もあもあと立ち上る湯気が顔を撫でた。 息を吸い込むと、湿った空気が肺に入ってくる。微かに香る木のにおいは、実習で疲れたこころを落ち着かせる。我ながら爺くさいとはおもうけれど、事実なのだから仕方ない。それくらい、日日の実習は身に堪えるものだった。 「はぁー」 なんだか躰中が痛むのは、きっと団蔵とやりあったせいだ。なぜかは知らないがこのところ、校外実習で団蔵と衝突することが多くなった。もともと仲がいいと言うわけではないが、頻繁に喧嘩をするほどでもなく、ただの級友として付き合っていたつもりだった。しかしどうだろう。最近めっきり折り合いがつかなくなってしまったのは。 「お互い様だってみんなは言うけど」 兵太夫はひとりごとを呟いて、頭をぶんと振った。長い髪の毛が垂れて、背中にかかった。 「・・・絶ッ対にわたしは悪くないからな」 負けなんて、認めてやるものか。特に、団蔵には。 どっちが悪いなんて考えたくもない。どっちも悪いなら、なおさら納得のいかない。引き分けというのが死ぬほど嫌いな兵太夫は、今日の実習での団蔵との言い合いをは組の連中に成敗されたのを、快く思っていなかった。 「むかつくなぁ!」 乱暴に桶に湯をはり、思いっきり躰にかける。まだ温度の残った湯は、聊か刺激が強すぎたと見て、思わず声をあげてしまうほど、熱かった。 「・・・兵ちゃん?」 湯船に身を沈めていると、聞き覚えのある声が自分を呼んだ。 「さ、三治?!」 ガラガラと音を立てて、戸が開けられる。瞬間的に風が入ってきて、湯気が飛んだ。その先に、三治郎がひょっこり姿を現した。 「あ、やっぱり兵ちゃんだった」 「いまから入るの?」 微笑を浮かべて、三治郎は頷く。 「脱衣所に制服があったから誰かとおもったら。わたしもいい?」 「ど、どーぞ・・・」 にわかに高鳴ってしまう心臓に罪悪感を感じ。 何事もないような様子で三治郎は浴室へ足を入れる。 「そういや三治、後片付けだったよね」 「うん。おかげで夕食も遅れちゃった」 今日の実習の片付けは、三治郎と伊助だった。普段ならばこういうとき、兵太夫も待っているものなのだが、件の団蔵との喧嘩のせいで、そこまで気が働かなかったのだ。 「で、なんで兵ちゃんはいまごろ風呂に?」 「あー・・・団蔵と、ね・・・」 風呂の縁に載せた腕に顎を置いた状態で、兵太夫は苦笑した。 「また喧嘩?懲りないねぇ二人とも」 「だってさ、聞いてよ三ちゃん。あいつやっぱり脳みそガキだよ!」 浴室は少しの音でも反響して、声は大音声になって響いた。 耳をおさえる素振りをして、三治郎は激情してきた兵太夫を落ち着かせる。 「ほんっとうにバカなんだから団蔵は!わたしがどんだけ気遣ってあいつ抑えてるかわかる?」 「はいはい、わかったわかった」 三治郎は苦笑しながらそれに答えた。濡れた髪が頬に張り付いている。 「まぁ団蔵の言い分もわかるけどね」 「・・・」 あいつ鉄砲玉だし、と笑う。兵太夫は三治郎の様子を、顔を湯船に浸けたまま眺めていた。前髪を鬱陶しげに払いながら、躰を手拭でこする。三治郎の手が動くたびにぽたぽたと滴る雫が、とてもきれいだとおもった。じっとしていると自然と怒りはおさまってきて、兵太夫は大きく息を噴出す。水面があわ立ち、雫が飛んだ。 「兵ちゃん、子供みたいだよ」 「うるさいなー・・・」 あーっと嘆くように、天井を仰いだ。濃い湯気が、浴室を包む。当然のことだが、熱い。 「・・・そーいや三ちゃんと風呂って久しぶりだよね」 「そだっけ?覚えてないや」 そういえばそうであった。 今更のように思い返すが、ここのところは実習やらなにやらが重なって、誰かとゆっくり風呂、というわけにもいかなくなったのだ。こうして長風呂ができるのも、大概消灯まえの僅かな刻だけ。同級生の者とともに入るのは、ほぼ偶然に近い。 「なんか懐かしいなー、一年のころはしょっちゅう一緒に入ってたよね」 「二人で潜りっこしたっけ」 もう4年も昔のことを思い出し、顔を見合わせて笑った。 温くなってしまった湯を足し、三治郎が湯船に浸かる。ざぱ、と音がして、少しだけ湯が溢れ出た。 (三ちゃんって細いなぁ) 思わず見とれてしまう二の腕。そしてすぐにそれを見止めた途端、兵太夫の眼は見開かれた。 「・・・なに、これ」 「え?」 驚愕したように指し示す先には、三治郎の白く細い腕がある。そして反射的にそれを掴まれてしまった。 「へ、兵ちゃん?」 「どうしたんだよ、この疵」 真一文字に裂かれた疵。瘡蓋になりかけているが、その疵の深さは素人目にもわかる。いままでは三治郎の躰の死角になっており気付かなかった。 「これ・・・いつだったかの実習でドジってさ」 「ドジったって・・・」 何事もなさそうな表情で言う三治郎に、兵太夫は呆れてため息をつく。 よく見ると、疵はそこだけではなかった。 腕や肩口には勿論のこと、薄い胸板にも切り傷や痣がたくさん刻まれていた。 「金吾のせいだな?」 「・・・さーぁ?」 おどけて答える三治郎に、俄かに苛立つ。いつぞやも金吾の刀が三治郎の制服を切り裂いたことがあった。あのときはは組や、先生たちもともにいたから、大事には至らなかったのだが。 「三治」 掌で握れるほどに、細い腕。余計な肉のないそれは、力を込めても容易には折れそうにもなく。しかしながら、華奢なことには変わりなく。何となく儚げで、兵太夫は腕をつかんだまま沈黙してしまった。 「・・・どしたのさ」 すっかり身を湯に沈めながら、三治郎は問うた。その顔には、穏やかな微笑を湛えている。 「どうしてそんなに怪我ばっかするんだよ」 「えー?わたしがとろいからでしょ」 単純に。 三治郎は笑って言ったが、兵太夫は納得できなかった。 4年という長い付き合いになる。5年生になり、実習が増えるにつれて、は組の実力は眼に見えて上達していった。それはもちろん兵太夫も、三治郎も。中でも三治郎は、その細い体躯を利用して林の中を自由自在に駆け回り、魁として名を馳せていた。とろい、ということは、決してないのに。 「兵ちゃん」 いつの間にか兵太夫の指が、三治郎のそれに絡まっていた。どちらかといえば兵太夫のほうが三治郎より指は細い。幼い頃から山を駆け回ってきた三治郎は、見た目とは裏腹に少し皮の厚い、しっかりとした骨格を持っていた。 「わ、ちょっ、と」 不意をつかれた。グイと躰が抱き寄せられる。狼狽し、頬を赤くする三治郎にはお構い無しで、兵太夫はその耳元に口を寄せる。 「あんま、疵作んないでくれる?」 「・・・兵太」 ばーか、言って三治郎は噴出した。 兵太夫の予想通りの反応。 この学園に居て、躰に疵を作るな、とは、土台無理な話だ。 「・・・冗談」 兵太夫も笑ってやりすごそうとしたが、心のおくがチク、と痛んだ。 嘘吐いてることも明白で。だけど、真実を願うこともできない。 「これからもいっぱいいっぱい疵作るよ」 「・・・そーだね」 笑う三治郎に、少しだけ寂しさを感じた。 頬やら額やらにも残る疵跡。さりげなくそれを撫ぜると、意外にも三治郎は抵抗しなかった。湿った頬は柔らかく、指でつけばプニ、と沈む。 「・・・莫迦にしてる?」 「してないよ」 言いながらも、子供のような三治郎の眼に、思わずクスクス笑いをしてしまった。 「・・・やっぱ莫迦にしてる」 「ふふ、だって三ちゃん、」 可愛いんだもん、と、言おうとして、言葉をやめた。 一瞬、触れた深い傷跡があった。爪を立てぬよう留意しながら、そこを軽く掻いてみる。コリ、と音を立てて表皮がささくれ立った。 「痛い」 「・・・ご、ごめん、」 三治郎の鋭い声が浴室に響く。びっくりして、頬から手を離した。 三治郎は先刻兵太夫に引っかかれた箇所を掌で押さえている。 それほど痛かったのか、と兵太夫は後悔した。 「ごめん、三ちゃん。大丈夫?」 「・・・ん、」 目元だけで笑みを作った。掌は頬にあてたまま。 「ここねー・・・前の実習でやっちゃってさ・・・」 そんで、それから。 未だに時々、痛むのだと言う。 三治郎は自分の知らないところで、たくさんの疵を負っていたのだ。 何処で誰と切り結んだのかなぞ、兵太夫が逐一知る由もなく。 ただ三治郎は、普段健康的に笑っているから、すっかり安心しているだけで。 「大丈夫なのか?」 「平気。もう、慣れた」 ふ、と笑う。以前よりもやや引きつった感じの笑顔だが、三治郎の笑顔には変わりない。 もう一度頬に触れようとしたら、身を引かれた。 にっこり笑んで、兵太夫の頬に口付ける。 「なに」 「兵ちゃんは疵、作んないでよね」 「は?」 こんなきれいなんだから、と言って、三治郎は照れ隠しなのか、背中を向けてしまった。 「ちょ、意味わかんない・・・」 「そのまんまの意味だってー・・・」 ざんぶと勢いよく湯船から上がると、三治郎は浴室から出て行ってしまった。 未だに疑問符を浮かべている兵太夫は、三治郎の唇が触れた箇所をもう一度触れてみた。 もう体温も感じない片頬は、湿った空気のせいで少しだけ、冷えていた。 [ end ] [ 2007/02/28 ] |