花を買う日は、何故かいつも雨が降っている。雨音の隙間から、途切れ途切れに歌が聞こえた。切ない愛をうたう女性ヴォーカルと、鼓膜を刺激するギターのサウンド。先輩が好きな海外の女性シンガーソングライタだ。名前は知らない。 わたしは、英語がまるでわからないとんだ洋楽音痴だけれど、先輩が好きという音楽は何でも聴く。言葉の意味こそわからなくても、優しい声とメロディで、わたしは先輩の気持ちを感じることができた。優しい気持ち。とても。そういうひとだから。 大人になりきれない幼児性を、いつかわたしは抱いていた。それはきっと、これから生きてゆくうえでわたしを構成する一部になりうるのだろう。すべてを甘受できなければ死ぬしかない。 わたしは、絶対に大人にはなれない。そのどうしようもなさに泣いた雨の夜、先輩と一緒だった。わたしは泣いて泣いて泣いて、ほんとうにもうどうしようもなくなるほどに泣いて泣いて泣いて、先輩はわたしが泣きやむまでずうっと両手を握っていてくれた。そして、ふたりで優しい雨の音を聞きながら、とびきり熱いコーヒーを飲んだ。インスタントのチープな味が舌を痺れさせた。わたしは、どうしようもなく孤独で、とてつもなく曖昧で、そしてかなしいほど幸せだった。 花を包むビニルと包装紙が、歩くたびがさがさという音を立てた。雨が傘を叩く音と、女の声と、そしてせわしなく往来を行き来する車と。 無駄なもので溢れすぎた世界でも、美しいと思える一瞬があれば生きてゆく意味になる。雨に濡れた街は哀しいけれどわたしには調度よかった。黄色くてぬるい雨。静かに降る雨はわたしを落ち着かせる。とても優しい雨。 先輩との生活はすべてにおいて新鮮だった。 明日がくる不思議をわたしは信じたし、夜になって先輩と抱き合ってベッドに入ると安心ができた。 自分のアパートにはもう随分と帰っていなくて、もともと新聞などは取っていなかったからたいした問題はないのだけれど、払われつづけている家賃だけが気がかりだった。それも、先輩の笑顔を見ると途端に忘れられた。まったく都合のいい身体だ。 わたしは11月の雨の街を歩いている。淡すぎる花の匂いを携えながら、先輩との帰路を急ぐ。(その実、それほど急いではいない)。 灰いろの雲はほろほろと雨粒を落とし、わたしのビニル製の雑魚傘が音を奏でる。 音楽がフェードアウトして、アルバムがまた一周する。 先輩の本棚の上に、買ってきた花を活けた。底の丸い黒い花瓶にガーベラが5本、ふわりと揺れる。 膝を抱えてそれを見つめていると、なんだかとても満足がいった。ああ、これでいいのだ、と思った。何が、かはわからない。きっと何かがわからないから、わたしは泣いたり苦しんだり笑ったりできるんだろう。 本棚には先輩の好きな作家の著書が一通り揃っている。彼の好きなCDも、ライヴや映画のDVDも、そこに収まっている。 わたしは飽きることなく本棚と、その上に飾られた花を眺めつづけた。 「あやべ、」 突然名前を呼ばれてもあまり驚かなかった。振り返ると先輩が優しい顔で立っていた。バッグを斜めに掛けて、そのうしろに、疾うに背景と化したスーパーの袋が、ひとつ。 「おかえりなさい。」 「ただいま、」 そう言って先輩はわたしの視線の先を見た。花に気がついたようだ。 「ガーベラ」 「はい、」 「そう、……よかった。」 先輩はとても綺麗に笑われ、それで、「あそこの喫茶店でコーヒーを買ってきたよ」と言って、わたしから離れた。その途端、わたしの中で何かが決壊した、そんな気が、した。 迸る感情の奔流は、とてもたやすくわたしの体から溢れた。わたしは、はらはら落ちる涙をそのままに、先輩が袋から牛乳やら卵やらを取り出して冷蔵庫へ入れるのを見つめていた。 わたしは、赦された、と思った。 「せんぱい、」 あなたはわたしがなんで苦しいのか、なんでかなしいのか、なんで泣いているのか、理由なんて訊かないんですね。 それがどのくらいわたしにとって嬉しいことなのか、ほんとうにほんとうに、泣きたいくらい嬉しいことなのか、きっとあなたはわからないままなのでしょうね。 「何?」 先輩の顔が涙で滲む。その向こう側で、彼はとても優しい笑顔を作っていた。 「すきです。」 先輩は息を吐くように笑い、そして、 「ありがとう。」 今日も、花を、ありがとう。そう言った。 titled by 酸性キャンディー |