アパートを出て寒空の下先輩と手を繋いで駅までの道程を歩く。とぼとぼ、と。とぼとぼ、という効果音がこれ程に似合う時間は無い気がする、それは自分だけかもしれないけれど。(現に先輩はなんやら俺にはよくわからない文学の話を熱っぽく語ってる、ので)。でもそうだとしたらだいぶと淋しい。
「日付変わりましたね」
 何とはなしにけれど毎度々々この路の上で俺は呟く。うん、と彼は言う。うんそうだね、と。舌打ちしたい気分、実際電車に乗ってしまえば彼から離れてしまえば自然に舌打ちが洩れる。チッ、と。
「先輩いつも引き留めてはくれないですよね」
 苛立ちに気づいていないのか気づいていて知らない真似をしているだけなのか(後者であれば先輩もかなりあくどい)、棘の含んだ声音に「えっ」とかゆってま抜けたツラを晒す。覚束ない街燈はその貌さえ美しくは見せてくれない。はあ、と毀れたため息が白く、白く、濁って、冷気に溶けて往く。
「ムカつきます」
 あー、正直ってのはツラいモンだナ。なぞ、実の処まるで思っていないし自分の正直さを俺は俺を構成する要素のなかでいちばんに好いているけれど先輩に対すると正直さは罪悪感を連れてくるから実にタチが悪いのです。頭ンなかで勝手にべらべらしゃべくり続ける何者か、を、黙らす術が見つからなくてそいつを追い出したくてまた「ムカつきます」とくちにする。
「……ごめん」
 隣でそう言って先輩はちょっと俯いた。横目で窺うと長い睫毛がすっかりと鳶色の瞳を隠してしまっていた。後悔、罪悪感。ぐるぐるっと頭を駆け巡ったそれらを呑み込んでぐっと咽を鳴らして繋いで手に力を少しばかり入れて、
「いえ。俺こそすみません」
 無理ゆって。無理ばっかゆって。ごめんなさい、と、言うと、いや綾部は悪くない、たぶん。たぶんて何、先輩。
「終電、もう行っちゃってたら先輩んチ泊まってもいいですか」
 勿論そんな事は万が一にも無いのだろうけれどそんなささやかな希望染みた言葉を発すると彼は眉を下げて笑った。
「いいよ」
「有り難うございます」
 当たり前に寒い夜で、とぼとぼと歩くふたりの影は頼りなく揺れて街燈に滲んでく。あの角を曲がってまたちょっと歩いてその数分後には駅が、草臥れた駅が見えてくる。いつも此処で降りて、また俺を吸い込んでゆく憎たらしい駅が。
「また明日、きます」
 バイト終わったらすぐ。先輩は俺の首に巻かれたマフラーのほつれを指先で器用に正して、わかった、と、言った。
「気をつけて帰れよ」
 毎夜々々、彼はそう言う。そう言って帰してくれる。帰りたくなくとも帰してしまう。現実みたいなものにたぶん戻してくれる。明日、起きたら、ごく自然な感じで俺はちゃんとバイトに行って、先輩は、まあ見た事なぞないが大学に行くんだろう。その、互い違いなそれぞれの現実とやらの境界線が終電な気がする。何となく、そんな気がする。
「じゃ、また」
 駅の灯りが冷気のなかおとろしいくらいびかっと輝いて、眩しい。手を離す、と、髪の毛をくしゃりと撫でられた。
「また明日」
「さよなら」
 今生の別れなぞではないのにくちが勝手にそう言うので、先輩は毎度苦笑する。さよなら、美しい響きだと思うのに。

 終電に乗り込むと乗客はいつもと変わらず非道く少なかった。ドアの側に立って外を見るが家々の影ばかりが見えて何処にも先輩の姿をみつけられない。チッ。予想した通りの舌打ちが洩れる。電車が軋みながら動きだす。身体が引っ張られる感覚、現実に戻される感覚。瞬きをすると眠くなって、耳にウォークマンのイヤフォンを突っ込んでそのまま、目を、綴じた。
 音楽と、その透き間に機械的な車輪の音。さよなら。呟くと、それはやはり美しい響きだと思った。


 終 電



(2012.02.16)