命が潰えるその最期の瞬間に、出逢えてよかった、と思える誰かが、貴方であればいい、と、思っていた。

 ずっと、何かが胸の奥のほうで騒ぐのを感じていた。幼い頃から、まだ母親と一緒だった頃から、ずっと、それはわたしの心臓に巣食っているようだった。何かが、棲んでいるのかもしれない。相談をすると母親は決まってそう言った。「あんたが悪い子だから、心に悪魔がすんでいるのよ」と。
 幼いわたしはそれをかたくなに信じた。そして、切実に、悪魔がわたしの体を飛び出してこないことを願った。
 夜になって眠る前に、朝がきて起きたあとに、わたしは神様に祈りをささげた。
 祈るしかできないのだから、できることはやろうと思った。
 悪魔は、しかし、終にわたしの体から出ることがなかった。同時に、消滅することも、なかった。


 まぶしいひかりに目蓋を閉じた。やわらかな匂いが先輩のものであるとわたしは気づいていた。隣で綺麗な顔で眠っている先輩の髪の毛にそうっと触れる。くしゃくしゃの癖っ毛はわたしに似ている。他は全然似ていないのに、こんなところばかり似ている。わたしも、先輩のように、もっと、生きることに真剣になりたい、それなのに。
 神様がいないと思い知るのはそんな時だ。先輩にはなれない、と知る瞬間。まばたきの隙間から、いろいろが溢れる。わたしは何もかもを失くしてゆく。いずれは先輩もそのうちのひとつになってしまうのかと思うと、わたしは、ひたすらに悲しかった。
 うしなえないと思う。先輩だけは。他の何を差し置いても。わたしには彼が必要なのだ。もしも、彼が離れてゆくのなら、それでもわたしは、貴方が必要だと叫ぶのだろう。ひとりじゃいられない。こんなつもりは、毛頭、なかったというのに。
 ベッドから降りた。フローリングの床は冷たく固く、わたしの薄い足の裏はたちまち冷えた。もう随分と秋が深まっている。
 感情を失くしたその時からわたしは考えることをやめ、ただ、生きていた。
 季節の流れを感じることもなくなった。すべて消えてしまったから、必要がなかったから、荷物はすべて棄てていった。
 改めて見まわすとわたしには余計なものだけが残っていた。それを、すべて棄てた。
 そうしたら体がほんの少しだけ軽くなった気がした。
 わたしはそうしてみなもを漂うくらげのように、形のないままふわふわと浮遊しはじめたのだった。

 先輩の部屋はワンルームで、本棚とデスクとTVとCDプレイヤーがメインと呼べる家具だった。キッチンは寝室と同化していて、小さな冷蔵庫がベッドのおしりの場所に置かれている。
 シングルベッドに男ふたりが眠るというのはとても難しいと思ったが、先輩が先に寝転がり、空いたスペースにわたしはころり、と収まってしまった。わたしは、いつの間にかこんなに小さくなっていたのだ。
 先輩に抱きしめられて眠る夜は怖い夢を見ない。そのかわりに、毎晩同じ夢を見る。とても美しい夢で、それが夢であるとわたしは認識できるのであるが、夢だ、と意識した途端に夢から醒める。夢から現実にひょいと放り出される感じ。その繰り返し。よって、わたしは一度としてその夢を憶えて目を醒ましたことがなかった。
 夢はとても果敢ない。そして、美しく残酷だ。
 わたしは現実においてわたしを認識できているのだろうか?
 わたしは、何処までがわたしで、何処までがわたしではないのか?
 先輩と繋がった瞬間にわたしは既にわたしではないのかもしれない。わたしは先輩の一部となって生きていてもうわたしには戻れないのではないのか。
 そんなことを考えながらヴェランダに出た。
 さら、と前髪を風が浚う。少し肌寒かった。
 スウェットの上にカーディガンを羽織っただけの恰好で、わたしはそこで煙草を吸った。
 煙を4回吸って、突然やりきれない気持ちに陥ってしまった。まだ長い煙草を手首に押しつける。じゅ、と肌を焔が焼く。鋭い痛みが走り、しかし、わたしはいつもそんな不毛が過ぎる行為によって満足がいく。納得する。生きている証明だと信じられる。それだけがわたしであったし、それ以外はあまりにも曖昧だった。
 不意に、はながみたいな、と思った。はな。美しい響きだ。はな。くらげ、と同じものと感じる。どこにゆけばはながみられるだろう。
 吸い殻をプラスティック製の携帯灰皿に棄てる。いつか先輩が買ってきたというわたしのための灰皿は、先輩が大学に行っている間に処分した。デスクに置きっ放しになっていたそれが消えても、先輩は何もいわなかった。たぶん、意味がわかったのだろうと思う。彼はとても敏いから。
 光はさらさらと肌を滑ってまろやかな陽だまりを作る。わたしの影が揺れる。
 秋の光は透明で綺麗だ。何ものにも遮断されず真っすぐにわたしを射抜くから、いつもわたしはわたしを持て余す。
 非道く穏やかなのに何処かこころもとなく、そうだからきっとわたしの心臓にはなにかが棲んでいる。
 決して広くはないヴェランダに蹲り膝を抱えた。どうしよう、と思った。なにが、なにを、どうしよう。
 は、と息を吐いてそのたやすさに少しばかり驚き。
 その途端に、命を投げ捨てたくなるあの感覚が蘇った。
 わたしは息をして心臓を動かして血をぐるぐるぐるぐる体中に回してそうして、結果生きることを選んだ。誰にも望まれていないことは知っていた。それでも、わたしは今を生き今日これからを生き明日もきっと生きてる。
 馬鹿みたいだと思った。
 陽だまりに落ちていた視線を空へ投げ、あまりに青い色に体が竦む。
 そうして驚きながら、泣きながら、でもきっとまだ生きようと思うんだろう。
 たとえ思えなくなっても、生きていたいと思うのだろう。
 夜になった先輩のまろさを思い出す。感情という感情が排泄される感覚に酔っているうち、わたしは無性に先輩に触れたくなった。でも次の瞬間わたしが何をもしないことをわたしは知っていて、そして先輩が起きるまで空を見つづけているんだと、そう信じた。
 墜ちてゆくのならきっとひとりだ。
 心臓に棲むなにかが小さく頭を持ち上げて、わたしは、それはきっと蛇みたいなのだろうと思った。




心 臓 だ け は こ ん な に も あ た た か い の に




titled by 星が水没
[ 2009/11/04 ]