薄暗い木々に囲まれて、奥へ奥へと連れて行かれる。鼻先を掠める自然の匂いは、焦がれていた故郷の森を彷彿させるものだった。兵太夫に右腕は掴まれたままだったが、早鐘を打っていた心臓も次第に落ち着きを取り戻していく。木漏れ日がまぶしい。青い空が、枝の合間を縫って見えた。 ふと、視界が開けた。 「ぼくのお城だよ」 「・・・う、わぁ・・・」 広がった光景に、思わず感嘆の声が洩れた。そこは丁度木々が生い茂っていない空間で、邪魔な草木はきれいに一掃されていた。小槌や釘や材木などがそこここに置かれ、すぐに作業に入れそうな遣いやすさである。 「うぇ?!」 「あ、」 反射的に、踏み込もうとした足をずらした。ピン、と糸が張られている。これを踏んでいたらきっと頭に虫どころで済まないだろう。細く目立たない糸が用心縄代わりにされている場合、たいてい本格的な実践向けの物が落ちてくる。先日の授業で習ったばかりのことだ。 「三治郎は勘がいいねぇ」 クスクスと笑う。引っかかると踏んでいたのだ。 「なんか昔から、こういうところにくると感覚がはっきりしてくるんだよね」 「へぇ、すごいな」 本当の事だった。とりわけこういう薄暗い森の中に居ると、何故だか勘が冴える。本能的に危ないものを察知できるのだった。 兵太夫はひょいひょいと罠を避けていく三治郎をちらりと覗き見た。 「新しい罠ってどれ?」 明るい声が出た。兵太夫はくるりとこちらを向いて、 「そんなのないよ」 「・・・え?」 いじわるな笑顔を浮かべた。 「残念。引っかかるとおもってたのに」 「ええ?」 頓狂な声を上げる。 「てゆーか三治郎もほんとひとがいいよね。ぼくが自分のカラクリを、誰かと一緒に楽しむわけないじゃん」 「・・・はい?」 兵太夫はどっかと切り株に腰を下ろした。そこがどうやら彼の特等席らしい。 「見せてあげるなんて嘘。ほんとうは、その糸を踏んで爆竹ならして丸太おっこってくる仕掛けにしてたの」 「・・・」 足元を示される。さきほど三治郎が避けた糸がある。張り巡らされたそれは、よく眼を凝らすとあちこちの枝につなげれて、一部に集約されているようだった。 「あーあ、カモ第一号くんなら引っかかるとおもってたんだけど・・・」 盛大なため息を、ついた。 「まさか三治郎がこんなに鋭いとはね」 「・・・・・・」 それは莫迦にしているのだろうか。問い詰めようとしたが、また教室のときのように睨まれるのが怖くて、三治郎は黙っている事にした。 兵太夫が手持ち無沙汰にカラクリの未完成品を掲げては、組み立てを始めた。何も話そうとしない兵太夫に居心地の悪さを覚えながらも、今更帰ることもはばかれて、三治郎はただその様子を眺めていることしかできなかった。 「何突っ立ってんの?」 唐突に兵太夫が云った。鋭い、切れ長の眼がこちらを見ている。 「此処に座ったら?」 兵太夫の隣を指し示した。 「大丈夫。罠なんてないよ」 「う・・・うん」 注意深く足を運んで、示された場所に腰を下ろした。湿った地面の匂いが三治郎の鼻腔をくすぐる。 「兵太夫」 「うん?」 落ち着かなくなって、特に意味もなく名前を呼んだ。兵太夫はチリチリと音を立てさせながら、カラクリの螺子を締める。その細い指先に眼を奪われていると、ずいと顔が近づけられた。 「わぁ!」 「なに?ひとの顔見てそんな声あげないでよ」 「ご、ごめん・・・」 高鳴る心臓を押さえて、再び三治郎は俯いてしまった。と、兵太夫ははぁと苛立たしげに息をつき、 「あのさぁ」 足元にカラクリを置く。 「きみっていつもそうやって顔背けるよね」 「・・・え」 「初めて逢ったときだって、ぼくと目あわせてすぐに伏せた」 「あ・・・」 入学式の日のことを云っている。どうやらあのときのことは向こうも気付いていたらしい。気付いていた、と云うよりも、忘れていなかったことのほうが三治郎は驚いた。 「だってぼく・・・」 言葉が詰まる。兵太夫の顔がこちらを見ている。喉が渇いて、手に汗が吹き出てきた。ひとつ唾を飲み込んで、「だって・・・」と続ける。 「ひとと話したり・・・苦手だから・・・」 「怖いの?」 図星だった。 「怖い・・・怖いよ」 矢張りひとは、怖い。今まで何度か、いろいろな人間と出会う機会をつくっては、人嫌いを克服しようとしてきた。しかし結局はいつも失敗に終わり、三治郎はこの歳まで、ひととまとも付き合えたことがなかった。実家のある森の中、自然に囲まれて育った三治郎にとっては、それまでの穏便な生活が一番性に合っていると、此処にきておもう。 兵太夫は黙って三治郎を見つめていた。怯えた上目遣いを作ってその目を見遣ると、いつもの冷たい目元が、怪訝な感情を表現していた。 「ふぅん。そうか」 どれほど時間が経ったのか、ようやく兵太夫は口を開いた。 「別にきみのこと取って食うやつなんていないとおもうけどね」 「そっそんなことじゃないよッ」 思わず大声が出てしまった。自分のことを喋ってしまったことの恥ずかしさが、今更ながら襲ってきたのだ。 「そんなことじゃ、なくて・・・」 うまく云えない。きっと自分でもこの感情はわからない。甘えだと云われればそれでおわりになるだろうし。いやそれよりも、何故兵太夫にはこんなにも話せてしまえるのか、その気持ちも説明がつかなかった。 「兵太夫はどうしてそんなにカラクリばっかりいじってるの?」 収集がつかなくなり、三治郎は質問を返した。割とスムーズに言葉をつむげ、我ながらびっくりする。 「んん?ああ、これね」 兵太夫は再びカラクリを手に持ち、三治郎の目の前に翳して見せた。 「ぼくは小さい頃からこういうものばっか与えられて育ったんだ。気がついたときには自分でカラクリ作ってたし」 「でも兵太夫は武士の家の子でしょ?剣術とかはしなかったの?」 三治郎の質問は、何気ないものだった。しかし、その言葉を聞いた途端、兵太夫の顔が俄かに翳ったのを、三治郎は見逃さなかった。 「剣術は兄上がやってた」 呟くような一言だった。兵太夫に兄上がいらっしゃったのか、と、無邪気にも三治郎はおもった。 「へぇ、兄上か」 兵太夫の家族ってどんな感じなのかな。そんなことをおもっていると、兵太夫は動かしていた指の動きを止めずに、語り始めた。 「兄上はぼくと違ってとっても優秀でね。父上もぼくより兄上を大事に育てられたんだ。もともとぼくは躰が小さかったし、顔も女子(おなご)みたいに白いし、弱っちかったから、なんも期待はされてなかったんだけどね」 陽が翳って、二人の影はやにわに縮んだ。兵太夫の伏せられた目元から、睫が飛び出て見える。その長さと、形の良い眉毛は男にしては少々きれいすぎた。 「だからぼくは用無しだった。刀を持たせても駄目だし、仕方ないからカラクリいじりをさせられてた。おかげで今こうやって、自作のカラクリを試せているんだけど」 「・・・うん」 遠慮がちに頷く三治郎を見て、ふと笑う。その笑顔があまりにも寂しげで、はっと目を見開いた。 「笹山家に男は二人も要らなかったんだよね。でも要らないって云われるとやっぱり悲しかった。ずっと強くなろうと頑張ったけど、躰は全然太んないし。男っぽくなんないし。カラクリやってればいつかきっと、誰かがぼくを認めてくれるかなっておもってさ」 「だからみんなに罠を仕掛けたの?」 ようやく納得できた。矢張り兵太夫は、そうだったのだ。認めてもらいたかった。ただそれだけのこと。 「ぼくにはそれしか脳がないからね」 「・・・そんなことないよ!」 ばっと顔をあげて、今度はきちんと兵太夫に向き合った。突然視線が絡み合って、寧ろ兵太夫のほうがその剣幕に狼狽した。三治郎は顔を紅潮させながら、 「兵太夫は凄いよ!ひとりでこんな仕掛け考えちゃうんだもんッ」 「・・・三治郎・・・」 「ぼくだっておなじだよ。認めてもらいたく、て・・・ッ」 喉元まででかかった言葉が、嗚咽に変わってしまう。頭がぼおっとしてきて、目頭が熱くなってきて、瞬きをすればそのまま、熱いそれが零れ落ちそうだった。 「認めてもらいたかった・・・んだ・・・誰かからちゃんと必要とされるひとになって・・・」 それが解らなくて、確かじゃなくて、ただもう、怖かった。いつか自分ばかりが置いていかれてしまう。そんな途方もない不安が、今までの自分の心にあった。 「兵太夫と・・・一緒・・・」 泣きそうになりながらも、ようやく言葉を終える。押し殺していた感情が、一気に流れ出たのだった。 「三治郎」 頬に温かいものが触れ、三治郎は目を上げた。 兵太夫の指が、三治郎の頬を撫でていた。 「泣きそうだよ?」 「・・・ッ」 三治郎は唇を噛み締める。鼻の奥がツーンと痛い。何故泣きたくなるのか、その理由はよくわからないけれども。兵太夫は口元を緩ませて、優しい笑顔を作っていた。 その顔が余計に三治郎の気持ちを揺らせ、熱い液体があふれそうになるのを必死で堪えた。 「泣き虫」 「・・・泣いてなんかない」 今度は頭を撫でられた。子ども扱いされているようで、少しムッとした。 「そうかー、ぼくと同じかー」 「え?あ、えっと、別に兵太夫に似てるとかじゃなくて・・・」 同類だと思われたら、きっと不快な気持ちになるだろう。兵太夫はきっと、ぼくよりもずっと強い。 「ぼくは兵太夫と違うから・・・」 賢さとか、格好よさとか。 「なにゆってんの?同じとか違うとか、わっけわかんない」 「ごっごめ・・・、」 「ほら!」 パチン、と音がして、顔が無理矢理兵太夫に近づけられた。頬を両手で挟まれている。動く事のできないままに、瞳だけを驚愕して泳がせる。 「へっ兵太夫?!」 「そうやって謝られるとムカつくんだけど」 「ごめん・・・」 「ほらまた謝ったー!」 頬を上下左右に捏ね回された。 「ひゃ、ひゃめふぇよぉ〜」 「あっはっはっは!可愛い可愛い」 ようやく手を離されたときには、三治郎の顔は笑っていた。 「三治郎と同じって云われると、嬉しいね」 「?」 兵太夫はひとしきり笑うと、「じゃあさぁ」と意外な提案を持ちかけた。 「おんなし浮いたもの同士、仲良くしよっか」 「・・・」 笑いかけられる。どきまぎしてると兵太夫は、落ちていたゼンマイを拾い上げて無理矢理三治郎に握らせた。掌ほどの大きさのそれは、三治郎の小さい手の中に押し込められ、はみ出していた。 「あげる」 「なぁに、これ」 「カラクリ職人にとってすっごい大切なもの。これで三治郎はぼくの助手だからね!」 「ええ?!」 要らない、と云って返すわけにもいかず、三治郎は愕然として手の中の鉄の塊を眺めた。 それは持てばズシリと重く、こんなものを毎日使って兵太夫はカラクリを作っているのかとおもうと、何となく不思議な感じがした。 「ぼくたちこれでやっと友達だよね、お互いのこと話せたし」 兵太夫は幸せそうな笑顔を投げかけた。 「う、うん・・・!」 それに釣られ、三治郎も頬を緩ませる。 「ふふ、三治郎は笑ってたほうがいいね」 「そっそうかな・・・」 むに、と頬をつねられた。 「さーてと、新しいカラクリの図面見せてあげる!または組の誰か引っ掛けてやろー」 「兵太夫!」 二人の笑い声がそこに起こり、鳥たちは一斉に空へと飛んで行った。兵太夫と額をつき合わせるようにして図面を覗き込みながら、三治郎は自然と頬が緩んでいる事に気がついた。一瞬、驚いてしまったが、兵太夫と眼が合って、再び笑いあった。 笑ってる、と、心の中でそっと呟く。 もう、大丈夫。胸がドキドキしてきて、顔が紅潮する。それが喜びという感情であることを、三治郎はまだ気付かないが。 「ね、兵太夫」 休み時間が終わりに近づいた刻限。 学園に戻りかけた足を止めず、三治郎はそう話しかけた。 「は組のみんなと仲直りしようよ」 「え?別にぼく、は組なんて興味ないしいいよ」 三治郎が居てくれればね、と続ける。三治郎は頸を振って、 「興味なくても駄目だよ。ずっと兵太夫が悪者のままになっちゃうよ」 「・・・」 「兵太夫」 悪者、という言葉に反応してしまった。陰口を叩かれるのは、慣れっこだったはずだ。しかし、三治郎は本気で心配してくれている。 「・・・今更謝ったって許してくれないよ」 「そんなことない!みんなわかってくれるよ!」 自信があった。きっとは組は兵太夫を受け入れてくれる。そして、自分も。 「そうかなぁ」 「絶対大丈夫」 誇らしげに胸を張る。こんなにも晴れ晴れとした気分になったのは、入学してから初めてのことだった。いや、もしかしたら、生まれて初めてかもしれない。 「うん、わかった」 ほんと?!三治郎は顔を綻ばせた。 「謝るよ。ちゃんと」 「うんッ」 いつの間にか林が終わっていた。すっかり泥に汚れてしまった制服を眺めて、兵太夫はため息をついた。 「あーあ、また先生に怒られるな」 「ふふ、でも楽しかった」 微笑む三治郎。その様子を見、 「三治郎」 声をかける。 「ありがとうね」 顔に熱が上ったのがわかった。 そういえばさっきからずっと喋りっぱなしだ。 意外なことに、いつの間にか話すという行為が自然とできるようになっていた。 兵太夫のおかげかな。漠然とだが、おもう。 こういうとき、なんと云えば良いのだろう。答えが見つからないまま顔を紅くさせていると、兵太夫はすっと前を通り過ぎてしまう。あわてて追いかけて、肩を並べる。 「兵太夫、顔赤いよ」 「・・・三ちゃんだって」 お互いに顔を見合わせた。兵太夫は何を恥ずかしがったのか、耳元まで赤く染めている。その様子がおかしくて、三治郎は声をあげて笑った。 「わ、笑うなよッ莫迦三治!」 「なんだよー、莫迦はないだろー!」 やけになって走り出した兵太夫を、今度は追わなかった。次第に遠ざかっていく背中に笑いかけてあげながら、そっと呟いた。 「ありがとう、兵ちゃん」 誰にも聞こえないほどの小さい声。ああ、駄目だな、と心のなかで謝った。 今度ちゃんと、兵ちゃんに云ってあげなきゃ。 ヘムヘムが鐘付き台に上ったのを確認して、三治郎はあわてて教室へと戻る。 春の風が気持ちよく、三治郎の頬を撫でていった。 - おまけ - 兵太夫はその日のうちに、きちんと団蔵に謝っていた。団蔵も強情っぱりだから、すぐには折れなかったけれど、意外にも兵太夫が素直に謝ったことで、団蔵も自分の非を詫びることができた。その後暫く居心地の悪い空気が流れていたが、次第に兵太夫も自分のカラクリの一部をは組に見せるようになり、は組に兵太夫は受け入れられた。そしてカラクリに一番興味を抱いたのが何故か団蔵であった。もう二度と引っかからないぞと云う具合に、兵太夫と三治郎の部屋にやってきては、新作のカラクリに引っかかる日々だ。それでまた険悪になったりするが、三治郎はその様子を微笑ましく眺めるに留めた。二人の喧嘩は最早は組の日常茶飯事となり、最初は止めていた庄左ヱ門もやがては放置するようになった。 うららかな日差しも強くなり、学園にも夏がやってきつつある。三治郎は兵太夫から貰ったあの重いだけで何の役にもたたなそうなゼンマイを大事に持っていた。もしかしたら兵太夫は、自分があげたそのゼンマイのことなどすっかり忘れているかもしれない。しかし三治郎にとってそのことはどうでもよかった。兵太夫が忘れていようが忘れて居まいが、今自分の手にあるゼンマイは、彼と自分を繋ぎとめてくれている糸のようなものなのだから。失くさないよ、誰に聞かせるわけでもなく、三治郎はそう呟いたのだった。 [ end ] [ 2006/12/29 ] |