おやすみと彼はいった。額に口づけをくれて、最後に片手を挙げる、当たり前みたいな仕種で貴方は去った。地元の駅の階段を上ってゆく彼の背中を見つめ、やがて消えるまで僕はそこに立っていた。数分も経たないうちに彼は改札を抜け、ホームに降りてゆく。残された俺はほう、と息を吐く。ため息、安堵、いろいろが混濁した呼吸。俺はジーンズの尻ポケットから煙草とライターを取り出して、火をつけた。赤い焔が一瞬、そしてちりちりと燃え始める煙草を一口吸って、煙を吐く。それはため息だったのか、それとも混濁の一息だったのか。雪がちらつき始めていた。屋根のない喫煙スペースには僕しかいない。階段を足早に駆け下りるサラリーマン風の男、派手な化粧の女、男、男、女、男、どちらでもないひと、また男。横目で眺めながら煙を肺に補給する。
 彼は上りの電車に乗って自分のアパートに帰る。俺もまた、この煙草を一本吸ったら自宅に帰る。それはなんだか、今まで何度も繰り返してきた一日の終わりを、映画のスクリーンでもって見届けているように思えた。
 さみしさと停滞(ためら)いと心細さが、存在を未だ赦されているこころを巣食う。
 おやすみと彼はいった。そして優しい唇がキスをくれた。満ちてゆき場を失くした感情が湧きあがるのを覚えた。
 好きと愛してるが濁流のように全身を駆け巡り、眩暈がする。俺は煙草を吸い殻入れに棄てた。
 疲れた身体に煙は滲み、心臓は、不思議な事にまだ動いている。
 自分のいなくなる未来を彼は予感しているのだろうか。俺が消えるその瞬間に彼はおやすみをいってくれるのだろうか。
「おやすみなさい」
 月のない冬の空は冴えて、吐きだした煙はやがて消えた。



ロ ー ル



[ 2010/01/15 ]