きじゃくっていた兵太夫。ひとりであるならば、いくらでもここで涙を流す事ができた。しかし、今日は思いがけず三治郎がいた。そして、自分の泣き顔と本音を知られてしまった。 それがたまらなく恥ずかしくもおもうし、三治郎に申し訳なくも、おもう。 「わかったよ」 もう、泣かないから。 そう言おうとした兵太夫を遮り、三治郎は言った。 「ひとりぼっちで泣いたら、絶対に許さないから」 驚いて横の三治郎を見ると、彼は眉根に皺を寄せて、険しい表情で兵太夫を見つめていた。 その眼に写る兵太夫自身の顔が、大きく歪んでいる。 「三ちゃん・・・」 三治郎の眼から、一粒の雫が零れ落ちた。 それは留まることなく頬を濡らし、寝そべっている床を濡らし。 立場が逆転してしまったことに狼狽しながら、兵太夫は、涙を流す三治郎にかけてやる言葉が見つからなかった。 「泣くなよ、三ちゃん」 「・・・っだってぇ・・・」 とうとう嗚咽を洩らし始めた三治郎は、握られていないほうの左手の甲で乱暴を顔を拭う。しかし涙は止まらない。苛立たしそうに何度も何度も、それを繰り返すが、無駄な抵抗だった。 「・・・っ・・・兵ちゃんが・・・ひとりで寂しいおもいするの・・・・・・いやだ・・・」 「・・・」 堰を切ったように。 溢れ出る涙は、先刻兵太夫が流した涙のように、差し込む夕陽に反射していた。 「要らないなんて・・・おもわないでよぉ・・・」 「うん・・・」 ごめんね。 兵太夫は、胸が締め付けられる心地がした。ごめんね、ごめんね。 何度も心の中で繰り返すが、声にならなかった。 また涙が出そうになって。でも、それは堪えて。 そのためにまた、言葉が紡げなくなって。 奇妙な悪循環に嵌ってしまい、医務室のなかには三治郎の嗚咽だけが響いていた。 「三ちゃん」 鼻を啜る三治郎に、兵太夫はようやく声をかけられた。 「ありがとう」 「・・・ううん・・・」 「泣かないでよ、ね」 頭を撫でてやる。三治郎がしてくれたみたいに、やさしく。 握ったままの手に力を入れると、三治郎もそれに答えるようにした。 「兵ちゃんは、強いから・・・」 言葉を区切りながら、三治郎は言う。 「きっとずっと、我慢してた。ずっとひとりで・・・泣かないって・・・」 兵太夫は否定しなかった。涙を落とす三治郎を見ながら、残っている記憶を辿り始める。 泣かないようになったのは、いつからだったか。 覚えていない。ただ、兄や父から嫌われたくなくて、何があっても泣かないようにはしていた。二人とも、男が泣くのは悪だとおもっていたから。 兄に比べて力のなかった兵太夫は、せめて涙を見せるような真似だけはしまいと、何があってもこころのうちで我慢する事を覚えた。 それは至極当然のように、兵太夫のこころを閉塞させてしまう。 「縛られてた」 三治郎は、兵太夫の胸元を指差す。 こころが、ということなのだろう。 「だけど、僕のまえだったら、いくらでも泣いていいから・・・」 「・・・ん、」 自分の感情を素直に表現できる三治郎が、羨ましかったり。 すきなものをすきと言って、きらいなものをきらいと言えるは組のみんなが、羨ましい反面、憎らしいともおもったり。 「だから、もう、ひとりで泣くようなことは・・・しないで?」 「うん。」 「迷惑とか、何も言われないほうが、ずっと迷惑」 「・・・言うね」 兵太夫はにっこり笑った。ようやく三治郎の涙も止まったらしい。 「ねぇ、我慢しないで」 「無理しないで」 わかったよ、三ちゃん。兵太夫は呟くと、握る手の力を一瞬緩め。 「・・・兵ちゃん?」 「このほうが落ち着く」 指と指を絡ませるように、再び握りなおした。 慣れない感覚に戸惑いつつも、兵太夫の指の細さに聊か驚いたりもして。 「ねぇ」 兵太夫の声のトーンは少し低くて、心地良く耳に響いた。 「僕らおとなになってもずっと一緒にいられたらいいね」 「いようよ」 三治郎は即答した。 そして、くっくと喉の奥で笑う。 「いようよ。また兵太夫が泣きたくなったら、僕のところで泣いていいからね」 「もう泣いたりしないもんね。三ちゃんこそ、寂しくなったら僕を頼りなよ。いつでも駆けつけるから」 二人は眼を合わせて、あははと笑った。 「大人になったら、かぁ・・・」 想像もつかないなぁと兵太夫が言うと、そうだね、と三治郎も同調した。 誰にも明日の事なんてわからない。 こうして二人で居る時間も、いつかは終わってしまうのかもしれない。 それはすごく寂しい事で、悲しいことで。 わかってはいるのだけれど、それを認めるようになれるには、二人はまだ幼すぎた。 話せるのは、明日の夢くらい。 「兵ちゃんの大人になった姿、見てみたいな」 「いくらでも見せてあげるよ。だからね、三ちゃん」 これからもずっと、そばにいて。 聞えないくらい小さい声で、兵太夫はささやいた。 「なぁに、兵ちゃん」 「・・・なんでも」 彼には聞えなかったようだが、それでいいとおもった。 日暮れが近づいてきても、二人は動こうとしなかった。 眠たげに眼をこする三治郎の頬にそっと触れ、確かにそこにいることを確認する。 次第に暗くなっていく部屋のなかから、ふたつの寝息が、小さく聞えてくるまで、それほどの時間はいらなかった。 [ end ] Peace to cross a rainbow came. (虹を渡る平和がきた) / Chara |