ざあざあと雨が降っている。雲行きが怪しくなったのは、学園を出てくる前から気付いていた。遠い空の彼方の厚い雲は、誰が見ても雨雲に相違なく。がしかし兵太夫はそれをも承知で学園を出てきた。否、寧ろ飛び出してきたという表現のほうが合っているかもしれない。文字通り、兵太夫は放課後の外出届を放り投げるようにして書くと、忍術学園の門を脇目もふらず走り抜けていった。


 雨が降ってきたのは、兵太夫がよく訪れる町に着いてからであった。俯いた頭にぽつり、ぽつりと冷たさを感じたとおもった矢先、大粒の雨が兵太夫に降り注いだ。あっという間にあたりに人影はなくなり、町には兵太夫ひとりが取り残されてしまった。
 慌てて閉まっている店の軒下にその躰を滑り込ませたが、いつまでもこうしてはいられない。定時までには学園に戻らなければならない。しかし、いまの兵太夫にとってそんなことどうでも良いことであった。そもそも、学園を飛び出してきたときは頭に血が上っていて、自分がどうやってこんなところまで来たのか、ちゃんと外出届を出したのか、今思い返しても記憶は曖昧で、だがそれで良いとおもう自分も居るのも確かで。
 すべてがどうでもよかった。このままずっと此処に居られないのなら、別の居られる場所を探せば良い。学園に戻れないのなら、戻れないでそれで構わないとすらおもっていた。実家を出てから唯一の居場所となった学園も、今では兵太夫の心を縛り付け押しとどめる、重しにしかなり得なかったのだ。

 喧嘩の発端は、ほんの些細な出来事だった。
 いつものように三治郎と仕掛けた部屋のカラクリに、団蔵が見事に引っかかってくれた。普段なら作戦成功と手を叩いていたところだが、今日は団蔵の機嫌がいまいちだったらしく、突然胸ぐらを掴まれてしまったのだ。慌てて間に入ろうとした三治郎が止めるのも無視し、団蔵は怒りを爆発させた。これはそれまでの兵太夫のカラクリに引っかかってきた者なら当然怒るべきことであり、非は兵太夫たちにあると誰の目にも明らかだった。…が、その兵太夫と団蔵の喧嘩に、金吾が参戦して事態は大きくなってしまった。金吾も団蔵と同じく兵太夫のカラクリのカモであったが、団蔵が大声で叱責しているのを聞きつけこの場を借りてとばかりに喧嘩に加わってきたのだった。
 気がついたら、兵太夫は学園を飛び出していた。
 背後から「逃げるな!」という団蔵の声が聞こえた気がしたが、ぎゅっと耳と目をつむって門を飛び出た。小松田さんが不思議そうな顔をしていたのも、三治郎が呼び止めるのも、何もかも鬱陶しくただこの場から消え去りたい、そう願って。
 雨は降り止まない。
 ざあざあ、ざあざあと兵太夫の鼓膜を刺激する。
 軒から滴り落ちる滴を眺めていると、次第に心が落ち着いてきた。先刻まで走り通しで早鐘を打っていた心臓も、徐々に元の早さに戻っていく。
 しかし次いでわき上がってきた感情に兵太夫は眩暈を覚えた。
 ―――ひとりぼっち。
 どきり、とした。
 冷たい水が、背中に這い上がってきた。
 降り止まない雨を眺めながら、ひとり、と小さく声を出してみる。驚くほど、掠れた声が出た。
 無我夢中で走ってきたせいか、ひとりという不安のせいか。…恐らく、両方だろう。
 孤独という、兵太夫の最も恐れる感情が、いま目の前に姿を現してしまった。

 一歩、足を踏み出してみる。ざあざあと止む気配を見せぬ雨は、軒という傘を無くし無防備になった兵太夫に容赦なく降り注いだ。
 切りそろえられた前髪が額にくっついて煩わしい。
 垂れてくる滴が頬を伝い、まるで涙のように兵太夫の顔を濡らす。
 兵太夫は雨の町の真ん中に突っ立ったまま、動かずにじっと前を見つめていた。
 濡れ鼠、という言葉が頭に浮かび、ふっと嘲笑を洩らす。
 級友と喧嘩をして、学園を飛び出して、雨に濡れそぼっている濡れ鼠。無力な自分のなんてバカげた姿なことか、と。
 そして次第に、そんな自分が非道く惨めで、救いようのない阿呆に思えてきた。
 どうせならこのまま、何処かに消えてしまおうか。そんな途方もない考えが不意に頭に浮かんだ。きっと学園では、団蔵や金吾が居なくなった自分の悪口を言っているだろう。ならもう学園に戻りたくもない。否、戻れない。唯一の居場所であった学園を、自分はバカな喧嘩を理由に捨てるのだ。
「ばーか」
 呟きは雨に吸い込まれ、地に消えていく。
 そう言えば、前にもこんなことがあったなと思い出すことがあった。
 あれはとても幼い頃。父親の言いつけを守らず、家から放り出された。その日も雨が降っていて、幼い兵太夫は泣きながら家の近くの木の元に座り込み、父の怒りが収まるのを躰を震わせて待つばかりだった。
 あのときといまはまるで同じだと、兵太夫は思った。
 怒りを買ったのはあのときも今も自分。そしてその罰が当たっているのも、自分だと。
 滴が唇を伝い、口の中に入ってくる。何の味もしないただの雨が、非道く苦いと思った。


 ――不意に、雨の音の隙間から声が聞こえた。
 何だろう、と思う間もなく、
「兵ちゃん!」
 …聞き覚えのある声が、自分の名を呼んだ。
 誰よりも大切だと、愛しいと感じている、彼の声だった。
「兵ちゃん!」
「さん…じろ…?」
 ゆっくりと振り返ると、町の向こう側から、三治郎が走り寄ってくるのが見えた。右手に傘を持っているが、自身は傘など差していない。きっとあたり中を探し回り、傘を差すいとまもなかったのだろう。
「へ…っ兵ちゃん…っ やっと見つけた…っ!」
「……。」
 ばしゃっと水しぶきが飛び、三治郎が兵太夫の目の前で止まった。はぁはぁと荒い息を静めようと俯き胸を押さえている。ようやく息が整ったところで、ばっと三治郎は顔をあげた。
「もう!こんな雨に濡れて何処に行こうとしてたの?!ずっと心配して…探してたんだから…!」
「ごめ…ん、」
「もー、びしょびしょじゃない、兵ちゃん…」
 お互い様だろうと言おうとしたが、三治郎が持っていた傘を広げたことで兵太夫は口を紡ぐことになる。ばさっと勢いよく音を立て、唐傘が開いた。赤い、鮮やかな傘が2人を雨から遮断してくれた。
 兵太夫の冷えた躰に、血が通っていくのがわかった。
「三ちゃん。」
「ん?…っとちょっと、なに?!」
 気がつくと、兵太夫はあらん限りの力で三治郎を抱きしめていた。三治郎は不意をつかれ倒れそうになるが、なんとか兵太夫を抱き留める形に留まった。赤い傘が、俄に揺れた。
「…寒かった」
「……もう、当たり前でしょ」
 三治郎の肩口に顔を寄せて、そっと呟く。三治郎の呆れたような、しかし安堵したような口調に一気に躰の力が抜けた。
「っていうか三ちゃんもびっしょびしょじゃん。なんで…探しにきたのさ」
「なんでって…」
「放っておけばよかったのにさ」
 拗ねた口調で言うと、三治郎はからからと笑って、「だって」と言った。
「放っておいたら兵ちゃん、何処に行くかわかんないんだもん」
「……。」
 抱きしめていた力を、緩める。ようやく解放された三治郎は傘を持ち直すと、
「帰ろうか。団蔵も金吾も待ってる」
 いつもの微笑みで、そう言った。
「……うん」


 学園までの道すがら、止まない雨はもう大分小振りになり、2人を入れた傘は軽快に揺れていた。




降り続く雨が終わるとき




[ end ]




[ 2007/06/21 ]