生暖かい風が肌を撫でた。遠くの方で鳥たちが一斉に群れをなして飛んでいくのが見えた。ああ、家路につこうとしているのだな、と、誰に語るわけでもなく、ひとりおもう。 たしかこのあたりだったな、ひとりごちて、兵太夫は足を止めた。 四方八方を、高く育った木が覆っている。林の中には、何の物音もしない。先刻までカラスが親子で鳴いていたが、それも何処か遠くに行ってしまった。いま、ここにいるのは彼ひとり。 (もうすこしだけ時間が戻れば) ひとりではなかった、とおもう。 かつてとなりにいたはずの彼のことを思い出し、ふと眼を横に向けても、なにもないというのはくつがえせない事実だった。 彼とはあの日、ここで別れた。 丁度いまとおなじ時間帯。遠い遠い空を見上げて、彼は相変わらず笑っていた。 (ここでさよならだね、兵太) それはもう、屈託のない笑顔だった。 さよなら、というその言葉すら、彼にはなんの意味もないものだったのかもしれない。 そんなはずはない。否定してみるが、いまそれを彼に問うことはできない。 消えてしまった彼を探し当てる術を、兵太夫は知らない。 足を踏み出せば、すぐ下の土がへこんだ。雨の混じった林のなかは、心地良い爽やかなにおいがした。 それも彼とおなじだった。 彼は山育ちだと自分で言っていたとおり、本当に山のような、森のような、そんなにおいがした。 緑を躰いっぱいにあびて、健やかに育った彼に、なんの迷いも感じられなかった。 誰かが怪我をしたときも、初めてひとを殺したときも、将来を決めた時も、あの日ここでさよならをしたときも、彼の顔に苦しみはなかった。ただ、実習で疵を負った頬は完治していなくて、笑いを作るのは、やはり大変そうだった。 少しずつ沈んでいく太陽の光は、やわらかく兵太夫を包んだ。 撫でるように、ささやくように、それはまるで、あの日の彼のような太陽だった。 (ねえ兵太) 別れるまえ、彼は言った。 (もうお互いのこと、気にしないようにしよう) その言葉に、兵太夫はなにも答えられなかった。 口をぽかんと開けて、目の前で微笑む彼に、心底呆れた。 (なにバカなこと言ってるんだよ、そんなの無理に決まってるじゃないか) 確かにあのとき、兵太夫はそう言った。必死で怒りを抑えていた。もうすこし脳みそが子供のままだったら、きっと彼につかみかかっていた。 気にしないなんて、できっこない。そんな悲しいこと、おもいたくない。 あのとき、兵太夫は彼が別れを告げることに気付かなかった。 ずっとこれからさきも、一緒に居られるとおもっていた。 だからなおさら、彼の言葉に腹が立った。 (気にしないって、どうして) うーん、と彼は少し考えて、また笑った。 (もしわたしが死んだら、兵太は悲しい?) 今度こそ怒鳴りそうになった。しかしそれも何とか堪え、冷静に彼と向かい合った。 (悲しいに、きまってる) そう言うと彼は、やっぱり、と頷いた。 (だから) 彼の声が明るく響く。トーンの低い、とても心地良い声。 重みもあって、だけど、ひとを圧迫しない。 繊細で、壊れそうで、陽だまりのような、そんな声。 (わたしは、兵太にそんな思いさせたくない) わからない。どうして、そんなことを言うのか。 (もし兵太のこころのなかにわたしがずっと残っていたら、きっと兵太はわたしが死んだとき悲しいでしょ。泣いちゃうかもしれないよね) そんなの知らない。だけど、黙っていた。 泣かない、なんて言ったらきっと、嘘になる。 (そうしたら兵太がかわいそうだ) (だから、お願いだから。) 彼は始終微笑んでいた。いつものように、すべてを包むような、優しい微笑のまま。 (わたしのことは、忘れて) 視界が開けた。 ぱっと眼に飛び込んできたのは、すっかり夕暮れの迫った広い空だった。 この空の何処を探しても、彼はいない。 もう、わたしの知らない遠くへ行ってしまった。 足元に視線を落とすと、村落が広がっていた。盆地に位置しているその村の畑では、頬かむりをした女性たちが小さい子供たち相手になにやら話しをしていた。ときどき笑い声があがっては、兵太夫の立っている場所までそれは聞えた。 兵太夫は傍にあった巨木の幹に手をかけると、眼を細めて、空を見た。 雲がたなびいて、次第に夜が世界を飲み込んでしまう。 そのまえに、この情景を眼に焼き付けておきたかった。 去っていく彼の背中を、どこまでも追いかけていたあの日のように、 本当に未練がましく、この空の色をこころに留めておきたかった。 いつまでもぐずぐずしているのを、彼は嫌っていた。 だから彼が旅立つことを知ったときも、引き止められなかった。 ほんとうはずっと傍に居てほしかった。 だけどそれじゃだめだ。 彼はそう言って、自分のもとから去っていった。 (ごめん、三治) 兵太夫はこころのなかでそっと呟いた。 (おまえはぐずってるの嫌がってたけど、やっぱりわたしは、止まってしまうから) ことあるごとに思い出す、彼の屈託のない笑顔。 一瞬瞼に蘇る、かつての彼。 (忘れるなんて、できなかった) 彼とした最後の約束は、結局護れなかった。 しかし、彼が死んだとき、きっと自分は泣かないおもった。 (それしかわたしには、できないから) やがて陽が沈んでも、兵太夫はそこを離れなかった。 ムラサキの雲が延々と伸びていく空は、どこまでも広く、遠く、澄んでいた。 [ end ] [ 2007/02/03 ] |