兵太夫は強い人間だった。 手こそは出さなくとも、口喧嘩なら呆れるほどやったし、それで負けてしまうのは、いつも僕のほうだった。 何が悪いのかわからない。だけれど、兵太夫にはどうしても適わなかった。 腕力や、頭のよさは、すべて僕より彼の方が勝っていた。 納得できなかったわけでもないし、それはごく自然で、当たり前のことのようにおもえた。 あの日が来るまでは。 「三治郎、ちょっと」 授業が終わり、みなと一緒に食堂へ行こうとした僕を、土井先生が呼び止めた。普段あまりないことだから、僕はすこしびっくりした。だけど、廊下で怪訝そうな顔をしている金吾たちに先に行っててと目配せして、すぐに教室へ戻っていった。 「聞きたいことがあるんだ」 土井先生の真剣そうな表情に、心臓がどきどきした。 どうしたんだろう?僕、なにかしてしまっただろうか。 「なんですか?」 不安げに眼をやると、はたと土井先生は笑顔をつくり、 「いや、三治郎のことじゃない」 「?」 「兵太夫のことなんだが」 兵太夫・・・と僕は呟いた。ここのところ、兵太夫は体調を崩したと言って医務室に入り浸るようになった。夜眠る時は忍たま長屋の僕たちの部屋へ戻るが、それ以外は(もちろん授業も)医務室の布団で一日を過ごしている。 「最近、何か変わったことでもあったのか?」 土井先生は僕と兵太夫が仲の良いことを知っていて、そんなことを聞くのだろう。 だけど、いくら仲のよいからと言って、兵太夫のこころまで網羅できるはずがなかった。 「あまり授業に出なくなっただろう?どこか具合でもわるいのか」 「わかりません。僕も、ずっとおかしいなぁっておもってるんです」 正直にそれだけは言った。 最近は口数も減ってしまって、兵太夫から話しかけるということもなくなっていたのだった。 まぁ、普段から兵太夫は、一度いじけるとなかなか機嫌を直さない質だったから、またその癖が出たのかもしれないと勝手に想像していた。 「そうか・・・わかった。それじゃあなにかわかったら教えてくれ。呼び止めてわるかったな」 「わかりました」 僕はぺこ、と頭を下げると、教室をあとにした。 そういえば今朝、凄く苦しそうな顔をしていたな、と、兵太夫のことを思い出す。 いつもは遅い兵太夫が、今朝は何故か僕より早く起きていた。 「おはよう」って声をかけると、まるでそのとき初めて僕の存在を気付いたように、兵太夫はぎょっとしてこちらを見ていた。 「どうしたの、その顔」 おはようと言った兵太夫の顔があまりにも暗くて、僕は驚いてしまった。 「顔って?」 「なんだか、すごく、苦しそう。・・・具合でもわるいの?」 傍に寄ってよく見てみる。きれいな兵太夫の顔は、なにかに怯えているような、そんな表情をしていた。 「うん・・・」 「新野先生に看てもらおう?病気だったら大変だ」 気丈な兵太夫が病気だとおもうと、僕までがハラハラしてしまって、そんな僕の様子を見て、ようやく兵太夫は微笑を浮かべた。 「大丈夫だよ。ごめん、」 放っといてくれ、とでも言いたげな表情を作り、また布団に潜ってしまった。 「兵太夫?大丈夫?」 「平気。三治郎、先に行っててよ」 「ごはんは?食べなくていいの?」 うん、というくぐもった声が布団の中から聞えた。こうなってしまうともう兵太夫は出てこない。じゃあ行ってるね。なにかあったらゆってね、と僕は言うと、顔を洗うために部屋を出た。 同じような会話が、ここ4日ほど続いていた。 何が起こったのか、僕にはわからない。 もしかして僕に対して不満でもあるのか、と、おもっては不安にもなったが、それを言うと兵太夫は「そんなことは絶対にない」と激しく否定するのだった。 「どうしたの?」 食堂につくと、金吾と喜三太が僕の分のランチを取って待っていてくれた。 「何か怒られたの?」 にやりとイタズラっぽく笑う金吾に向かい合う形に、僕は座った。 「ううん、兵太夫のことでちょっと聞かれたんだ」 「ああ、そういや最近見てないな」 「三治郎は同室だから、なにか知ってるとおもったんだね」 喜三太はアジの開きをつつきながら、言う。 「三治郎、なにか知らない?」 ふと庄左ヱ門が話しかけてきて、僕は振り返った。いつの間にか、僕たちの会話には組の全員が耳を傾けていた。 「どうせまたいじけたんだろ?」 「そっそんなことないとおもうけど・・・」 金吾は数日前、兵太夫の仕掛けた罠にはまって、それ以来兵太夫とは無言の喧嘩を続けていた。だから、いまのように兵太夫が授業に出なくても、さして気には留めていないようだった。 庄左ヱ門は心配そうな表情を作っている。 「いじけただけで、こんなに毎日休むかな・・・」 「さぁね。あいつならありえそうだけど」 「金吾・・・」 僕は開きかけた口を、閉じた。うまく言葉には出来なかったけれど、なんとなく、金吾の言い方に腹が立った。 「なんか気に入らない事があるのなら、そう言えばいいのに」 「そうそう。三治郎にはなんだって言うくせにな」 な?ときり丸に話を振られ、僕はどぎまぎしつつも頷いた。・・・だけど、すぐにそれを後悔した。なんだって言うとみんなはおもっているようだけど、実際のところ、僕は兵太夫の何も知らなかった。 カラクリがすきなこと、父上が武士であること、それくらいしか、僕の中の兵太夫は姿を見せていなかった。 それに、僕のことも兵太夫はよく知らない。僕たちはまだ、何でも知り合うほど、話をしてはいないのだ。 だのに「なんでも言う」ということを肯定してしまった。僕は兵太夫の何を知っているだろう? こうやって急に授業に出なくなった理由も、それを感じさせる兆しも、僕は察知できなかった。こんなに傍に居て、いつも一緒に過ごしていたのに。どんなに近くに兵太夫を感じていても、結局、僕たちはお互いのなにひとつとして共有出来てなかったのだ。 「なにか兵太夫が言っていたら教えてくれよ、三治郎」 「わ、わかった」 「庄ちゃん、どんなときでも冷静ねー」 お決まりのきり丸の台詞に、みんなが笑った。僕も笑おうとしたけど、途中で顔が引きつって、笑えなかった。 午後の授業が終わったとき。 僕はみんなが夕食を摂りに食堂へ向かうのとは反対の方向、兵太夫が寝ているであろう医務室へ足を運んだ。今日はほぼ丸一日、兵太夫の顔を見ていない。今朝見たあの辛そうな表情の兵太夫を、放っておくことはできなかった。 そっと医務室の戸を開ける。薄暗い部屋の真ん中に、白い布団が敷かれていて、僅かにそれは盛り上がっていた。枕のところから、兵太夫の茶色い髪の毛が見えている。 僕は黙って戸を閉め、布団の傍に座った。 あまりに気配がないのでヒヤリとしたが、布団は上下しているから、息はしているらしい。 (疲れているのかな・・・) 新野先生は、いないようだ。いまはそれがいいとおもった。 少しのあいだでも、兵太夫を独り占めしたい。 (最近しゃべんなくなったね) 最後に笑い合ったのは、いつだったか。夏休みが終わって、新学期が始まって。 ひとりでなにかしているとおもったら、カラクリの設計をしていて。それに金吾がひっかかって。気付いたら二人はまた喧嘩してて。 だけど、それだけだった。 金吾と兵太夫の喧嘩なんて、日常茶飯事。僕も級友達も気にしなかったけど、ただ。 (僕にもその愚痴は言わなかったよね) 愚痴ばかりぼやいていた兵太夫が、このところめっきり口を開かなくなって。 どうしたのかな、とはおもったが、それを尋ねる事もできずに。 (どうしたの、兵ちゃん) おかしい。珍しい。 こうおもってしまうのはもしかしたら非道く失礼なのかもしれないけど。 (なにか厭なことでもあったのかなぁ) 目の前で眠っている兵太夫をわざわざ起す気にもなれなくて。 よかった、生きてる、という妙な安心をして、僕はそっとため息をついた。 「・・・う」 なにか誰かのうめき声を聞いて、僕ははっと我に返った。・・・と同時に、自分がいまのいままで、うとうとと居眠りをしていたことにも気がついた。 ・・・なんだろう、いまの。 「・・・・・・う、く・・・」 また、聞えた。 それは嗚咽のようだった。 「・・・兵ちゃん?」 兵太夫が泣いている。 「・・・ふ・・・うっ・・・」 兵太夫が、泣いている。・・・どうして? ようやく思考が覚醒した途端に、僕はばっと兵太夫の布団を上から覗き込んでいた。 「兵ちゃん!どうしたの?!」 「・・・っ・・・ゃだぁ・・・っ」 兵太夫は泣いていた。枕に顔を埋め、なにかに縋るように敷布団をつかみ。 ぐちゃぐちゃにされた布団を省みる事もなく、ぼろぼろと涙を流していた。 「どうしたの?なんで泣いてるの?」 「っ・・・ふぅ・・・・・・」 一向に顔をあげようとしない兵太夫を、僕は狼狽しながら抱き上げていた。見た目よりも細い肩に、すこし驚いてしまう。ようやっと僕の存在に気付いたような兵太夫は、僕以上に驚いた顔をして、だけど、やはり涙は零れ落ちてきて。 「さ・・・っさんじろ・・・なんでここにいんの・・・・・・?」 泣いている姿を見られたのが恥ずかしかったのか、兵太夫は僕から逃れようと身をもがかせた。しかし力が入らないと見えて、僕が少しばかり強く肩をつかみ続けると、観念したようにおとなしくなった。 「兵ちゃんが心配で見に来たの。・・・どうして、泣いてるの・・・?」 「・・・・・・う・・・」 兵太夫は俯く。長い睫に、涙の雫が乗っかって、きらきらときれいだ。 「ねぇ」 口を開こうとしない兵太夫に、僕は苛立った。 「兵ちゃん、なんで」 どうしてそんなに苦しそうな顔してるの。 どうしてひとりぼっちで泣いてるの。 いままでだって、僕が兵太夫の泣き顔を見たことはなかった。 いっつも気丈で、強情っぱりで。 だから、大泣きに泣いている兵太夫に、ちょっと困ってもいた。 なんと言葉をかけたら、兵太夫は満たされるのだろうか。 「ねぇってば」 なんか言ってくれないと、すごく困るんだ。 僕は自分の頭の悪さを呪った。もし、庄左ヱ門だったら、きっと、うまい言葉をかけてやれるんだろうな。 そうおもうと、悔しかった。 「ごめん、」 「?」 なんで謝るの? 「こんなところ見せて・・・ごめんね」 兵太夫は震える唇で、そう言った。 「誰もいないとおもったから・・・三治郎、いるって全然わかんなくてっ・・・」 「・・・」 兵太夫の眼にまた涙が溢れた。ツーッと、白い頬に流れていく涙の筋。 僕はどうしようもなくなって、兵太夫の肩をつかんでいた手を離し、その筋をふいてあげた。 それでも兵太夫は泣き止まない。むしろ、僕のせいでよけいに涙がこぼれたようだった。 「どうしてあげたらいいの・・・?」 なんで泣いているのかもわからない。 僕の力で、泣き止ますこともできない。 「どうしてあげたら、兵ちゃんは好いかな」 「・・・・・・」 お手上げだとおもった。 僕だと、尚更兵太夫は泣いてしまう気がした。 なんだか僕まで悲しくなって、言葉を紡げなくなって。 「・・・・・・あの、さ」 兵太夫が静かに口を開いたとき、そっと眼を上げるしかできなくて。 「三治郎」 「・・・なぁに」 もう兵太夫の涙は見たくないとおもって、その顔を直視することはできなかった。 「三治郎は、僕が生まれてきて、よかったとおもう・・・?」 なんのことか、最初わからなかった。 「え?」 ポカン、と口を開けてもう一度問う。おもわず、兵太夫を真正面から臨んでしまった。 「だから」 兵太夫はもう泣いていなかった。 だけど、まだやはり苦しそうに息を詰めたまま。 「僕が生きてても、三治郎はいいとおもってる?」 そんなこと。 いまさら言わなくたっていいじゃないか。 「僕は、死んだほうがいいのかな」 「な、」 その言葉の意味がようやく通じた瞬間、僕のなかで熱いものがこみ上げた。 それは突然爆発し、僕の口をついて出た。 「なんでそんなこと聞くの?!」 わん、と部屋の中に僕の声が響く。自分でも驚くほど、大きな声が出た。 「兵ちゃん、それ、ほんとにおもってるの?」 怯えた目付きの兵太夫。自分の剣幕なんて、省みている余裕などない。 ただ怒りだけがあった。 全身を使って、否定したかった。 「どうしてそんなこと、」 「三治郎は僕のことなにも知らないんだ」 「・・・」 兵太夫は眼を上げて、僕をとらえる。 赤く腫れあがった眼だ。 「言ったよね、僕の父上はお侍だって」 「うん」 初めて逢ったときから、それは知っていた。 「すっごく強いお侍だって。お城の主にも信頼されていて、誇りのある、立派な武士」 「知ってる」 父上について話すとき、兵太夫はいつだって寂しげな眼を作った。 そしてそれはいまも。 「兄上も、名前を継いだら、きっと父上のようになるんだ」 兵太夫は末っ子だと聞いた。上に居る兄上が家督を継げば、自分は用無しになる。そう、いつだったか兵太夫は言っていた。 「・・・夏休みにね、家に帰ったとき、僕は十のお祝いをされるはずだった。すごく楽しみにしてた。」 「・・・」 兵太夫は8月に生まれた。十のお祝いをされるのは、武家の決まりと聞いたことがあった。 「だけどね、父上は僕よりも兄上のほうが大事だった。兄上の元服の祝を開いて、僕はまた用無しになっちゃった。莫迦だとおもったよ。そんなの、最初からわかってたのに・・・」 「兵ちゃん」 兵太夫は涙を流す代わりに、笑っていた。 痛々しいくらいの、笑顔。 「やっぱり僕は要らなかったんだよね。知ってて期待して、ほんと、ばっかみたい」 「そんな・・・」 そんなこと言わないでよ。そんな悲しいこと、言っちゃだめだ。 いらないなんて、そんなの。 「そんなの、誰が決めたの」 「え・・・?」 僕の強い調子に、兵太夫は驚いて顔をあげた。 「兵太夫が要らないなんて、誰がゆったの。そんな、」 震えたのは喉だけじゃなかった。躰全体が、病気のときみたく、ふるふると揺れている。 それが怒りと悲しみによるものであることを、僕はしらない。 「そんな莫迦なこと、どうして兵太夫が言われなくちゃだめなの?」 「三ちゃん・・・」 ふざけるな、ふざけるな。そんな、要らないなんて。兵太夫が要らないなんて。 そんなの、そんな悲しいおもいをするのは、僕だけでいい。 「さ、三ちゃん?!」 突然抱きついた僕に、兵太夫は珍しく狼狽した。僕も自分の行動がよくわからなくて。だけど、なんだか、抱きしめたくなった。 いま目の前に居るこのひとを、力いっぱい抱きたくなった。 こんなに形があるんだぞ、そう、いっぱいいっぱい主張したくなった。 「僕が必要としてあげる」 「・・・は・・・?」 「僕には兵ちゃんが必要なんだから、そんな悲しいこと、勝手に言わないでよ・・・!!」 これ以上は無理ってくらい、腕に力を込めた。きっと僕がどれだけ抱きしめても、兵太夫には堪えないだろうけど。そのくらい、僕の力は弱い。 だけど、いま力を緩めれば、彼はきっと消えてしまう。 涙で濡れた寝巻きがきもちわるいと兵太夫が呟くのも無視して、ぎゅうっと抱きしめ続けた。 「三治郎・・・苦しいんだけど」 「僕は苦しくないもん」 「あのねぇ・・・」 兵太夫がふざけて僕をぎゅうってするとき、僕は恥ずかしいやら息苦しいやらで、しょっちゅう逃げ惑っていた。だけど兵太夫は何度も何度も抱きしめようとした。どうしてそんなにぎゅうってするのが楽しいのって僕が聞いても、兵太夫は何も言わなかった。 だけど、いまの僕には、わかる。 抱きしめると、非道く安心する。 ああ、ちゃんとここに存在しているんだな、とおもえる。 相手のことも、自分のことも。 「・・・三治郎は迷惑じゃないの?」 「なにが」 「僕の、存在」 莫迦。って、言おうとしたけれど、それよりもまず腕に力が入った。 「そんなわけないじゃん。」 こんなに嬉しい事はないのに。 兵太夫に出会えて、僕は、とても、しあわせ。 「兵太夫」 兵太夫の心臓の鼓動が聞える。あたたかさも、きちんと感じる。 「生まれてきてくれてありがとう」 兵太夫は噴出して、そして、僕の背中に手を回すと、その場に前倒れになった。 「・・・っ?!」 「三治郎」 僕の顔を覗きこんで、笑ってる。まだ涙の筋は残っているけれど、兵太夫は、またいつもと同じように微笑んでいた。 「僕もきみが生まれてきてくれてうれしい」 すっごくすっごくしあわせだよ。 兵太夫はそう言うと、すぐにまた顔を離して。 仰向けに転がる僕の隣に、どっさと横になった。 「あーあ、なんか言いたいこと言ったら疲れちゃった」 暢気そうな兵太夫の声。僕は安心して、横目で兵太夫の顔を見た。 「ねえ、授業に出なかったのは、それを気にしてたから?」 兵太夫はなにも言わない。 だけど、僕にはわかる。 きっとその日から、彼はここで、ひとりで泣いていたんだ。 強情で、意地っ張りで、弱いところを絶対に見せないひとだから。 「莫迦みたい」 「なんだとー?!」 不意に兵太夫の手が伸びて、僕の頬っぺたをつねりだした。 「あだだだだっ!!なにするんだよぉ!」 言いながらも、僕は自然と笑えていた。痛い。痛いけど、痛みを感じられる。 生きてるって、そういうことだから。 「莫迦三治郎!参ったか!」 「う〜、もう折角心配してあげてたのにー!」 悔しくて、痛くて、でも。 兵太夫が笑っていられるのなら、それも悪くないかもしれない。 兵太夫、生まれてきてくれてありがとう。 君はどこのだれよりも、ずっと強くて、まっすぐなひと。 僕の一番大切な、そんなひと。 [ end ] [ 2007/02/04 ] |