今夜の月は、春のやわらかい夜に抱かれて安心しきっている、卵の黄身みたいな色をした満月だった。今、借りている1Kのアパートが俺には調度よくって、だから、少し狭いくらいの無機質なヴェランダは居心地が好かった。深夜の2時を廻り、部屋のベッドでは綾部が胎児みたいに丸まって寝ている。そばに誰かのいる安心に、俺はどっぷりと浸ってしまいたかった。誰であってもよかったわけじゃない。綾部じゃないと駄目だと思った。たとえば、朝の日差しがゆっくりと部屋を満たしてゆくその場所に、綾部の寝ぼけ眼がなくてはならないと思った。たとえば、今みたいな深夜のTVでやっている古い邦画をふたりで並んで観ているのなら、肩の縁に綾部の額がくっついていてほしい。
 紫陽花色の癖っ毛やこげ茶の瞳は、日の傾きかけた明るい部屋でみつけると、その潔い正しさに、一瞬だけ見惚れてしまう。
 煙草とライターを寝間着のポケットから取り出して、アルミ製の灰皿を、隅に置かれている洗濯機の上に載せてから煙草に火をつけた。ちり、と先端が赤く燃えて、浅く煙を吸いこむと、ゆるゆるとした緩慢な、それでいて充分な速度で指先までが心地好く痺れた。
 深いため息をするみたいに煙を吐きだすと、ほとんど風のない春の夜に、紫煙は頼りなさげに昇っていった。
 綾部が吸っていた煙草より少し軽い。正直なところ、自分が煙草を吸うようになるなんて想像もしていなかった。それが、案外と容易いジャンプでその境界線を飛び越せた事が、こうして煙草を吸っているよりも驚きだった。
 ぽてん、と浮かんだ月は存在感があった。針で刺せば金色の液体をそのまま流してゆきそうな気がした。
 ふ、と背中にしていた窓の開く音がして、振り返ると、夜目に慣れた瞳が綾部の輪郭を捉えた。
 半袖のシャツから覗く腕は驚くほど細く、そして生々しい疵が幾つも刻まれていた。
 綾部が綾部でなくなろうとした証しだった。
「どうした?」
 声は咽の奥で張りついて、いつもより湿り気を帯びている。
「隣に貴方がいなくなったので」
 そして、綾部は裸足のまま(一足しかないつっかけは、俺が履いている)ヴェランダに出た。ふわり、と前髪が揺れて、すぐに元の位置に戻った。
「気を遣って戴かなくてもよいのに。此処は貴方の部屋でしょう」
「……ごめん」
 拗ねた子供みたいな綾部の口調に、思わず頬が緩む。
 その時、樹々を鳴らしながら風が一迅、こちらに向かって吹いた。近所の公園から飛ばされた新緑の葉っぱが、足もとに何枚か落ちた。
 深夜の2時を過ぎると、もう、青さは何処にもなかった。ただ、黒くて暗いだけの夜に、深緑の葉っぱはしっとりと黒ずんで、いつか綾部と一緒に観た、戦争ものの映画を思いだした。
 綾部は無言で、自分の煙草に火をつけた。それから、ふぅーっと細く、長く息を吐き出した。綾部の匂いと、綾部が吸う煙草の匂いが混じる。
「いつの間にか、貴方がいなくなると、それとわかるようになってしまった」
 何口か煙を吸ってから、ひとり言みたいに綾部が放った。視線を向けると、俯き加減の彼の顔は、やはり輪郭だけがくっきりと浮かび上がっていた。
「だから、少しだけ、不安になりました」
 綾部はいつも、言葉をひとつひとつ、丁寧に紡ぎ出す。本人にはその自覚はないのだろうけれど、俺は綾部が作る言葉を拾い上げる作業が好きだった。
「ごめんなさい」
「謝るなよ」
 俺は灰皿に灰を落として、火を消した。綾部もそれに倣ったのか、疾うに短くなった煙草を灰皿の底に押しつけて潰した。
「俺もおんなじだ」
「……」
「似たもの同士なんだよ、俺達は」
 ひとりで平気だと思っていても、不意にひと恋しくなる。その衝動は発作みたいなもので、俺は綾部のそんな気質を心配していたのだけれど、実は俺も何も変わらない事に気がついた。
 似たもの同士。綾部はぼそっと呟いた。それから、ふふ、と、小さく笑った。
「似ているくらいなら、いっそう貴方そのものになってしまいたかった」
 綾部の、まるで諦めたみたいな呟きを聞こえなかった真似(フリ)をして、俺は軽く綾部の唇に口づけた。



う そ つ き 同 士




[ 2010/05/05 ]